書評『病いと暮らす』2型糖尿病である人々との経験、著者 細野知子
書評『病いと暮らす』2型糖尿病である人々との経験、著者 細野知子
このたびは細野さんからご著書を献本頂くという幸運に恵まれました。本日読了したので、本書を読んだ感想を思いつくまま書いてみたいと思います。
細野さんの病棟看護師体験から始まり、修士課程におけるご研究、その後10年近くを経た後の博士課程におけるご研究をまとめた本著は、細野さんがDM当事者と向き合い、恩師からの指導を受けながら、1歩1歩DMケアに対する考えを深めていかれた過程が丁寧に描かれていて、読み応えのある内容でした。また序章の中で「生活習慣病を死語にする会」の活動についてもご紹介下さっていることにも謝意を述べたいと思います。
序章において、我が国における生活習慣病を中心とする保健行政の歴史と課題を丁寧にきわめて公正に論評しながら批評していらっしゃる点が素晴らしいと感じました。医療人類学や医療社会学はどちらかというと、現代医療に対して批判に軸足を置いて論じる傾向があると思うのですが、著者は例えば「生活習慣病」という呼称が生まれた背景についても批判一辺倒ではなく、肯定的な評価を与えつつ、可能な限り公正を期して論じているので、行政側に立つ人間にとっても僕のような現状に批判的な立場の人間にとっても受け入れやすく論評することに成功しています。そしてp16の以下の主張には深く同意しました。(以下引用開始)
成人病から「生活習慣病」へと呼称を変更し、国民自らが健康を自主管理するように促すことが適切と考えられた1990年代までの日本と、超高齢化社会となり新型コロナウイルスの世界的な蔓延に見舞われた昨今の日本では、疾病構造も社会情勢も変化している。超高齢社会となった現代、60歳以上の糖尿病患者は男性で25%を超え、女性では15%近くを占める(厚生労働省2020)。国民自ら健康を守ることができるような啓発活動はある程度必要だとしても、自己責任化に向かいやすい「生活習慣病」という政策用語がいまだに本当に必要なのか。その用語によって生きづらさを抱える糖尿病者を生み出していることをどう考えるのか。(引用終了)
序章に続く第1章「人生からまなざす2型糖尿病者の経験」、第2章「日常からまなざす2型糖尿病の経験」において、著者はDMを抱えながら生きる当事者の生活は病いの体験だけから成り立つものではなく、病いとは無関係なさまざまな体験から成り立っていること、それ故ケア提供者は「病いの体験」ばかりに焦点を当てるだけではなく、一見するとまったく病いとは無関係な何気ない生活の語り、出来事の中にもケアを提供する上での重要なヒントがあることを、丁寧に描き出すことに成功しています。
第2章に描かれた6人の糖尿病当事者へのインタビュー記録には、私自身が日頃のDM診療で大切にし、実践している事柄が展開されていました。まさに私の診察室での毎日の患者さんとのやり取りを切り取って紹介して頂いているような錯覚に陥るほどでした。特に印象的な語りは教育入院を経て、自己管理にめざめた当事者が食事と運動に多大な努力をして診察に臨んだ際「体重の減少幅が大きすぎる、ストイックにやりすぎだ、もう少し食べる量を増やしなさい」と逆に叱責されたというエピソードです。私の外来なら「やったね!ロケットスタートに成功しましたね!」と大盛り上がりの外来になるところなのですが、その方の場合、入院中は食べ過ぎと注意され、退院後は体重を減らし過ぎ、食事減らし過ぎと注意されている訳で、まさにG.ベイトソンの「#ダブルバインド」メッセージに類似していて、その方の心労はいかばかりかと案じました。
もうひとつ印象的な話は「食事療法が難しい」と嘆いていた患者さんのエピソードでした。体重は減るのに血糖値は改善しないと診察室で、主治医に悩みを投げかける患者に対して、主治医は「体重が減っているので良いでしょう」としか対応せず、血糖を下げるための食事管理のコツを伝えていません。これも当事者にとってはかなり堪える問題であったと思います。私が初診時にすべての患者さんに対して強調していることは「食べ物が血糖値に変わる仕組みを理解しましょう」「あなたが自信を持って、食べたい料理を血糖値を上げずに食べられるようになるためのスキルを教えますのでマスターして下さい」と伝えています。血糖管理のための食事指導の大切さがまだ今の日本では十分に普及していないことを痛感したエピソードでした。
さらに第2章でもうひとつ強調したい点は「医療の生活化」という提案をしている点です。医療人類学、医療社会学ではしばしば現代医療が私たちの生活の隅々にまで入り込み、Real time CGMによって絶え間なく、自身の血糖値のモニタリングが可能となることによって、私たちの「日常生活の医療化の危機」を訴えています。しかし著者はこうした主張を紹介しながらも、同時に生活者が生活の一部として医療を創造する「生活知」に着目する「医療の生活化」(阿部年晴2014)を提案していることです。そして本書は「医療の生活化」に近い立場であるとも述べています。確かに私の外来でもうまく血糖管理を実践している人たちに共通しているのはこの「医療の生活化」という現象ではないかと気づきました。
そして最後の終章は「2型糖尿病とともにある暮らしを記述するということ」。ここで著者は2型糖尿病をもった人の「暮らし」と「病気」は分かちがたくあることから、「病い」の経験と「病いとは言いがたい」経験の異なる有り様を明らかにするため、ライフヒストリーの方法論を用いて、「まずは、その人(病む人)の視点から人生や生活といった文脈を捉え、病いの経験を記述して理解を深め、ケアの基盤を固めたい」(本書p174,3-5)との想いから参与観察研究を行っています。著者のこうした姿勢は、ナラティヴ・メディスンをめざす私の姿勢と共通するもので、深く共感しました。
本書を読み終えて、いつか時間が取れたら、細野さんとゆっくり本書について意見交換をしてみたいと思いました。特に第2章に出てきた「身体の根源的な意向」「隠れた能動性」といった言葉の意味する内容について、ご意見を伺いたいと思いました。いづれにしても、細野さんと私はめざすべきアプローチが近いことから、機会があれば、私の外来診療に陪席していただくことで、これまでの研究の成果をさらに深めていただくことは可能だろうかなどという妄想を抱いたことをここに告白したいと思います。
細野さんのご研究の益々のご発展を祈念しています。
#ダブルバインド(ウィキペディアから参照)
ダブルバインド(英: Double bind)とは、ある人が、メッセージとメタメッセージが矛盾するコミュニケーション状況におかれること。この用語はグレゴリー・ベイトソンによる造語である。
わかりやすく喩えると、親が子供に「おいで」と(言語的に)言っておきながら、いざ子供が近寄ってくると逆にどんと突き飛ばしてしまう(非言語的であり、最初の命令とは階層が異なるため、矛盾をそれと気がつきにくい)。呼ばれてそれを無視すると怒られ、近寄っていっても拒絶される。子は次第にその矛盾から逃げられなくなり疑心暗鬼となり、家庭外に出てもそのような世界であると認識し別の他人に対しても同じように接してしまうようになる。