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自分と仲良くなる

そういえば前回の記事では擬態することになった理由を書いてなかったので、ちょっとそこら辺のことを思い出しつつ書いてみます。

決定的な出来事が何だったかは遠い記憶なのでもう覚えていないけど、十中八九、自分の激しさにほとほと嫌気が差した、というのが一番の理由だっただろうと思う。
基本的には生意気ガールだったから、昔から兄とはよく喧嘩をしたし、父親からは自分の激しさを否定される言葉をかけられていたし、クラスの女子との関係にも(激しくぶつかるなんてことは無かったけど、内面の激しさの反動で)くだらなさを感じたりしていて、自分の中にある激しさに自分自身が手を焼いていた記憶がある。

で、起死回生「自分を変えてしまえばこのイザコザから逃れられるかも?」といった発想で頭をぐわっと転換させて、擬態への道を選択したんじゃなかったかな。たぶん。

なにぶん昭和生まれだからか、「四の五の言わずに動け!」みたいな体育会系的精神が多分にあって、「擬態なんてしたくないよ〜」と言う自分がいたとしても、もう一方の自分は「問答無用!」とばかりに片側の自分を切り捨ててた気がする。
(ああコワイ)

そして月日は流れ、昨年の春、「擬態なんてしたくないよ〜」と言って切り捨てられていた側が長い眠りから目覚め、ムックリと起き上がってきた、というわけ。
いいえ、正しくは、切り捨てていた側が本来の自分を思い出し「早く起きろ〜〜!!」と、まるで暴君のように心の扉をドンドン叩いて、無理矢理起こしに来たんだよね。
ところが、切り捨てられていた側としては長年閉じ込められていたのが癇に障ったのでしょう。その後、暴徒化し、事あるごとに神経症的にこの暴君を苦しめたりしてきて、もはやどちらが暴君か分からない状態に。
(ああコワイ)

という感じで、最近まで本当にすったもんだしていたんだけど、この経験から得た教訓が一つある。
それは、自分と仲良くしなきゃね。ということ。

私の場合は、現状から逃れるため、無理に自分を眠らせて擬態をし、正面から向き合うことを先送りした自覚があるけれど、人間は遅かれ早かれ、人生のどこかのタイミングで、心の奥にある「自分」というものと対峙しなければならない時が来るのだろうな、と思う。
その人の特性によっては、そういったものを避けて通ることができず、日常的に向き合わされている場合もあるだろう。
だけど、そんな時こそ、自分を否定したり、心の奥の望みを無視したりしないで、自分自身と仲良く手を取り合って暮らしていってほしいなと思うんだよね。
どんな自分も自分だから、受け入れてあげてほしいな、と。


以上、ツラツラと軽めの筆致で書いてきましたが、本当のところは幼少期からの出来事含め実質8割増しでヘビーだったということを最後に申し添えて、筆を置かせていただきます。
(ああコワイ)

おしまい。

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