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写真と言葉 / 都市開発の波間に揺れる横浜・子安浜

横浜の水辺は、無数の記憶が波に刻まれ、時の流れの中で静かに語りかける詩のような場所。子安浜――その風情ある路地と微かな潮の匂いが混じり合うこの地は、かつて漁師たちの汗と夢が海へと溶け込んだ聖域であり、江戸の風情、明治の異国情緒、そして20世紀の工業化と埋立という劇的な変容を経て、今なおその存在感を放っている。


すこしの潮風が頬をなでる。
波のさざめきが遠くから聞こえ
港の匂いが微かに鼻をかすめる。
子安浜。

この街の名前を初めて耳にしたとき
どこか懐かしい響きを感じた。

僕の祖父は漁師だった。
函館にある小さな漁師町。
幼い頃、祖父が昆布を採っていた姿が蘇る。
あの頃、私にとって漁港は「仕事の場」ではなく
潮風と人の活気に満ちた“遊び場”だった。
けれど、いつの間にか祖父も年を取り
漁に出ることはなくなり
あの姿は見ることはなくなった。
それなのに、
今、
こうして子安浜の名を聞いた途端
遠い記憶が波のように
押し寄せるのはなぜだろう。


そしてこの町には漁師たちが暮らし
路地の隅々まで潮騒が染みついたこの場所は
かつて江戸の町へ新鮮な魚を届ける重要な港だった。
今、その姿は時代の流れの中に埋もれ
静かに変化している。

歩くたびに
街の歴史が足元に染み込むような気がする。

かつて、
この道を漁師たちが網を肩に担いで歩いていた。
海の匂いを纏った男たちは
早朝の光の中を忙しなく港へ向かい
夕暮れには潮に濡れた長靴のまま市場へと戻ってきた。

それが今では
風化した家々。
錆びついた漁船がぷかりと浮かぶ。

「昔は、もっと賑やかだったんだろうな。」
そう呟いてみても
響くのは
高速道路を走る車の唸りと
運河に流れる波の音だけ。


子安浜の変遷。
江戸時代には幕府直轄の漁村として栄え
明治には異国の文化が交差し
大正の埋立と工業化でその姿を変えた。

この土地はまるで砂時計のように
時代ごとに形を変えながらも
同じ場所に留まり続けてきた。

時代の波が押し寄せるたびに
この場所は少しずつ形を変えながら
それでもここに留まり続けてきた人々がいる。

鉄扉には錆が広がり
かつての賑わいは
静寂に吸い込まれるように
消えていった。
その足元には雑草が広がり
海風に吹かれてささやかに
揺れている。


商店街の前を、ゆっくりと歩く高齢者たち。
軒先で交わされる、穏やかな立ち話。


京急線の踏切が鳴り
遠くから聞こえる電車の音が町の静けさを切り裂く。

この場所は今、
ゆっくりとした時間の中に生きている。
変わりゆく都市の中で
ここだけは違うリズムを刻んでいるのかもしれない。


潮の香りが微かに漂うこの地には
世代を超えて受け継がれてきた絆がある。

静かに見守られてきた町並みは
時代とともに変容してきた。
古びた家々が密集し
細い路地の先には漁師たちの足跡が刻まれ
運河へと続く。
軒先には
日向ぼっこをする猫の姿。


かつて
この海は命を支え
波間に漂う舟の上で
人々の暮らしを紡いでいた。
江戸の賑わいの裏には
この港町の労働があった。
朝、魚を積んだ舟が江戸へと向かい
夜には旅人たちが宿場町の
灯りの下で笑いさざめいた。
市場には異国の商人が
持ち込んだ品々が並び
海辺の町はわずかな
きらめきを見せていた。
今、その名残はほど近くの
商店街、わずかの飲食店だ。

現在の子安浜は
東京と横浜の大都市圏の狭間に位置しながら
独特の風情を残している。


狭い路地に密集する住宅群
老朽化した建物
長年手つかずのまま放置された空き家
防災や防犯の懸念が住民の間に広がりながらも
昔ながらの生活の息吹は
今も、消えてはいない。
漁業の記憶は消えたように見えるが
この海では今もアナゴ漁が続いている。

水際では
現役の漁船とともに使われなくなった
倉庫や廃船が時の流れを刻んでいる。

所有権の不明瞭さと開発の遅れが
その土地の可能性を閉ざしているが
ここにはまだ生きた証が残されている。

静かな音が響く。
波が寄せては返すように
この街もまた変化を繰り返してきた。
そして、これからもその流れは続いていく。

かつて漁師たちが行き交っていた海。
その水面には
埋立地の無機質な建造物が映り込む。
1971年、漁業権を放棄したこの海。
その対岸には新しい街が築かれている。
それでもなお、この片隅には
漁師たちによる
自由漁業のアナゴ漁が行われている。
潮に染みた古びた漁具や
使われなくなった船の残骸が波に揺られている。
過去は完全に消えたわけではない。
しかし、それを知る人の数は
少しずつ減っていく。
僕自身、この街の近くに暮らしている。
かつての漁村の痕跡が消えつつあるこの場所を
これからも見続けていきたい。

私たちはどんな記憶をこの土地に刻み
どんなものを次の世代へ残していくのだろうか。
海は変わり続け、人々の営みもまた変わる。
しかし、記憶は誰かが見つめ続ける限り
消え去ることはない。




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