感情のデトックス、哀しみの追体験
最近ハマってる本に『感情はうんこだ』みたいなことが書いてあった。出さないと、便秘になったり体内に毒素がまわったり、最悪の場合は病気になったりする。
感情は目に見えないので軽視されがちだけど、うんこと同じように溜まると大変だから、適宜出しなさいよ、とのお達しである。
やっと向き合った、幼きころの自分
ハマってる本については、また別途書きたいのだが、その本を読んでいたら自分の幼少期~学生時代がありありと炙り出されて、自分の記憶から消し去っていたであろう過去をどんどん思い出した。キツかった。
やっぱり人は、自分にとってしんどい経験は、見たくなくてフタをするのだろう。フタをして、忘れきっていたはずの昔の自分が、「わたしはまだここにいるよー」「ぜんぜん消えてないよー」と心のなかでくすぶっていた模様。
今回、「きみはそこにいたのか!」と発見したおかげで、するすると自己理解が進んだ。
「わたしは○○な性格」とか思っていたものも、結局は幼少期や10代での体験から習得した”生きるクセ”みたいなもんだった。
そうか、悲しかったんだね、踏ん張ってきたんだね、と認めてあげることで、当時の自分が抱える数々の傷が、やっと光を浴びて少しずつ癒えていく。
冒頭のように、『感情はうんこ』なので、溜まってるといろいろキツイ。その期間が長ければ長いほど、もっとキツイし、向き合う作業はさらにしんどい。
私は、昔抱えていた感情の蓄積を、30年くらいの時を超えてやっと放出できた。おめでとうはっぴ~おっぱっぴ~
『怒りの半分は、哀しみでできている』
このあいだ、Yさんが教えてくれた物の見方が、スッと心に入ってきた。
「怒ってる人は、じつは相手に怒ってるのは半分くらいで、もう半分は自分のなかの『悲しい自分』がいるんよね」
本当は、「お前に怒っている!!」ではなく「私は悲しい」なのである。ぐひゃん。その通りだけど、それを認めるのはキツい人もいるだろう。
Yさんは、怒ってる人をみると「この人は悲しいんだなぁ」と受け取るという。
私たちの感情は、適切に汲みとってあげないと、他者に対して攻撃的になったり、自分に対して否定的になってメンタル病んだりする。外にも内にも攻撃をもたらす元凶は、『感情の抑制』だ。
感情をヒントに、自分を知るということ
『感情の抑制』がよくないからといって、四方八方に感情をぶち撒けるのはもちろん違いまして。私は感情的な方や、機嫌で態度が変わる人には疲れちゃうので、そういう人とは接点をもたないようにしている。情もクソもございません。
感情をぶち撒けるのではなく、『感情』を把握して、自分を理解すること、そして他者に伝えることは、人生をとても生きやすくする。
『うれしい』とか『たのしい』といったポジティブな感情はそのまま出せばいいし、『かなしい』とか『つらい』も、「今わたしは悲しいことがあって、元気がございません!何卒!」と他者に伝えることができる。
私たちは感情が把握できないと、訳もなくイライラして態度に出したり、人に対して意地悪な感情やイラつきを持ったりするんだと思う。
たとえば、約束を守らなくて「なんで約束守らないの!あんたはいつも口だけ!もう知らない!」と怒ることもできるけど、そこにある【自分の悲しみ】に気づいてあげれば、「私は約束を守ってもらえないことがとても悲しい。」と、自分の感情起点で相手に話すことができる。
俺はまだ人生の反抗期
と講釈を垂れるようなことを言ったもんだけど、大五郎は絶賛人生の反抗期である。
「すべてに感謝ですね」とか言う人をみると「うるせぇ」と思うし、「やっぱり愛ですね」みたいな話にも「愛って言葉に逃げんな!」と思うし、「私たちは生かされている」とか聞くと「こっちは生きて差し上げ(あげ)てんのよ」と抗いたくなる。
絶賛反抗期。反抗期なのでゆるしてください。
みなさまもぜひ、感情のうんこを大放出してあげてください。
助けが必要な人には、CommuComでサポートできるようにします。(ぜんぜん準備進んでなくてごめんくださいませ)
便通スッキリ大五郎でした。
サポートいただきましたら、私も誰かをサポートしエンドレスサポートトゥゲザーします。