悲しみの感情は、なぜあるのか
ぴーちゃんが死んだ。命あるものはいつか尽きる。ぴーちゃんがやってきたときから最期を覚悟していた。くるべきときが来た。
ぴーちゃんの死に対して、「もっと生きてほしい」とか、「もっとこうしていたら」とか、悔いや後悔の念はない。誰にだって、来るべきときはくる。
じゃんじゃん泣く私の涙を、3歳児がティッシュで一所懸命拭く。ありがとう。
かなしい、でも、なぜかなしいのかわからない。覚悟もしてたし、来るべきときが来ただけじゃん?でも、なんでこんなに涙が止まらないのか。
自分のなかにあるのは、純度100%の悲しみだった。かなしい以外の何ものでもない。とにかく悲しい。
泣きながら「かなしいっていう感情は、なぜあるんだろう?」と、どんどん関心が膨らんだ。
「悲しい」感情のメカニズムを知りたい
Google先生なら、ひと通りの答えは知っているだろうと思ったけど、ヒントになりそうな記事を読み耽っても、そこに私が納得する答えはなかった。たぶん、もっと文献を漁らないといけなそう。
とにかく悲しみについて気になった私は、自分で考察することにした。今ある自分のなかの「悲しい」の感情は、一体何のためにあるのか。なぜ、人間のもつ感情の一つとして残り続けているのか。
悲しんでもどうしようもないのに、何でこんなに悲しむのか。
悲しみは自己治癒
私は、人間の感情の奥底を掘るのが最近の趣味だ。
『怒り』や『イラつき』などは、自分なりに考察が完了したが、『かなしみ』についてはまだノータッチだった。
『かなしい』という感情がある限り、それは人間の生命維持活動にとって必要な要素の一つなんじゃないかと思う。じゃあ何に必要か?と考えると、私なりの解は『自己治癒』かな、との結論に至った。
人は、心が傷つく。
傷がつくと、それを守ろうとする。
心が傷ついたとき(嫌なことがあったとき)
→どうにかできるとき→怒り
→どうにもできないとき→悲しみ
のような反応がでる。(仮説)
つまり、自分の心についた傷を、誰にも・どうにもできない場合は、『悲しみ』という感情で自己治癒するんじゃないかな。
かなしみ自体はつらい経験だと捉えられそうだけど、自分が傷つくよりも前に『悲しみ』によって、自分の傷を癒そうとしてるんではないかと。
この悲しみが出なくて直球で傷を受けると、ショックで体調を崩したり記憶を失ったり精神疾患を患ったり、別の形で傷が現れるんじゃないかな。
解離性同一障害も同じように、あとはPTSDとか、人間は身体だけでなく心もしっかり傷がつくので、その傷を受ける前の防御として悲しみがあるんじゃないかと思った。
だから、悲しみを出すのが大事
悲しみというのはネガティブな感情なので、抑えたり我慢しがちな気がするけど、本来の役割は"自己治癒"なので、悲しみを抑え込んでしまうと、結果傷がずっと疼いて、あとになって後遺症が残ると思う。
悲しみの感度が鈍る(過去の私)と、自分には悲しいという感情がないんだ〜ウェイ〜と思ってしまいそうだけど、本当は違うんじゃないかな、しらんけど。
悲しいの感情を抑え込んだ結果、今さらそこを掘り起こしたら自分が壊れてしまいそうだから、見て見ぬふりをして悲しみを鈍化させている、なんてパターンもあるんじゃないか、なんつって。
ちゃんと悲しんで、私は私の心を守っている。
根拠はないけれど、そう思ったら悲しみに感謝すらできるふしぎよ。きっとたくさん悲しんで、涙がでて、その繰り返しがいまの心を癒していくんだと思う。
悲しみが消えるころには、傷が少しずつ癒やされているんだろうきっと。いっぱい泣きましょう。
※ここに書いてることはあくまで個人の考えです。