寺嶋瑞仁の生態と成長について記載する(2023年9月時点)
本記事は寺嶋のこれまでの(2023/09/11)の活動内容などをまとめた記事になる。
寺嶋瑞仁(テラシマ ミズヒト)
1993年5月11日生まれ
和歌山県有田郡出身
静岡県浜松市在住
経歴
2000年 湯浅町立山田小学校入学
2006年 同小学校卒業
2006年 和歌山県湯浅町町立湯浅中学校入学
2009年 和歌山県湯浅町町立湯浅中学校卒業
2009年 和歌山高専 知能機会工学科入学
2014年 和歌山高専 知能機械工学科卒業
2016年 長岡技術科学大学 機械創造工学課程 卒業
2016年 株式会社ホープフィールドをFabmobiと島風技研(寺嶋が代表をつとめるチーム)で設立 CTO就任
2016年 丸栄器械製作所の協力のもと「ものづくり総合支援施設 匠の駅」を設立し運営を実施 副会長に就任
2016年 株式会社CuboRexを設立 代表取締役に就任
2016年 長岡技術科学大学 修士課程に入学
2018年 長岡技術科学大学を中退
2019年 CuboRex第二創業
2022年 西山浄土宗にて加行を満行する
2023年 CuboRex代表取締役を退任
2023年 株式会社MOVeLOTでCTOとして搭乗型ロボットEXAの開発に従事 その後退任
2023年 日本維新の会 衆議院静岡県第8選挙区支部長に就任 「試せる日本」を作るために活動
主な活動とそれに伴う活動実績
高専時代:ひたすら高専ロボコンに熱中(2009年~2012年)初年度以外はすべて設計班でマシンのメイン設計をつとめる.2010年に全国大会準優勝
また卒業研究では被災地人探索ロボット(通称レスキューロボット)を開発し,学内での全学科合同卒業研究成果発表会で最優秀賞を獲得
また上記研究内容で特許を取得
大学 :学生ロボコンに設計班長として打ち込む.さらに高専時代のレスキューロボット(キューボ)の開発を独自に推進
大学内で自由なものづくり活動ができないという理由でものづくり総合支援施設「匠の駅」を丸栄器械製作所の協力で設立し,工房設備を
一般に開放した.
株式会社ホープフィールドをFabmobi代表の嘉数と設立,CTOに就任 同年寺嶋脱退
株式会社CuboRexを当時の技大の友人と社外取締役とで設立,代表取締役に就任
CuboRex:主にエンジニア、営業、経営者として活動
受賞歴・活動歴 :
2010年 高専ロボコン2010 全国大会準優勝
2014年 和歌山高専 全学科合同卒業研究成果発表会 最優秀賞
2016年 世界最小雪上モビリティ「CuBoard」の開発に成功。基幹技術であるクローラモジュールを長岡造形大学に納品
2017年 jamesdysonaward国際トップ20入賞
総務省 異能ジェネレーションアワード「その他業務実施機関がおもいつきもしない分野」部門賞獲得
長岡技術科学大学 「その他功績」部門 学生表彰獲得(大学の表彰規定に該当科目が存在せずに仕方なく)
2018年 Jetro Inovation program in深センに採択
kawasaki zentech acceleratorに第一期生として採択
2019年 汎用クローラモジュール「CuBase」を開発し一般販売を開始した。創業時での目標の一つであった「自身の研究成果を社会実装する」を達成した。
手押し一輪車電動化キットを寺嶋の地元である和歌山県有田郡のみかん農家10件を対象に実証実験を開始した。
Etic makers4期生に採択された
趣味:ものづくり全般とにかく大好き,バイク,ウィンタースポーツ,バレー,バトミントン,執筆活動
好きなこと 機械の設計・製作,企画づくり
好きな食べ物:天ぷら、お刺し身
苦手な物 :コーヒー
twitter: https://twitter.com/simakaze01
facebook: https://www.facebook.com/simakazegiken
さて前置きと自己紹介を終えたのでいよいよ本題に入っていく。一応記憶にある限り生まれたときから書いていくつもりだがだいぶ文章が長くなりそうなので気が向いたら書くことにする。
生まれ
私自身は和歌山県有田郡にある法樹寺という西山浄土宗のお寺の住職の長男として生まれた。周辺はみかんの一大産地ということもありとにかくみかん畑が多いのが印象的だった。山や川などいくらでも遊べる場所があり、そういったところで文字通り野山をかけまわって遊んでいた。(らしい 流石にこのあたりの記憶はないので親や親族から聞いてる).
小学生
小学校は地元の湯浅町立山田小学校に通っていた。6学年で全校生徒で60人を切るような小学校で今思えば決して多い人数ではないことがわかる。実際私がいたクラスだと10人位の人数だった。
小学校時代は自分の遊び道具も含め色々作っていたりした。今も記憶に残っているものとしては弓矢や木製のナイフやちゃんばらに使う木刀(誕生日プレゼントだったかクリスマスプレゼントでもらったナイフで作った)各種水鉄砲に自由研究で小型発電機や牛乳パックで紙を作ったりしていた。母方の祖父がもともと海上自衛隊で技術職についていたこともあり遊び道具など色々つくり方を教えてくれた。また両親からは言えばたくさんの本を買って読ませてくれた。今思えばかなりの金額だったような
実家の近くには家族ぐるみで仲良くしていた工場もあり文字通り野山と畑、川、工場が僕の幼少期の遊び場だった。
また小学生にあがるころから実家のつとめであるお寺のしごとを手伝うようになった.手伝うといっても父である住職のお念仏も意味も何をいってるかもわからず聞いて話そうとするだけである.それでも門前の小僧習わぬ経読みのことわざにあるように覚えてしまうもので小学生の時代にはがっつりよめるようになり,経本なしでお彼岸の時期など坊さんの姿で読経をしていた.
6年のクラス担任が今でも印象的でかなり怖い印象をもつ風貌をしている人だったがなんだかんだと評価してくれて今も定期的に交流を持っていたりする(ちなみにその人もお寺の住職である)。またこの時に祖父の影響もあり柔道をはじめた.
公務員である教師の中にはお寺の住職を務める人も少なくない.小学校から高専にかけて自分の担当教員をしてくれた人の中では3人の先生がそれにあたる.私自身も寺の長男としてお寺を次ぐものとして周りからの期待はあったのでどうやって自分のやりたいこととお寺を継いでいくことを見定めていくか考えることは多かった.ちなみに私自身は26歳時点においてお寺をつぐことにおいて前向きであったりする.
そして一番強い印象をうけたのは高専ロボコンだった。高専ロボコンの映像や高専に訪問する機会があり、実は小学生の時点で高専にいくことを考えていた(多分決意していた)。
中学生時代
小学校を卒業して地元の湯浅中学校に進学した。自分にとって数人から多くて数十人の人としか一度に交流することしかなかった自分にとって数百人が当たり前のようにいる空間はとにかくなじめなかったのが記憶に残っている。
僕的には中学校時代はかなり辛い記憶が多い。なにがつらいって”いじめ”である。かなりこっぴどくいじめを受けていた。直接的な暴力から後ろの席からシャーペンの芯にノリをつけて背中に投げつけられたり色々ないじめをうけていた。
直接的な暴力については柔道をしっかり学んでいたこともあり1対1だとわりと勝てたのだが相手もそれを学んで複数で行われるようになり流石にその場合はかてなかった。数は正義なんだなーと学んだ。ちなみに中学時点で柔道の有段者となっており,黒帯をまいていた.柔道自体は単独の相手を傷つけず確実に無力化することにかけては最も優れた格闘技の一つであると私は考えている.実際私自身は身長160cm前後と決して男性として大きなことはないが自分より大きな相手を投げ飛ばすことは可能であり.無力化も可能である.ただし反面打撃技など瞬時に相手を無力化できる技が少ないため,多数の相手だと脆さがめだつ.実際いじめられていた際に一人をなげて抑え込みまでいくことはできたが他の数人にフルボッコにされた.
また当時の中学校の柔道の顧問の先生にはいじめの対処に柔道をつかったのがしれてかなりきついお叱りをうけ,ずっと正座させられた.当時の柔道の立ち位置として教育やスポーツとしての側面が強いためいじめに対する護身として使うのはフェアではないと指導をうけた.
中学校2年生で柔道部を引退して3年生のときに同じ塾に通っていた女性と交際をはじめた。
中学校3年で部活も引退し受験シーズンに入った。高専の受験については推薦資格をとることができたので面談と小論文で無事うかることができた。小論文のテーマは「今実用化されている技術において人類において最も必要とされる技術は何?」的なことを聞かれたはずでそれについては磁性冷凍技術について述べた。
高専時代
2009年 いよいよ憧れていた和歌山高専に入学することができた。僕は当時新しい呼称に変わった知能機械工学科(それまでは機械工学科)を学科として選んで入学した。
ロボコンへの熱中
高専ではとにかくロボコンに熱中しまくった。
入学したての2009年は先輩達から指導をもらいつつ先輩達がかきだす図面に基づいてロボットの部品の加工をひたすら実施していた。自分もこういったロボットを自分の描いた通りに生み出したいと強く思ったものだ。
2010年(高専2年目)にはメインの設計を任された。当時のルールは二足歩行ロボットが人を乗せた台車を引いてゴールに向かうという内容だった。僕はその時、人が乗る台車と、ロボットと台車をつなぐ連結機構を企画、設計、製作と全て任せて貰い高専生活2年目にして全国約120チームの中から全国大会準優勝をかざることができた。
激走ロボ力車
その後も機械の設計者として後の大会も2012年(高専4年)まで続け全て全国大会に出場しベスト16とベスト8になった。いずれも全国大会で優勝しきる自信があっただけに優勝できなかったことが悔しい思いでである。
高専4年の時重要な出会いがあった。
現在日本風洞製作所の代表をつとめるローン・ジョシュアとの出会いである。鳥取大学で開催されたウィンターサイエンスキャンプにて小型風車を作って実験し発表するキャンプが開催され自分は興味をもって参加した。そこでその後九州大学に進学するローン・ジョシュアと出会った。彼から当時進学する予定がなく就職するつもりでいてた自分に対して、進学することでより面白いものづくりを続けられるよとただされ進学することを決意した。その後も寺嶋の数少ない親友として交流をもっている。
高専4年の工学実験で作った成果物 なお実態は強度がたりず半自動缶潰され機だったもよう
卒業研究
高専の5年目には卒業研究というのがありそこでその後の人生に大きな影響を与える研究に従事することになった。それがクローラ機構を使った「人探索レスキューロボットの開発」である。
僕が所属した知能機械工学科の佐野研究室では主に電子制御を伴うロボット開発をメインに行っている研究室であった。教授自身がロボコン部の顧問ということもありがっつり取り組めた。最終的に2020年現在保有している特許を寺嶋個人の名義で出願し、4学科合同による学科ごとの代表者による卒業研究発表会において最優秀特別賞を受賞することができた。
なお当時開発したクローラロボットについては2019年時点において和歌山高専のラウンジにて飾られている。
高専時代については下記の記事も参考にしてほしい
高専卒業後の進路については長岡技術科学大学に進学することにした。進学先として選んだ理由としては
・ロボコンが強い
・高専の先輩がいる
・雪がつもる(雪が積もる環境への憧れ)
・進学過程が楽(推薦とってると志望書おくるだけで受験手続きが完了する)
・クラスメイトが行かない(高専の中でもあまりクラスメイト達と馴染めてなかった)
以上の内容が挙げられる
その他高専時代における活動の中にはみかんのバイトをしていた経験もある。そのときのバイトの経験が後にEcatkitの開発に生かされるとはそのときは全く思っていなかった。
高専時代の総括
高専時代はとにかくこれから自分が作りたいと思うものを描き作り出せる基礎となるものを大きく学べた時代といえる。
大学時代(3年生、4年生)
2014年に長岡技術科学大学に進学した。進学後は高専の卒業研究の続きがやりたくて担当の先生に相談したり、大学にある工作センターを利用したかったのでセンターの工場の技術スタッフにお願いしたが研究室の許認可及び研究費からの費用の捻出がないと利用できないとの打診を頂くことになった。
(このときの経験が後に長岡市に日本最大規模の一般利用可能な完全民間運営のシェア工場の設立に関わる)
主に大学3年から4年にかけてはロボコンを引き続きがんばっていたこの年はロボットでバトミントンをするという競技内容でこれまでのルールからはかなりかけ離れたルールだった。この年はCuBoの開発や活動、知財の関係、彼女とのお付き合いなどに意識がいっており正直ロボコンに集中しきれずチームメンバーのみんなには迷惑を大きくかけてしまったと感じている。当時一緒のチームメンバーだったみんなにこの場をかりてあやまりたい。
高機動クローラロボットCuBoの開発
大学の3年の時には学生ロボコン(2015)の活動を実施しつつロボプロの設備と当時在籍していたレスキュー工学研究室の機材を利用して高機動クローラロボットCuboの開発をその年の9月にある学祭まで行っていた。これは当時開発した通称「お風呂のフタ式クローラベルト」の性能評価と速度が遅いと評価されるクローラロボットで速いものを作りたいという欲求から実施されている。
作った高速クローラロボットCubo ver2 についてはその後、当時立体機動装置の開発をしていたローン・ジョシュアとMakerFaireTokyoに出展したり特許の出願をしていたので日本発明学会にだしたりしていた。
MakerFaireTokyo
日本発明学会
2015年には特許の取得に至っている
はじめての雪国での生活の経験
これまでの和歌山の生活では縁のなかった新潟という豪雪地帯における雪国の生活を経験できた。最初の一週間は雪が積もった環境をすごく楽しんだ。しかしその後は日々の生活への影響がとても大きなことがわかった。それと同時に今住んでいる長岡の環境が特に雪への対策を意識した都市構造であることがわかった。
・雪国における移動手段
雪国にすんで最も印象深いのが移動手段に関する問題である.当時私がメインの移動手段としていたバイクは完全に冬の間運用不可能になってしまった.幸い大学生のときは学生寮に住んでいたので冬の間大学にいく分には問題なかった.しかし他の場所に行きたいときはバスだと実質長岡駅に向かう方向しかないためそれ以外の場所には友人に車を出してもらうなどしていた.
実際問題雪国においては徒歩を除けば実質雪国での移動手段として個人が保有できるのは車だけでありそれ以外のものは降雪のある冬の間は機能しない.(一部自転車やバイクで移動している人はいるが特殊例としてあつかう)
えた結論冬の雪国でのバイクは無理!!(そりゃそうだ)
・大学の設備環境
僕が進学した長岡技術科学大学は大学の構造そのものに複数の特徴がある。
そのうち大きな特徴の一つが建物の多くが二階で繋がっている点である。これは雪の積雪の影響を考えた構造である。これにより地上階が積雪でうまったとしても2階の隔離部分で建物内の往来が完了できるように配慮されているためである。
また大学内に至れりつくせりな福利厚生施設も存在する。大規模な購買施設(下手なコンビニより規模が大きい)や複数の食堂(3箇所存在)するだけでなく散髪屋さんやクリーニング屋さん、はては銀行ATMに銀行窓口も決められた日に出張所として存在する。他の大学と比べたことがあるわけではないので具体的にはわからないが、学生数2千人規模の大学でここまで福利厚生が整っている大学はそうはないのではないだろうか?
また雪国だからこその楽しみも満喫することができた。雪国ならではの楽しみも存在する。大学4年はこれまでの人生で最も濃くそのごの人生に大きな影響を与えた年の一つであるといえる。
匠の駅の設立・運営
これまでは高専の設備や部活の設備を利用して作りたいものを作ってきた。しかし大学に入ってからは大学の工作センターを利用できず、かといって本来ロボプロの活動のために利用されている部室の設備を利用し続けることも難しくなってきた。
そこで大学の技術支援センターにいる岸本さんに相談してものづくりができる環境が他にないか相談したところ丸栄機械製作所の会長である岡部福松さんを紹介してもらった。岡部福松会長は自社において現在遊休工場となっている設備を自由にものづくりができる環境にしたいと考えていた。そこで私自身も作りたいものを創るための設備と仕組みが必要であったことからものづくり総合支援施設「匠の駅」として設立・運営を実施していくことにした。
http://takumi-no-eki.rgr.jp/blog/
これまで高専や大学等で設備導入や設備のメンテナンスを実施してはきた。しかしながら生み出すための仕組みから作った経験はなかった。匠の駅では丸栄機械製作所さんはじめ地元の企業の協力を得ながら環境を再構築し、設備を整え、利用できる仕組みを作ってきた。これによって欲しい物を生み出すために生み出す仕組みから生み出すというとても貴重な経験をすることができた。
ここで実践できたこと・学べたことはとても貴重な経験であった。今後長岡で事業を実施していく上で大きな糧となり長岡での重要な基盤となった。
株式会社ホープフィールドの創業
これまでの活動は主に創ることに特化した活動であった。僕自身そのことに対して自身の欲求を満たせており、特に問題も感じなかった。
そういった中で大学院の先輩である山下先輩が僕にリバネスという会社のテックプランターというテック系のビジネスプランコンテストに一緒に出場してみないかと声をかけてくれた。最終的にその時にきていたFabmobi代表の嘉数と一緒に最終選考会に出場し見事特別賞を獲得した。
その後同様にテックプランターでつながった縁で正直今どういった状況かよくわからないまま株式会社ホープフィールドの創業メンバー(技術研究員)として参画した。ホープフィールドは中山間地農業における課題をテクノロジーの力で解決することを目指した組織である。代表の望月さん自身研究者であり、またお茶農家の倅として農業の実施に直接的に関わっていた。その時一緒のチームであった嘉数はCOOとして就任した。これまで会社とは務めるものだと思っていたがやりたいことを持って自分で会社を創業するだってできることを実感することができた。私自身はクローラやロボコン、匠の駅での活動成果をかわれてホープフィールドにおいてエンジニアとして活動する形で参画することになった。
ちなみに嘉数はFabmobiというチームにおいて人生における移動手段をより楽しくより多様性にとみ効率化できるモビリティ社会の構築をめざしたチームを作っていた。そこで得た提案としてクローラの技術で乗り物を作ってみてはどうかとの提案を受けた。そこで作ってみたのが下記のものである。
これはいってしまえば上記でのべた高速クローラロボットCuboの上に人がのるための台座をのせただけのものである。しかし自分としては大きな発見であり,今後の人生において大きな意味のある一歩だった.それというのもこれまでの人生において自身で生み出してきたものの多くは自身に直接作用するようなものはなく遠隔で操作するロボットであったりなにか作業を代替する器具であったりした.今回の事例のように寺嶋自身を走行させるようなマシンを生み出したのは初めてである(2010年の高専ロボコンで一応作ってはいたがその時は人がのる台車とロボットへの連結機構のみ).これらに経験がその後の乗り物の開発において大きく作用した.
OM製作所への実務訓練
私が在籍している長岡技術科学大学には実務訓練という制度が存在する。これは大学4年の後期に半年間企業づとめを行うことで大学の単位を取得する仕組みである。私はこの仕組みで地元の工作機械メーカーで大型旋盤を開発製造しているOM製作所に勤めていた。ここにおいて今まで自分なりに研鑽してきた技術を社会でも通用するレベルまで昇華することができた。
またここで得た知見を実務のおわった夜間においてホープフィールドの業務において大きく役立てることができた。これまではロボコンや個人のものづくりの範囲で活動することが多く、他者に必要とされるものや、社会に実装することをめざして創るようなことを意識することはなかった。しかし実際に相手からの要望を聞いてそれにもとづいて必要とされるものを生み出していく中でロボコンで培った経験と実務訓練先で学んでいたプロの設計技術をフルで活かせている感触があった。また新たな学びとしてこれまで部品を創るといば自分で設計して削りだして組み付けることが僕にとっての普通であったが設計して製造企業に発注することによって必要とする部品を調達できることを学んだ。
会社創業
2015年の10月頃から関わっていたホープフィールドであるが拠点が東京と静岡であることから都内にいくことも増え、その過程でホープフィールドと直接関わりのない人たちとあう機会も増えた。その中にはその後弊社の創業メンバーとなる方もおり自身のプロダクトで創業することを勧められた。
その後ホープフィールドから依頼をうけていたクローラロボットの納品を終えた段階で僕は約半年の期間ではあったがホープフィールドを離脱することを決意し、メンバーのみんなに伝え離れた。
理由としては
・自分自身の意思決定で自分で作りたいものが明確にうまれたこと
・メンバーの多くが都内で活動していたのに対して新潟という遠隔地で作業をしていたためかなり疎外感が強かったこと。(実際遠隔のミーティングだと当時は内容を聞き取るのが難しく発言も十分にできなかった)
・今後どういったことをどうやって実現していくのかといった部分が自分からみて不透明かつ資金的にも不安だったこと
が挙げられる.
ホープフィールド脱退後はいよいよ共同創業者とともに会社の創業準備を行っていった.その過程には長岡技術科学大学の起業支援センターの支援やものづくり総合支援施設 匠の駅の支援が大きくあった.なにせ会社の経営など何もわからない状態からのスタートであり,会社の登記の仕方もわからなかったのである.会社の創業準備は2016年2月頃から開始し同年3月31日には完了した.3月31日にこだわった理由としては明確に長岡技術科学大学の学部生での創業という扱いにしたかったからである.当時の長岡技術科学大学には学部生で創業した事例は存在せず,その点に魅力を感じたためである.
また創業にあたって登記する拠点についても色々なやんだ.最終的には匠の駅の駅長と寺嶋で設立・運営していた匠の駅で登記することにした。ホープフィールドの業務関係で出会った東京の会社の社長の協力のもと株式会社CuboRexを学部で創業した。これは当時新潟において最年少(22歳)での創業である
大学時代の総括
大学時代は高専時代から学んだことを活かし、自分にとってのほしいものを追求しつつこれまで小さかった世界が一気に広くなった時代といえる
2016年:会社創業・大学院時代
前年度に株式会社CuboRexを創業し長岡技術科学大学大学院に進学した。株式会社CuboRexでは主に雪国での生活に貢献する移動手段を開発することにした。
匠の駅の中に正式にCuboRexの事務所を構えて活動できるようにした。
またこの年、人生ではじめてクラウドファンディングに挑戦した。結果は目標金額に全然届かなかった。ただ失敗から学べることを多かった。特に当時は世の中に出せば売れると思い込んでいたこともあり実際にそういうわけにも行かないことなどよい学びを得た。
掲載記事(2016年11月26日 日本経済新聞
雪上走行に成功
2016年4月ごろから本格的に開発を開始し翌年1月長岡に雪が降り積もった年に雪上での人を乗せた状態での走行に成功した。めちゃくちゃうれしかった
主エンジニアの脱退
これまで弊社で電気やソフトを担っていた仲間が大学への復学を期に脱退した。一旦一人での活動になった
会社創業2年目(2017年)
CuBoardの開発2年目
昨年度開発したCuBoardであるがはっきりいって雪上でうごくようなレベルのものではなかった。確かに短時間であれば雪の上を走ることもできるが短時間であり、更に致命的なことに旋回することはできなかった。この年は少しでも走行性能を向上させることに夢中になった。また新たな活動メンバーとして長岡技術科学大学の後輩や留学生に参画してもらった。この年にはある程度まともに雪上で走れる状態になった。
各種受賞
この年はこれまでの活動実績が認められていくつかの大きな賞も受賞頂いた
Jamesdysonaward 国際トップ20
そのときに提出した動画である。
異能ジェネレーションアワード その他部門賞獲得
チーム崩壊2回目
チームを構成していた大学の後輩たちが会社待遇に関する問題などにより退職。またその後、創業時やその後色々とアドバイスをもらっていた社外取締役もお互いの今後の会社方針の相違があり脱退し本格的に一人での活動となった。
会社創業3年目(2018年)
長岡市から東京へ
さすがに今回のチーム崩壊については私も大きく問題を感じ、また今後長岡でやっていくことの難しさも感じたため一度長岡から東京で活動を再開することにした。長岡でのお世話になった方との縁で東京での活動拠点を確保し事業を開始した
キックボード型CuBoardの開発
またこれまではスケボー型のCuBoardを創ってきていたが、もし本格的に公道での乗り物のほうがいいということであればスケボー型よりもキックボード型のほうがより可能性が高いというチームメンバーの意見によりキックボードタイプのCuBoardを開発した。
ただまだまだ課題も多い状態であった。プロトタイプとしてはできたもののまだまだ耐久面はおぼつかず、1kmもはしれば車輪がとれるか履帯が切れるような状態だった。さらに致命的だったのが量産面の計画が全くたっていなかったことである。
経産省のサンドボックス制度の応募
またこれまでよく問題にあげられていた公道での利用問題についても、しっかり向き合うことにした。今回は法務を担当していたメンバーを中心に経産省が行っている規制のサンドボックス制度に応募し、CuBoardを運用できるようにしようと試みた。ただ残念ながら結果としては「現状のルールでだめだから駄目」というお決まりの返答をいただくに終わってしまい
チーム崩壊3回目
チームメンバーの一名が会社の資金を使いこんでいたため解雇した。それに伴いまた一人で事業をすすめる状態になった。
大田区で修行
会社創業4年目 第二創業(2019年)
ETIC Makers への入塾
初めてのエクイティの資金調達
副社長の就任
昨年のこともあり今後事業を行って行く上でも経営面を信頼のおける人にお願いする必要性を感じるようになった。そこで2015年にリバネスで知り合い一緒に事業を行っていたFabmobiの嘉数に相談し、結果CuboRex副社長にむかえ新しい事業体制で実施していくことになった。
初の研究成果の社会実装
これまで正直なところ会社として売上をあげることをあまり意識せずとにかく素晴らしいCuBoardを開発することに夢中になって活動してきた。しかしながらこれまでの事業活動のなかでそれでは
汎用クローラモジュール:CuBaseの事業実装
猫車電動化キット:Ecat-kit
匠の駅からの撤退
2020年 CuboRex創業5年目
東京の新オフィスへの移転
CuboRex和歌山事業のたちあげ
JAアクセラレーター、HAXアクセラレーターに採択
初めてハードウェアベンチャーとJAが連携して製品の販売を開始
CuGo V3を開発・販売開始
2021年 CuboRex創業6年目
製品を全国に売り込むべく全国行脚
モジュール展開事業からソリューション展開事業へ
コロナにかかり死にそうな目にあった
2022年 CuboRex創業7年目
お寺の修行
浜松市での事業展開
精神状態を大きく崩す
2023年 CuboRexの社長退任、政治家の道へ
CuboRex代表の退任
「試せる日本」を作るため政治家の道へ
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