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『いじらしい…っ!』の系譜
わたしは人のいじらしさに弱い。
〝いじらしい〟という言葉には、自分よりも弱い立場の幼い者に抱く感情みたいなテイストがある。
でもわたしは厳密にそういう意味で考えてはいないので、この言葉のチョイスは間違ってるのかもしれない。
でもそれでも、『いじらしい…っ!』としか言い表せない気持ちが、わたしにはある。
『…っ!』のニュアンスまでがセットになったこみあげるようなこの感情、お分かりいただけないだろうか?
…いや、まぁ多分ちょっと伝わりづらいと想像できるので、わたしの感じた歴代の『いじらしい…っ!』対象例を挙げてみることにする。
書こうとして考えたらわりとバリエーションがあって、そこは我ながら意外だった。
まずは、記憶にある一番古いやつ。
それは、幼い頃に観たアニメ〝フランダースの犬〟のネロだ。
あの子まだ子供なのに、おじいさん亡き後も一人でがんばって生きてた。
頼れる大人はなく、他人に誤解されたとてかばってくれるような有力者もいない。
でも、ぐれない。
わたしはネロの年齢設定よりも幼い頃にアニメをみた世代だけれど、決してひねくれたりしないネロのひたむきないじらしさに胸打たれながら、毎週彼の幸せだけを心から願って視聴した。
同時に、ネロの大好きな友達であるアロアの無力さに相当イラついたっていう記憶もあるんだけど(このへんがわたしの生まれ持った汚れ性をあらわしている)、しかしながら最終回で雪の中アロアがネロの名を呼ぶシーンは強烈に印象に残っている。
普段は可愛いぶりぶり声のアロアがとんでもないダミ声で絶叫したところに、リアルを感じてハッとしたのだ。
そのシーンで初めて幼き日のわたしはアロアと心理的に和解したけれど、でもやっぱりアロアはわたしの『いじらしい…っ!』ではない。
それは逆パターンの例として、参考までに挙げておく。
次に覚えている『いじらしい…っ!』は、小学生の時に出会った、五十路の今でもアミ友としてもつるんでいるチング。
彼女は出会った頃から自分の好きなものに対してものすごく忠実で、とにかく好きがまっすぐな人だった。
わたしなんぞはいくら心から好きになるものであっても、突き詰めてみれば自分にとってなにかしらの益(それは心理的なものであって、直接的な益ではないけど)があるから好きになるし、そのために好きでい続けるってところがあるように思う。
でも彼女には多分、そういう発想すらないんじゃないだろうか。
好きという気持ちだけで、躊躇なく自分のすべてを差し出せるタイプ。
わたしは出会った小学生の頃に自分と彼女のそういう違いに気付いて、彼女の持つそのひたむきないじらしさに畏敬の念を抱いたし、だいぶうらやましくも思った。
あとは、漫画『ガラスの仮面』のマヤとかもそうだなぁ。
身寄りがなく、子供の身ながら世話になっている家の家業を手伝って暮らしていたマヤは、周りのみんなが普通に味わっている学生時代の楽しみを何も知らずにいた子だ。
そのマヤが初めて放課後に寄り道して同級生とおやつ(クレープ的なものだった気がするが定かではない)を食べるってシーンに、いきなりとんでもない『いじらしい…っ!』が発動した。
経験したことのない楽しさを経験して、知らなかった感情を手にしたことを素直に喜べるマヤ。
そこにこれまでの生活への不満やら周囲へのひがみのような、ダークな色のものは一切ない。
そんな子いる?
『いじらしい…っ!』以外に何と言える?
「この人の持つまっすぐな精神性には決して敵わない」という降伏したくなる気持ちと、それを持ち得ない自分自身への悲しみと、ならばどんな手を使ってでもこの人の心を守りたいものだとメラメラ🔥する気持ち。
その3つが重なり合った感情が、わたしにとっての『いじらしい…っ!』なのかもしれないと、分析してみる。
実はあとひとつ、別パターンの例がある。
これを言葉にして誰かに説明するのは避けてきたのだけど、対象はユンギさんだ。
わたしがユンギさんを好きで大切に思うきっかけとなった直接的な大きな理由は、主に3つあった。
そのうちの2つは音楽がらみのことで、あと1つは全然別のこと。
その全然別の方の話を、解禁してみたい。
わたしはバンタンを知って好きになった2020年、新規特有と思われる尋常ではない熱意で、山ほどあるバンタンの多種多様なソースを次々と消化していった。
まずは各メンバーのキャラクターを掴むのに、〝Run BTS!(通称タルバン)〟を数ヶ月かけて全話観るという一大プロジェクトに挑んだ。
そうしてメンバーの顔と名前とどんな感じのキャラかを把握できた頃に、NAVERのとあるコンテンツを観た。
2015年の番組だった。
それはバンタンが背水の陣で大ブレイクを狙った3rdアルバム『花様年華 Part1』をリリースした時のもので、当時普通のTVではそこまで大きく取り上げてはもらえなかったであろう彼らが、ネット配信番組という場で自力でカムバを盛り上げるような特番。
(※尚、わたしは基本的に韓国の音楽業界についてあんまり理解できてないので、この解釈が合ってるかは不明なんだけど、彼らのたどってきた道のりを調べる限りはそんな感じだったんじゃないかと思って書いている)
初めて1時間丸ごと自分たちのことだけで埋められる番組を、それも生放送でやるということで、緊張から若干うわずったようなテンションで必死に盛り上げようとしている若き日の7人が愛おしい(今も若い)。
その番組の冒頭だ。
開始早々にMCがホビとユンギさんであることが発表されて、笑顔ながら「MC恐怖症なので今ちょっと不安です」と素直にプレッシャーを伝えるホビに対して、ユンギさんが何がそんなに不安なんだよーみたいにいじる場面がある。
軽口を叩いてホビをからかいながら、自分は全然平気という感じで話しつつ口元に手をやったユンギさんのその手は、尋常じゃないほどにぶるぶると震えていた。
その震えを目視した瞬間だ。
わたしはユンギさんに完全降伏した。
近年最大級といってもいいレベルの『いじらしい…っ!』が発動してしまったからだ。
そのシーンを見て、この人は自分の不安とか恐怖を、簡単には外に出さない人なんだと知った。
出し方を知らないのか、出すことが自分なりの美学というかポリシーに反するから隠したいのか。
それで顔では平然としたふうを装いながら素直にドギマギしてる人をからかってみたりして、周りからは自分が余裕ある人に見られることを望んでいるみたい。
本当は、あんなにもぶるぶる震えてしまう人なのにな。
手の先に漏れだしてしまうその性格の複雑さが、わたしにはものすごくいじらしく見えてならなかった。
だからわたしは、それを目にした記憶自体に蓋をしようと思った。
多分ユンギさんは、そういう自分を見られたくないし、気付かれたくもないだろうと思ったから。
だから、誰かにユンギさんのそんないじらしさを共感してもらおうともしなかった。
わたしが言葉にしてプレゼンすることで、万が一にも誰か1人でもそのシーンのユンギさんのあの手に注目して番組を視聴することになったら、それは彼のポリシーに反することになるような気がしたから。
わたしはわりと頑なに、好きな相手の哲学みたいなのを尊重したい人間なのだ。
だけど、近年のユンギさんは変わった。
自分の中の恐れも弱さも隠さずに表そうとする、さらに強い人になったんじゃないかと思う。
つまりそれほどにユンギさんは、周りの人々のこともご自身のことも信頼するようになったということじゃないだろうか。
本当に良かったな…。
なので、わたしもコレを言ってもいいのかなと判断してこうして書いてみた。
わたしが思うに、『いじらしい…っ!』は、自分がよく知っていると思ってる人の中にもある。
その証拠に、わたしは今年に入って、四半世紀以上連れ添った夫の隠れた行動に『いじらしい…っ!』を発見して、改めて一生涯この人を大事にしようと思ったから。
人の悪いところを取り沙汰すことに躍起になって、むしろそのチャンスを窺ってるんじゃないか?って思うくらいの叩き風潮がある今の世の中だけど、それで何か得るものはありましたか?と訊ねてみたい。
もしかしたら一瞬スッキリするのかもだけど、残るのはきっと苦みだけだよな…。
自分の生きてる世界に希望を感じたかったら、身の回りの『いじらしい…っ!』を見つけるの、ほんとおすすめです。