これすべて、バンタンからもらったもの
(タイトル見て、額面通りにバンタンから山のような物品をもらった奴の自慢話か⁉︎なんて思う人、いないですよね…?
当然ながら違いますし、直接的なバンタン話すら出てこないです。
出てこないけど、でも奥のほうにいる。
ずっといる。
そんな五十路のとある一日の日記的なものなので、内容は無益かつ退屈です。
引き返すなら今です。)
さてさて。
わたしは常々、自分がバンタンを好きになったことで得たものって多いよなーとぼんやり思っている。
つまりそれが、〝バンタンからもらったもの〟。
では、わたしが漠然と思っている〝バンタンからもらったもの〟とは、具体的にはどういうものなのか。
ちゃんと考えたことのないその内容について、とある一日の自分の行動をもとに検証してみたい。
取り上げるのは2024年3月9日、最推しの誕生日🎂だ。
この日のことは前に一度書いてるけど、それはどちらかというと、吐き出したかったセンチメンタルな陰のパートについてだった。
でもこちらは陽の部分。
後になればなるほど、陰より陽の方が強く思い出せるのは年の功なのか?
その日、わたしと行動を共にしてくれたのは、ここにも何度か書いている、小学生からの幼なじみであり現アミ友であるオタク師匠チング。
わたしの体感では〝友達〟というよりは〝いとこ〟的な、ワシら血の繋がりないんだっけ?という距離感の相棒だ。
一日のスタートは、神社参拝だった。
わたしは昨年のチケット抽選の乱のさなか、ワラをもつかむような気持ちで何度か神社を訪れたことをきっかけに、機会があるごとに神社にお参りするようになった。
一方のチングは、以前から遠征の折などに時間さえあればその土地土地の神社に詣でていたという、いぶし銀の参拝ベテラン。
でもそれを知ったのも、わたしが昨年から急に神社に詣でるようになったからだ。
ということで、五十路となったわたしたちには、またひとつ共通の趣味(?)ができた。
その日も初めて行く神社で、二人で御朱印をいただいた。
今願うのは、もうチケットの当選じゃない。日々の感謝をして、ひたすらに愛する人々の無事と健康を願う。
とても清々しい気持ちになる。
たとえほんのひと時でも、この〝心が綺麗になったかのような気になる〟ってこと自体が肝要なのよね…。
これからも二人で一緒にいろんなところにお参りして、御朱印帳を埋めていきたいものだとしみじみ思った。
それから、わたしの好きな小洒落カフェでランチをとったあと、何十年かぶりに東京タワーにのぼった。
テヒョンさんが昨年のCDTV出演時にパフォーマンスしたホテルの屋上を、間近に見たいがためだ(※チングはテテペン)。
わたしはもともと子供の頃から東京タワーが大好きだったんだけど、いちばん最初に勤めた会社(社員8人の極小出版社)がその近くにあって、そこで結構しんどい思いをしたもんだから、あの辺りはつらい思い出の染みついた界隈になってしまっていた。
でも、テヒョンさんが現実にあそこに立って歌ってたんだなぁ…と思って見る景色は、また全然違って見えた。
なんていうか、今となっては東京タワー近辺が夢と現実の境界線みたいな、ふわふわした場所に思えてきている。
長い時間が経ってネガティブな記憶が薄れたっていうだけではあり得ない、マイナスから特大プラスへの驚くべき飛躍だ。
間違いなくこれは、テヒョンさんマジック🪄のおかげだろう。
一方で、その日の朝に姉から連絡がきて、姪っ子が午後からユンギペンのお友達と共に新大久保に行く予定だという情報も得ていた。
なんといっても、時は3月9日。
ユンギペン叔母もまた新大久保に行く気ではないかと察知した姪っ子が、「もし行くなら現地でちょっと叔母ちゃんの顔だけでも見たい」と嬉しいこと言ってくれてると…😭。
わたしは舞い上がった。
娘を持たないわたしにとっての姪っ子は、可愛らしくてキラキラとした未知の世界の存在。
思えば姉抜きで姪っ子とサシで会ったことはなく、直接LINEがくるだけでその都度舞い上がれるくらいの距離感だ。
しかも、彼女はわたしにバンタンを布教してくれた恩人でもある。
わたしがこの子に嫌われたくない、むしろ好かれたいという強めの欲を心の底に抱いてても、年長者の姿勢としてちょっと浅まし過ぎるのでは?なんて責めないでほしい。
そんなこんなで、とりあえず新大久保到着後にセンイルカフェの行列(行列だけ)を見て心を温めたあと、わたしは姪っ子に今どこにいるのか尋ね、彼女が今いるというコスメショップに、チングと共にいそいそと向かった。
それぞれの存在をそれぞれに話してはいたけれど、チングと姪っ子の直接対面を実現させたのは初めてだった。
不思議な感覚だった。
まるで結婚前、実家に夫を初めて連れて行った時のよう。
わたしにとって馴染み深く大切なふたつの異なる世界が重なる感覚で、思った以上に感慨深かった。
そして、ユンギペンであるという姪っ子のお友達にも対面させてもらった。
韓国のヨジャドルみたいな、可愛さと大人っぽさが同居する娘さん。
日頃野郎ばかりの世界に暮らしているため、うら若い娘さんに免疫がないわたしは、謎の緊張に陥りつつあった。
この春から韓国に留学するという彼女は、着ている服の袖をめくって、手首にまるでバングルのように装着したユンギさんのカップホルダーを、誇らしげに見せてくれた(使い方斬新。ていうか、カップホルダーって手首にはまることある?カップホルダー状の別の何かだった?)。
10代のこんなに可愛い娘さんがユンギペンという同志であるという事実は、わたしを大きく安堵させた。
アミ歴は多分わたしの方が短いんだろうし(その場で詳しく歴を聞くほど距離詰めて、気味悪がられたくなかった…)、そんな者がこう言うと不遜な感じに聞こえるかもしれないけど、あえて言わせてもらいたい。
五十路のわたしが見ることのできないであろうバンタンの、ユンギさんの未来を、こういう層が見届けてくれるんだと思えることは、わたしにとってはすごく心強くて、希望でしかない。
いろんな意味で、わたしたちの推しを末永くよろしく頼みますね…と、謎の立ち位置で強く願った。
当然ながら、心の中でひっそりと。
姪っ子にそのあとの予定を聞いたら、お友達には次の用があり、夕方にはさよならすると言う。
なんということだろう。
わたしの方もチングは夕方に用事があり、驚くことにまったく同じ時間に新大久保を発つと、前もって聞いていたからだ。
なんという偶然。
これは姪っ子との親睦を深めるチャーンス!
しかもわたしは数日前にYouTubeでカンジャンケジャンを食べる人の動画を観て以来、カンジャンケジャン欲がハンパなく高まっていた。
迷わず、海鮮物好きな姪っ子を夕飯に誘った。
姪っ子が即座に行きたい🥹!と言ってくれた時、わたしは自分が間違いなく成功した叔母であると感じた。
それからの時間は、今思い返しても新鮮すぎた。
5時半に再度待ち合わせてから、良さそうなお店を探して、美味しいお料理にありついて。
いろんな話をして、たくさん笑って。
食事が終わっても名残惜しくて、カフェに移動してデザートを食べてお茶をしながらまたいろいろ話して。
そのうち、用事でそう遠くない場所にいた姉(姪っ子の母)がカフェに合流してきて、3人でさらにおしゃべりして。
姉は、わたしと姪っ子が新大久保でふたりで過ごしていることも、母親の自分も名前しか聞いたことがない娘のお友達と妹のわたしが会って話していたってことも、なんだかすごく不思議でおもしろいわー!と言っていた。
それもこれもすべてバンタンが繋いでくれた縁だなぁ…と、その時わたしはしみじみ思っていた。
そう、今ここに書いたことは、すべてバンタンに出会っていなかったら起きなかったであろうことばかりなのだ。
すべてバンタンが、ユンギさんが、わたしの人生にくれたもの。
彼らがいなかったら、チングとほぼ毎日LINEで連絡しあうことも、頻繁に会って遊ぶこともなかったかもしれない。
神社めぐりを趣味にすることも、恐らくわたしはなかっただろう。
東京タワー周辺だって、永遠につらい思い出の場所のままだったかも。
姪っ子と二人きりで長時間話し込んだりするなんてことも、恐らくなかったはずだ。
日々彼らの音楽からたくさんのものをもらっているとは思っていたけれど、これは案外見落としがちなことだった。
こうやって列記してみると、はっきりとわかる。
この日はメモリアルデーということで特に濃かったかもしれないけど、程度の差はあれ、今日だって何かしらを受け取り続けているんじゃないかと思う。
『自分を愛するために僕たちを利用してください』と彼らは言う。
わたしは彼らを愛することで、自分の人生を勝手に豊かにさせて頂いてると思う。
目には見えない豊かなものを抱えた自分を、わたしは愛せる。
書いてみて、それがよくわかった。
なんかすっきりしたなー。
脳の中に雑多に詰め込まれている記憶を目に見えるところに引き出すって、これだからやめられない。