改めて考える🤔 ライブの楽しみ方って?
6月4日のぴあアリーナでのライブが、CSのチャンネルで放送された。
わたしはこの放送を、指折り数えて待っていた。
あの感動をもう一度…というよりも、感動を完成させるために待っていた。
ちゃんと味わうために待っていた。
むろん、こうなったのは100%自分のせいである。
これまで意識したことがまったくなかったのだけれど、どうやらわたしのライブの楽しみ方は、かなり耳偏重タイプのようだった。
とにかく大音量の好きな音楽に晒されるのが幸せ過ぎるので、じっとしていられなくて動きまくるから視野が安定しない。
加えて無意識に目を閉じてしまっている時間帯もあると思われる。
それで、目からの情報が極端に残っていない。
しかも、自分ではそのことに今の今までずっと気付いていなかった。
このnoteにライブの記憶をつらつらと書きつけているうちに、改めて思い当たったのだ。
おかしい、視覚的な記憶が圧倒的にないぞ…と。
そしてつくづく後悔した。
もったいなかった。
本当にもったいないことをした。
だってAgust Dの中に流れているのは、バンタンの血じゃないか。
バンタンと言えば、音楽の中に流れる何かを身体で表現することのできる、稀有な存在だ。
わたしが一直線にバンタンへと落ちていった理由、それは視覚を駆使して音楽を見せてくれるという、自分の知らなかった世界観を与えてくれた音楽妖精みたいな人たちだったからだ。
なのにわたしは、五十路らしい頭の硬さで、馴染みの方法でしかあのライブを楽しまなかった。
あと、理解しきれていない韓国語を使って、一緒に歌うということに集中していたせいでもある。
耳と口をフル酷使したら、目までは無理。
そんな不器用なわたしの痛恨のミスを挽回させてくれるというのが、今回のTV放映だった。
そして観た。
まじまじと観た。
目にしたものは、想像以上だった。
Agust Dの楽曲には、決まった振り付けがあるわけじゃない。
だけれどもステージ上で縦横無尽にラップし、歌い叫ぶユンギさんを見ていると、そのパフォーマンスひとつひとつからまるで音がしてくるような気がした。
オーケストラの指揮者の動きからは音が鳴っているような気がすることがあるけど、それとよく似ている。
ユンギさんの内部で鳴っている音を、視覚で見せてもらっている感じ。
しかもそのひとつひとつの動きは、しなやかでとっても魅力的ときたもんだ。
これは本当に、それまでやったこともなかったダンスをアイドルとして生き残るために必死に習得したというユンギさんの、その血汗涙の努力の賜物なんだと思う。
普通のミュージシャンでは、音楽に伴う動きをこんなにバリエーション豊かには持っていなくないか?
つまり、アイドルでもある彼は間違いなく、他よりもひとつ多くの武器を持った、特別なミュージシャンだということになる。
ファンとしてとても誇らしい!
あと、立見席という距離感からは決して窺い知ることのできなかったあの日のユンギさんの細かな表情を、画面を通して余すことなく見ることができたのは僥倖だった。
オンラインストリーミングで観れるようになっていた公演は、この6月4日以外をすべて視聴したけれど、こんなに柔らかい表情をしていたユンギさんは記憶になかったので、正直少しびっくりした。
6月3日のライブビューイングでは初めて観るAgust Dライブに舞い上がっていて気付けなかったから参考にはならないが…少なくともソウルでのファイナルもアンコンも、なんていうかもっと壮絶にオラついた漢みが強かった気がする。
もちろん、このイルコンでもパフォーマンス中はビリビリするような鋭さを感じたし、それがAgust Dとしてのユンギさんの真骨頂でもあるわけだが、合間合間に見せる表情が想像以上に優しすぎた。
思うにこれは、『主に日本人のファンがみている、日本での公演』ということを最大限に意識したモードでユンギさんはステージに立っていた、ということなのではないだろうか?
概ね日本人は、いかつさよりも柔らかさに馴染みが深くて、威嚇してくるような激しさよりも寄り添ってくれる優しさを好むという印象がある。
また日本のファン自体も、他国ファンよりふんわり柔らかなパーソナルイメージがある気がする。
ユンギさんはそういう日本人の好み・特性を理解して、それにカチッと合わせに来ておられたのではないかと、わたしは感じた。
分析上手で感性の細やかなユンギさんの掌で、わたしたちは踊らされていたのではないか?
そんなことを考えるのも楽しかった。
そうしてわたしは、知らなかった楽しみを貰って初めて、自分がそれまで閉じた価値観の中に居たということを痛感した。
思い返せば、ぴあアリーナで隣の座席に居た女性は、オペラグラスを手にしていた。
ライブにオペラグラスを持ってくるという発想の無かったわたしは、あの日とても不思議だった。
今までわたしが行っていたようなライブでは、そのアイテムは目にしたことがなかったから。
それだけに、どんなタイミングでそれを使うのだろうかと気にはなったけれど、ライブが始まったらよそ様の動向どころじゃなくなってすっかり忘れていた。
そのオペラグラスを持っていた、わたしよりもだいぶ年下だった可愛らしいその女性とはなんだか話が合って、ライブ終わりに一緒にご飯を食べに行った。
初めて会ったというのに話が尽きず、ご飯のあともお茶をしながら、だいぶ長時間に渡りユンギさんそしてバンタンについて語り合った。
わたしがバンタンに出会うずっと前からバンタンを追いかけていたという彼女にとって、ユンギさんはパーフェクトなアイドルという存在のようだった。
その時は、わたしとは随分違うタイプのファンなんだなぁと思って、知らない世界の話を面白く聞いて、それだけで終わった。
その後、日が経ってから改めて思った。
音楽とかルックスとかっていうパーツに細かく分けるのでなく、ユンギさん自身が完成された作品で、そのすべてを受け取って楽しむことこそが彼女にとっての推しとの向き合い方、ライブの楽しみ方だったんだな、と。
当然、せっかく生で見ることのできるライブでは、彼のどんな仕草や表情も見逃したくはなかっただろう。
そうして初めて、わたしにとって馴染みのなかったオペラグラスは、彼女にはライブに欠かせないアイテムだったのだと合点がいったのだ。
逆に、ユンギさんのAgust Dとしての音楽に特化して固執するわたしは、彼女にしてみれば話せば話すほど理解できないファンだと感じたかもしれない。
同じ対象を愛しながら、同じライブを楽しみながら、そこにまったく別のものを見出しているファン同士。
だけどこれは決して断絶じゃない。
わたしは視覚でも見逃さないという彼女の姿を見たことで、後日のTV放送で目に焼き付けようと思い至ることができた。
彼女もまた、アミボムを手にすることで動きが制限されるのを嫌ってアクセサリーを改造した斜め掛け状態ボムを装備するわたしを見て、そういう方法もあるんだねと興味深く見てくれていた。
そう、わたしたちの推しは懐が深い。
真剣に向き合うファンたちを区別することなく、すべてまとめて夢中にさせてくれる、すんごい人なのだ。
結局、ライブの楽しみ方に正解なんてものは存在しないんだろうな。
ステージ上のアーティストが差し出してくれているものを、自分がどう受け取りたいか。
それを自分的に満額で受け取るためには、どんな姿勢をとるのが最善なのか。
考えるのはそれだけでいい。
アーティストとファンが相互にエネルギーを交換できる場だからこそ、一対一で真摯に向き合う気持ちだけあれば、すべてOKなのだと思う。
自分がどういう人間で、何を大事に思うかまでも表れるのがライブ。
演る側も、観る側もきっとそれは同じ。
改めて、そんなふうに感じた。
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