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「作品は生き物」:知らないと危ない、アートの保存と管理と輸送と
大事な写真がカビに侵食されたら、想像できますか?
「作品はそのまま置いとけば大丈夫」なんて、僕も昔は信じてました。
でもある日、プリントを取り出してみたら四隅が茶色く変色していて……
もうショックで言葉が出なかった。
実は作品は“生き物”と同じで、湿気や温度変化、紫外線のちょっとした差が命取りになるんです。
学芸員課程で耳にした「作品は生きている」という言葉は、まさにこの現実を指していました。
もし皆さんが「写真や絵を未来に残したい」と思うなら、今こそ作品に適した環境づくりを始めませんか?
“飾るだけじゃ終わらない”アートの世界、一緒に踏み込んでみましょう。
序章.
僕が学芸員過程で学び始めた頃、心のどこかで「作品は黙っていても大丈夫。展示空間に自然と馴染んでくれるはずだ」と思い込んでいました。
ところがある日、教授が言ったんです。「作品は生き物と同じだよ。ちょっとした環境の変化であっという間に傷んだり、色あせたりする」。
その言葉を聞いた瞬間、自分の甘い考えを思い知らされました。
展示に興味があってそこしか見ていなかった。
学芸員の仕事は作品を飾るだけで終わりではなく、輸送や長期保管など、作品を扱うあらゆる段階をきちんと管理することまで含まれています。
展示後も作品をそのまま放っておくのではなく、どのようにアーカイブし、保存していくのか。
作品を預かる以上、そのコンディションを守っていく大きな責任があるのだと痛感したのです。
今回は、写真や絵画、デジタルアートなどのプリント作品を長く守り続けるために必要な「長期保存・輸送・展示」それぞれのステップをご紹介します。ただのメンテナンスと侮るなかれ。
長期保存に適したマテリアルの選び方や、輸送中の梱包方法、展示時の照明や湿度コントロールなどは、まるで小さな赤ちゃんのお世話をするような、細やかな配慮が求められる行為です。
なぜそこまで慎重に扱うのかといえば、作品に宿る“想い”と“美しさ”を、未来へと繋げていくため。それでは「アートの養生」の世界を、一歩ずつ覗いていきましょう。
1. 保存の舞台裏 :温湿度が作品を左右する
■ 温湿度の基本と“作品の居心地”
僕が大学時代、学校生活の忙しさに負け引越したまま、写真を整理もせずに自宅の押し入れに放り込んでいたときがあります。どうなるか想像できますよね。
数カ月ぶりに取り出したら、写真の端に小さなカビが生えてしまっていたんです。あのときは本当にショックでした。
作品は「その場を離れても生きている」という教授の言葉が改めて胸に響きました。
基本的に作品は、高温多湿や過度な乾燥に弱い。
たとえば湿度が60%を超える環境ではカビが繁殖しやすくなり、逆に乾燥しすぎると紙が脆くなったり絵具がひび割れたりします。
美術館では18~22℃、相対湿度45~55%程度が理想と言われていて、いわば「作品が最もくつろげる室温と湿度」なんです。
例えば、私たちが少し蒸し暑いと感じる50~60%の湿度は、紙の作品にとってはカビが繁殖しやすい危険領域。
逆に、乾燥しすぎる冬の暖房環境では、油彩画の表面がひび割れるリスクもある。
だからこそ、美術館では 「人の快適さ」ではなく「作品ごとの最適な環境」を基準にした温湿度管理を徹底するんです
■ 保存専用の道具たち
ただ、温度と湿度をコントロールするだけでは不十分です。
今度は保管のための箱や包む紙など、いろいろな素材を正しく選んであげる必要がある。
僕が最初に驚いたのは「アーカイバルボード」という中性~弱アルカリ性の厚紙です。ーー長期保存向けの酸を含まない特殊な厚紙
普通のダンボールに比べて酸を含みにくく、作品に悪影響を与えない。
たとえば写真を長期保存するときに、このアーカイバルボード製の保存箱を使うと、外部からの汚染物質や埃をかなりシャットアウトしてくれるんですよ。
保管前には、作品を一枚ずつ中性紙でくるんだり、酸が含まれない封筒やタトウに入れたりします。
昔、祖父母のアルバムを見たら、写真表面が茶色く変色していて「なんでこんな風に黄ばんだの?」と不思議でした。
あれは台紙が酸性紙だったことが原因だったんですね。だから今は「中性紙を使う」のが鉄則になっています。
■ カビと虫からの防衛戦
そしてもう一つ怖いのが湿気や害虫。一度カビが生えると、その胞子が作品をどんどん侵食してしまいます。
大学には使われていないスタジオがあって、そこに古い本などのアーカイブ資料が置いてありました。
あるとき、その資料に小さな黒点がどんどん増殖しているのを目にして、思わずゾッとしました…。
とりわけ日本の梅雨や夏場は要注意。湿度が50~60%を超えないように除湿機を回したり、作品の近くに防湿庫を置いたりと、一度対策を講じておくと安心です。
虫も同様で、紙魚(シミ)やシバンムシは紙類を好物にしています。特に温かくて暗い場所は彼らの天国。
粘着式のトラップを仕掛けたり、定期的に棚や箱の中をチェックすることで早期発見ができます。
「大事な作品を見えない敵から守る」――これが保存の基本と言えるでしょう。
2. 輸送が鍵を握る :旅する作品のゆりかご
■ 輸送のリスクと覚悟
僕がギャラリーでインターンをしていた頃。
「展覧会に出すために、この作品を海外に送りたいんだけど」
そう頼まれたとき、正直なところ少し尻込みしました。作品の海外輸送は梱包ひとつで大きく運命が変わり、ずさんな状態で送ると最悪、到着時にボロボロになってしまうかもしれない。
まるで子どもを遠足に送り出すときに、リュックの中に必要なものを全部きちんと揃えてあげるような心構えが求められます。
国内輸送ですら、車の揺れや衝撃、そして夏の暑さや冬の極端な冷え込みなど、思いがけないダメージを与える要因が盛りだくさんです。
特に長距離では、トラックの荷台が常に振動するので、何も考えずに箱に詰めただけだとプリントの角が曲がったり、額縁が割れたりする可能性があります。
そこで活躍するのが緩衝材や専用の木枠クレート。段ボールだって、強化された二重・三重構造のものがあったりして、僕は初めてそれらを見たとき「輸送の世界って思ったより深いんだな」と感心しました。
■ 梱包のプロセス~プチプチは友情の証
僕たちはエアキャップ(いわゆるプチプチ)で作品をぐるぐる巻きにする光景をよく目にしますよね。
あれも実は一工夫必要で、作品の表面に直接触れないようにするのが大前提。
プチプチの種類によっては、長期間密着していると表面に跡がついたり、静電気で細かい埃を吸い寄せてしまうことがあります。
作品の表面に直接プチプチが触れないよう間に薄葉紙、中性紙を挟むとか角の保護に専用のコーナーパッドを使うなど、細やかな段取りがたくさんあります。
これだけでも、長期間の保存や輸送時のダメージを大幅に減らせます。
ただ注意して欲しいのは特に静電気を帯びやすいプチプチは、作品表面にダメージを与える可能性があるため 長期輸送や保管には不向きなのです。
長期輸送や保管では、UVカットのアクリルカバーや、静電気の影響を防ぐ専用のラッピング材(シリコンコーティング紙など)がよく使われます。
美術品を運搬する業者さんの作業を横から眺めていると、本当にプロフェッショナル。作品が箱の中で動かないよう、フォーム材をぴったり削って枠にはめ込むのなんて、まるで職人技です。
もし私たちが自力で梱包するときは、やはり「作品を動かさず、衝撃を箱の外側で受け止める」という点を徹底することが大切。
額縁のガラス面が割れたときの飛散防止フィルムなども用意しておくと、万一のトラブルを最小限に抑えられます。海外輸送だと税関の書類や保険の手配も欠かせません。
美術品を一時輸出入とき、関税なしで持ち込める書類(ATAカルネ)を使えば輸出入がスムーズになり、展覧会後に作品を持ち帰る際の関税トラブルを減らせます。
ATAカルネは適応できる国とできない国があるので注意が必要です。
僕は初めて海外に作品を送ると聞いたとき、その手続きの複雑さに青ざめました。
ちょっと面倒だな、と思ったらプロの業者に頼むのも一手です。
結局、僕の心配は杞憂で梱包を僕たちがやってて続きなどはプロの業者にお願いしました。
3. 展示会場で作品が輝く :光と温度のハーモニー
■ 照明という諸刃の剣
さて、作品が無事に届いたら次は展示の出番です。展示の醍醐味はなんといっても照明との相乗効果ですが、一方でこの照明こそが作品の大敵になることもあります。
蛍光灯や太陽光に含まれる紫外線は写真プリントや水彩画の色素を破壊してしまい、長期間当て続けると驚くほど退色が進みます。
僕たちも夏に海へ行くと日焼けしますよね。作品も人間と同じで、光を浴び過ぎると“日焼け”みたいなダメージを受けるわけです。
そのため最近の美術館やギャラリーでは、紫外線をほとんど出さないLED照明に切り替える動きが進んでいます。
照度は紙作品なら50ルクス程度、油彩画でも200ルクス以下に抑えるのが理想とされ、さらに展示期間を管理して“休ませる時間”を設けるケースも。
まるで休日のないブラック企業じゃ作品も疲れ切ってしまうってことですね......
ただし、すべての作品が「休息期間」を必要とするわけではない のがポイント。
紙や写真作品は光に弱いため、展示期間を限定し、一定期間ごとに暗所で保管するのが望ましい。
例えば、美術館では「半年展示 → 5年保管」というサイクルを組むこともあります。
でも、油彩画や彫刻などは必ずしも「暗所に戻す」必要がなく、むしろ適度な換気が重要な場合も。
作品にとっての「最適な休息」は、その素材や技法によって変わるんです。
■ 展示の安定感を作る裏技
展示に来た人が誤って作品に触れてしまうこと、意外に少なくないんです。
イーゼルに飾ってあったパネルを子どもがちょっと揺らしたら、ヒヤッとしたこともあります。
僕はそれ以来、イーゼルを使うときは必ず脚の先端を安定させたり、作品上部を押さえ金具や紐で固定したりしています。
壁掛けの場合も、裏の吊り金具を左右2カ所で支える「二点吊り」にするなど、地味な工夫が欠かせません。
日本は地震も多いので、耐震対策の金具を使うギャラリーも少なくありません。
そしてもう一つ忘れてはならないのが温湿度管理。保管時と同じく、展示会場でも20℃前後、湿度は50%前後を保つのが理想です。
夏場のギャラリーはクーラーが効きすぎて乾燥しすぎることもあるし、逆に冬場は暖房で部屋が暑くなりすぎて額内が結露する場合もあります。
何度も言いますが、作品にとって温度と湿度は生命線。展示後に作品を回収するときは、急激な温度変化を避けるために少し部屋に置いて“慣らし”をするのも一計です。
4. 展示が終わったら :メンテナンスという名の愛情表現
■ 状態チェックとクリーニング
展示が終わり、作品を回収したらすぐに保管しないで、まずは状態チェックから始めます。
「おかえり。大丈夫だった?」なんて声をかけるイメージで、作品を表裏しっかり観察するわけです。
ここでホコリや指紋の付着を見つけたら、柔らかい布やハケで優しく拭き取りましょう。
ガラスやアクリルカバーを使っていた場合は、傷やくもりが出ていないかも確認します。
特にアクリル板は静電気の影響で細かい埃を吸い寄せやすく、アルコールはアクリルを白く濁らせてしまうため、アルコールフリーのクリーナーを使うなど注意が必要です。
もしマットに汚れがついていたり、裏打ちに酸性の素材を使っていたら、この機会に中性紙のマットに交換するとか、裏打ちを和紙テープに張り替えるとか、将来的な劣化を抑えるための改善を行うのもいいでしょう。
僕は一度それを怠って、自分でプリントした写真をそのまま長期保存した結果、マットの縁だけ黄ばんでしまった苦い経験があります。
展示から帰ってきた作品は、一息入れさせてあげると同時に、次回以降も元気に活躍できるよう身体検査をしてあげるんです。
■ 作品に“休息”を与える意味
作品に対する休息期間、これはちょっとした哲学みたいなものですよね。
世界の名画が美術館で常設展示されず、一定期間展示したら収蔵庫にしまわれるのは、余計な光や空気中の汚染から遠ざけ、素材を一度落ち着かせる狙いがあります。
僕自身も撮りたての写真をすぐに大勢に見せたい気持ちは山々ですが、それによって作品が色あせやすくなるなら、ある程度のペース配分を考える価値があると思うんです。
ちなみに、これは料理にも似ています。カレーだって一晩寝かせると旨味が増すように、作品も“適度に寝かす”ことで色素や紙が安定し、長期保存には好都合。
でもあまり長く放置しておくと虫やカビのリスクが出てくるので、時々状態を見に行ってあげるのが愛情です。何事もバランスが大事ですね。
終章. アートを未来に残すために
ここまで寄り道をしながら、「長期保存」「輸送」「展示」の三つの観点で作品を守るポイントを見てきました。
作品を生み出すまではクリエイターとしての仕事ですが、生み出したあとにどんな環境で守っていくかは、いわば“もう一つの創作活動”とも言えます。
僕たちが作品をこよなく愛するなら、その愛情を「適切なマテリアル選び」や「ちょっとしたケア」に込めてあげましょう。
長期保存
温湿度管理を徹底する。
中性紙・アーカイブボックスなど、酸を含まない資材を選ぶ。
カビと虫を寄せつけない対策をする。
輸送
衝撃をいかに吸収するか、箱の中で動かないようにするかが鍵。
エアキャップやフォーム材、段ボールや木枠クレートを上手に使う。
海外輸送は書類(通関手続き)と保険を抜かりなく。
展示
照明は紫外線や照度に気を配る。
作品が落ちたり倒れたりしないよう安定した固定を。
展示後はしっかりメンテナンスして、必要なら休ませる。
僕が扱う音響機材と似ているところがあって、「ちょっとした配線やセッティングを誤ると後で大きなトラブルにつながる」という構図に、毎回ハッとさせられます。
アート作品もまったく同じで、わずかな湿度のズレや梱包の甘さが、将来取り返しのつかないダメージをもたらすことがある。
でも、その“小さな注意”をしっかり積み重ねていけば、作品は何十年、場合によっては何百年先まで生き続けてくれる。僕たちが大切にしている想いも、作品とともに次の時代へ渡っていけるんです。
作品を守るという行為は、ある意味で未来の鑑賞者との約束かもしれません。「今、ここにあるこの作品を、次の世代にも届けたい」
そんな願いがあるからこそ、面倒な作業も一つひとつ乗り越えていける。
あるときは梅雨の湿気に頭を抱え、あるときは海外輸送の書類に唸り、またあるときは展示中にちびっ子が作品に手を伸ばしてヒヤヒヤする――でもそれこそが、アートを取り巻くリアルな物語。
その物語の登場人物になった以上、僕は最後まで作品を守りきりたいと思うのです。
さて、いろいろと話が脇道に逸れながらの解説になりましたが、大切なのは「作品に悪影響を及ぼす要因を理解し、環境を安定させる」と「マテリアルと扱い方を正しく選ぶ」こと。
そして地道に点検やメンテナンスを続けることが、作品を永く愛するうえでの基本姿勢です。
みなさんの大切な写真、絵画、デジタルプリントが、いつまでも美しい状態であり続けられるように、ほんの少しでもこの話がお役に立てば嬉しいです。
作品をつくる過程だけがクリエイティブではなく、作品を“生かしていく”プロセス自体が大きな意味を持つはずです。
まるで、時間というキャンバスに作品を丁寧に描き足していくように。そんな風に考えると、保存や輸送も悪くないと思いませんか?
作品を大切に育むという優しくて力強い行為は、制作者と観客、そして作品そのものをつなぐ、新たな物語を紡いでいくのだと僕は信じています。