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闘いの日々の先に―菅井友香さんの旅立ちに寄せて―(前編)

2022年11月8日・9日の東京ドーム公演をもって
櫻坂46 2nd TOUR 2022"As you know?"は幕を閉じました。

グループに寄せる思いは三者三様、十人十色。
人の数だけあると日々感じていますが…

こんな想いを寄せる自分にとって
挑発的にも捉えられるような
新たな側面を見せようとするような
櫻坂46のステージを見られたことは
心から誇らしく思います。

そして、そんなツアーが終わるほんの少し前。
櫻坂46の前キャプテンである菅井友香さんが
グループを旅立ちました。

筆者のいわゆる"推しメン"でもある菅井友香さん。
人生初の"推しの卒業"を迎えた瞬間でした。

こんな前向きな気持ちに溢れている今、
菅井友香さんの旅立ちに思うことを
書き綴りたいと思います。

…………ということで
ライブやセレモニーについては触れず、
自分の人生を振り返りながら、
菅井友香さんへの尊敬の思いを綴ります。

言葉と姿と振る舞いに

「誠実に生きて、自らの行動によって他者の人生にいい影響を与えられる人になりたい。それを1番の軸にしていきたい」

あの日、こんなことを考えていた(44ページ)

グループを卒業する時、
周りにどう思ってもらえるかを大切にしたいと綴る菅井友香さん。
かつてこんな言葉を残していました。

卒業セレモニーで流れたVTRの中でも
「人生を変えられる人になりたかった」と、
「必要な存在になりたい」と口にしていたことを
よく覚えています。

自分にとって、菅井友香さんは
紛れもなく「人生を変えてくれた」ような存在です。

どうしてそんな存在なのか。
その全てを文章で表しようもないのですが。

誰かのために、何かの目標のために
キャプテン、いや、「リーダー」がどう振る舞うことができるか。
他者のためにどんな姿を見せることができるのか。

それを自分なりに考えて紡ぐ言葉に
時に自らと闘いながらまっすぐ貫く姿に
いつでも組織や他者の目線を持っている振る舞いに
自分もこうありたいと強く思っているからです。

そんな菅井友香さんの姿を振り返るとき、
おこがましくも私自身が過ごしてきた
二十数年の日々を思い返してしまいます。

リーダーを務めるきっかけ

誰かのために動いているはずなのに
何かの目標のために身を挺しているはずなのに。
なんだかうまくいかないと感じることが今までたくさんありました。

葛藤しては他者や環境のせいにしてみたり、
乱暴な言葉を吐いてみたり。
そうやって自らのちっぽけなプライドを満たそうとしても
もう片方で自己肯定感の低い自分は、
いつもやり場のない不満を抱えて過ごしていたように思います。


組織のために自分にできることがあるのなら、
リーダーや何らかの役割をもって過ごしたい。
それは今でも思っていることです。

そんな「人の前に立つ」ともいえることをはじめて意識したのは、吹奏楽部での経験でした。

もともと楽器を始めたのは小学校の課外活動からでした。
親しい友人がクラブに入ること、兄が吹奏楽部であることがきっかけ。

初めて担当した楽器はトランペット。
音を奏でる楽しさに、
合奏で曲を作っていく楽しさに気づき始める日々。
ソロを任されるも日頃失敗しまくり
一人別室で練習させられたこともよく覚えています。
緊張に弱い自分には荒療治ながらも、
本当にいい経験でした。

そして、中学校では吹奏楽部へ入部。
人生の転機ともいえる出来事です。

小学校で楽器をやっていたし、
他にやりたいこともないから、
というぐらいの理由だったように思います。

そして、良くも悪くも吹奏楽部と切り離せない
「吹奏楽コンクール」の存在に出会います。

毎年吹奏楽コンクール県大会には行くけれど
それ以上はまず望めない。
地元市ではそれなりだが
県内ではいくらでもいるぐらいのレベル。
それでも毎年県大会には行っているし、
それが当然といった雰囲気が
進んだ中学校にはありました。

中学校という慣れない環境の1年目。
緊張しながらも音楽室で練習する日々。
今振り返っても、日々の練習は率直に言ってひどかった。

音楽室の前方に1年生が座る。
後ろから監視するように3年生が座り、
前に座る後輩たちの行動について、なにやらひそひそ、しかし聞こえるような声量で話す。
そして先輩達は、練習をする………ことよりも同学年の人たちと話している方が多かった。

いきなり課題曲を渡され、これ練習しといてという無茶な指示。
あまり気持ちのいい記憶ではないけれども、今でも鮮明に覚えています。
自由曲も当時の自分にとってはかなり難しかったけど、どのくらい教えてもらったかな。

そんな中でも、文字通り息を合わせて、迫力ある曲を作り上げていく吹奏楽にのめり込みました。人生で初めて没頭するものに出会えた瞬間でした。

そして、迎えた人生初の吹奏楽コンクール。
結果はいわゆる「ダメ金」で、
県大会にも進むことはできなかった。
内心で当然の結果だと思いつつ、
コンクールへの思いは燃え上がる一方でした。

大会が終わると3年生は引退。
部長・副部長を筆頭に代替わり。
1つ上の穏やかな先輩が部長になりました。

気合は入れど、中学から担当するチューバには先輩がおらず教えを乞うことができない。
困り苦しみながらも、他パートの先輩や同級生と共にかなり練習に打ち込みました。

来年こそせめて県大会には、
できればその上の東北大会にも、という
熱い気持ちを正義感とも捉えて、練習に打ち込み、
周りも練習に打ち込ませました。

先輩相手にもお構いなく、
あれをしなければこれをしなければと
好き放題にまくし立てる。

優しい部長や先輩方は、
少なくとも自分の前では耳を傾けてくれていたと
今では恥ずかしくも思います。

優しさにも気づかず相手の気持ちなど考えず、
間違った熱意が肥大していた日々のように思います。

時が経ち2年目のコンクール、
県大会に進むことができました。
前年の雪辱を晴らせたようで嬉しかったし、顧問の先生もノリノリで東北大会にも行けるような雰囲気を出していたのをよく覚えています。
だが、当然そんなに甘くない。
残念ながら県大会で終わってしまったのです。

リーダーについてこい

そして代替わり。次の代の部長は、前の代の部員と顧問が話し合い選ぶことになっていました。
そして、願い通りに自分が部長を務めることとなりました。良くも悪くも目立っていたから、そうなることはある意味当然でもあったと思います。

どうしても県大会より上に行きたかった。
コンクールで「勝つ」こと以外の価値観を知らなかった。
部長になったからには苦しいことも厳しい練習もさせて、絶対に勝ちたいという思いばかりが募りました。

顧問にかけあって朝早くから練習できるようにした。
顧問がいない時間でも、生徒同士が話し合い積極的に練習の時間を確保できるようにした。
土日の部活終わりに公民館を借りて、生徒同士で楽典の勉強や、取り組む楽曲の解釈について語り合ったりもした。

当時は、「自らの力があったからこそ」そうできたのだと思っていました。
今振り返ると、熱い気持ちを持つのはいいけれども、その気持ちの振り方がよくなかった。
自分のことを棚に上げて厳しい口調で練習に臨んでいたし、合奏でもうまくいかないパートの方をいちいち睨んだりしていたなあ。

すべて部員のせいに、環境のせいに、外向きに目線を向けていたのです。
こうして、そんな実力もないのに、自らの手で組織や周囲を変えて見せる、自分にはそれができるはずだという気持ちが膨らんでいきました。
部長である自分に、リーダーの言うことについてこい。従え。
そんな振る舞いばかりしていたように、今では恥ずかしくも思います。

中学3年、最後のコンクール。
練習のおかげもあってか県大会までは進めました。
県大会は、結局真ん中ぐらいのなんともいえない順位で、当然東北大会など遠く及ばない結果で終えたのでした。
そして、不完全燃焼な気持ちを抱えたまま中学校での部活動を終えました。

進学する高校をどうするか。迷いなく決めたことを覚えています。
不完全燃焼で終えた吹奏楽部への想い、そのほぼ1点で選んだのでした。
(大学には進みたいとぼんやり考えていたから、それも要素にはありましたが。)

"他"を責めてばかりの日々

吹奏楽部に入るために選んだといっても過言ではない高校。
加熱する想いのまま、部活動に打ち込んでいきます。

そして、中学校で抱えていたのと同じように、自らの手でなんとかしたい、上位の大会に進みたいという思いのままに、高校2年の夏からまた部長を務めることとなりました。

中学校でも自分だけ空回りしているようで困っていたのに、
自らの行動を顧みることもなく、
部員に対する焦燥感と腹立たしさにも近い感情を抱えながら日々を過ごしていたように思います。

そして迎えた高校3年のコンクール。
県大会「ダメ金」で終わったのでした。
会場から音楽室へ戻り大号泣のまま部員へのあいさつをしました。話した内容は覚えていませんが、悔しかったのか寂しかったのか、何だったんだろうな。

その後、顧問の先生が「どんなに上の大会に行っても、その時作った音楽に満足したことは一度もない。今できる音楽をみんなと作り上げられたことが何よりも嬉しい。」と言ってくれたことは鮮明に覚えています。

慰めにも聞こえたその言葉、今ではそれだけではなかったのだろうと、その意味をより深く理解できる気がしています。

ほぼ部活漬けの日々を終え、向かうは大学受験。
様々な家庭の事情があり、さらには親を説得することもできず、結局自らが望む大学を受験することはできませんでした。
とても「不本意」な気持ちを抱えながら、とある大学の経済学部へと進みました。

組織行動論との出会い

これといってやりたいこともなく進んだ大学。
中高まで打ち込んでいた吹奏楽、かつての熱量はなくともせっかくなら続けようとサークルに入りました。

…入ってしまうと、やっぱりうずく気持ちがありました。
せっかくだからいい演奏をしたい。かける時間は高校の頃と比べて大きく減りつつも、かなり打ち込みました。

大学1年でサークルに入ったときの団長さんは、 時にいじられつつも大変物腰柔らかで
みんなから愛されていました。
それまで「強い部長」であろうとして、
ずっとうまくいかないと思っていた自分とは
正反対の姿でした。
そんな先輩に出会えたこともまた
人生の大きな転機だと思っています。

大学1年の冬、定期演奏会をもって代替わり。
熱量のまま、また団長を務めることになったのです。

しかし、それまでの環境と比にならないくらい
色々な考えを持つ人たちがそこにいることに直面しました。

高校で全国大会まで進み自らも楽器が上手で、合奏をまとめるのも上手。
しかし妥協を許さず、どんな時でも厳しい言葉でリードしていく同級生がいました。
私もそんな姿をありがたく思い、団長の立場でできることをしたいと思っていました。

が、団員は必ずしも同じ気持ちではなかった。
息の詰まる思いをしてまでやりたくないという意見もありました。
大学のサークルだからそれも当然です。

学生の活動とはいえ、
団長というリーダーの立場でありながら、
どうしていいか分からずうろたえてしまったのです。

ちょうどその頃、ゼミナール配属の時期になりました。
改めて大学にあるゼミについて調べていたところ、「リーダーシップ」や「組織における人間の行動」や「モチベーション」について研究する「組織行動論」という分野があることを知ります。

サークルというちっぽけなレベルではあるけれども、
自らのリーダーシップについて、
組織について悩み考え続けていた自分にとって、 その存在を知ることは目から鱗が落ちるようでした。

こうして、導かれるように、どこか救いを求めるように、組織行動論のゼミに入ったのです。

組織の意志決定、バイアス・ヒューリスティック、リーダーシップ、モチベーション、キャリアマネジメント、組織コミットメント、組織変革、、、。

今仕事では組織を率いる立場ではありませんが、
仕事でもそれ以外でも、このころ触れた学びが
物事の捉え方や考え方に活きています。

(余談ですが、ゼミの同級生の影響を受け、星野源さんの音楽や言葉にのめり込んでいったのもこの頃でした。そこから星野源さんと仲の良いバナナマンのおふたりについて興味がわきはじめたのもこの頃です。それは、ゆくゆく坂道シリーズへの出会いにもつながっていきます。)

そして、それまでの自分の考えを大きく変える2つの考えに触れることとなります。

尽くすリーダー

その一つは、「サーバントリーダーシップ(Servant Leadership)」という考えです。
リーダーこそ、まずフォロワー(組織にいる人たち)を尊重して尽くしながら組織のビジョンを示し、周囲からの信頼を得て、フォロワーが自ら行動する状況へと導いていく。

リーダーは強くあらねばならない、強く引っ張らなければいけない。
そんな思いばかり抱えて、そんな行動ばかりしてうまくいかないと思い悩むことが多かった自分にとって、その考えは衝撃的なものでした。

偶然もすべて活きる

2つ目は「計画的偶発性理論(Planned Happenstance Theory)」という考え方です。
予想もつかなかったことに溢れる日々の中で、人生・キャリアの8割は「偶然」によって決まっていくという一見嘘のような考え。

あらゆる出来事を計画的に進めようとしても、どうせうまくいかないこともある。
それならば、偶然起こったこともチャンスと捉えていけばいい。

簡単に(雑に)言えばそんな考えに触れ、うまくいかないことを他者や環境のせいにし、自ら選んだはずの大学進学も"不本意"と捉えていた自分を心底恥ずかしく思いました。

故スティーブ・ジョブズの言葉を知り影響を受けたのもこの頃です。

将来をあらかじめ見据えて、点と点をつなぎあわせることなどできません。
できるのは、後からつなぎ合わせることだけです。
だから、我々はいまやっていることがいずれ人生のどこかでつながって実を結ぶだろうと信じるしかない。
運命、カルマ…、何にせよ我々は何かを信じないとやっていけないのです。

スティーブ・ジョブズによるスタンフォード大学卒業式スピーチ
https://www.nikkei.com/article/DGXZZO35455660Y1A001C1000000/

闘いの日々の先に

大学を卒業し就職してしばらく経った頃、欅坂46を知り櫻坂46にたどり着く日々をかつてnoteに綴りました。

そして自分が見てきた欅坂46・櫻坂46・菅井友香さんの姿を振り返り、かつてこのようにツイートしたことを思い出しました。

そして、自らがそうあることはできなかった
まず周囲に尽くすことでグループを導いていく姿、
どんなことにも意味があると確信してこれからの歩みを正解にしていく姿。
その姿は今までもこれからもずっと目標です。

そして、かつて大きな影響を受けた「サーバントリーダー」の姿と
「計画的偶発性」を理解して乗りこなしていくような姿を、菅井友香さんの歩みに感じるばかりです。

加えて、そんなことを思いながら
菅井友香さんの卒業発表直後に書いたnoteを久々に読み返しました。

怒られそうなほどたくさんの言葉をブログから引用したわけですが
菅井友香さんの言葉に触れるたびにそのことを思い、尊敬の気持ちがまたあふれてきます。

初めからそこに辿り着けたわけではなくとも、
菅井友香さんが日々考え闘ってきた先に、
そんなリーダーとしての姿にたどり着いたんだろうなあ。

東京ドーム公演間近になってからも、
菅井友香さんが「菅井友香さん自身」との闘いといってもいいような日々のことについてたくさんの言葉を残しています。

いつどういうタイミングでチャンスが来るかというのは本当にわからないので、いつ何が来ても、そのチャンスを逃さずに対応できる自分でいられるように、周りを大切にしながら、自分自身を信じられる自分でいることが、夢を叶える秘訣になるのかなと信じています。

櫻坂46菅井友香、自分を信じられなかった、好きになれなかった…葛藤の日々で見つけた“夢を叶える秘訣”と“笑顔の秘訣”<「大切なもの」インタビュー後編>
https://mdpr.jp/interview/detail/3436353

最初は全然自分のことを信じられなかったんです。特にグループに入るまでは、どうしても自分を好きになれなかったり、自分を信じられなかったりして、今思うと、そんな私だから周りもなかなかさらけ出せなかったんじゃないかなとも思います。でも、そんな自分を受け入れてくださったり、応援してくださる方がいたり、自分が弱点だと思っていたところを褒めてくださったり、皆さんが愛情を注いでくださったおかげで、自分自身を受け入れられるようになって、積極的に周りと繋がれるようになりました!

櫻坂46菅井友香、自分を信じられなかった、好きになれなかった…葛藤の日々で見つけた“夢を叶える秘訣”と“笑顔の秘訣”<「大切なもの」インタビュー後編>
https://mdpr.jp/interview/detail/3436353

『自分らしくない』と思ってしまうことを続けていたとき、自分なりに向き合っている姿を、すごく応援してくださっている方がいたことも力になりました。
(中略)
私自身も誰かの力になって、背中を押すことができていると思えたことは、やりがいになっていました。
(中略)
『自分には向いてない』って思うことの中に、それまで知らなかった自分を発見することができた。
アイドルとしての7年間は、『人は、挑戦することで、想像以上の自分に出会えるんだ』ということを教えてもらった気がするので、これからもできる限りいろんなことに挑戦して、また新たな自分を見つけていきたいなと思っています」


櫻坂46菅井友香が「若いうちは苦労しておいた方がいい」との言葉に納得する理由
キャプテンを経験して得たこと・前編
https://gendai.media/articles/-/101965?page=3

キャプテンとして全体をまとめなきゃいけない立場としては、組織を黒と白に分けるという表現の中で、『私は、グレーを見つけていかなきゃいけない立場なんだから』って自分に言い聞かせていました。
(中略)
私は、みんなで話し合って、お互い納得できる点を見つけて、協調していく。そこを調整していかなきゃならないポジションで……。話し合いがまとまらないこともあって、自分の力不足を痛感しましたし、すごく……悩んだ時期ではありました。


櫻坂46菅井友香「『黒い羊』を歌っていたとき、私はグレーでいなければと思った」
キャプテンを経験して得たこと・後編
https://gendai.media/articles/-/101971

様々な切り取られ方で報道される。
時にネットなどで好き勝手にさらされる。

そんな中で、グループをよく知らない人からも、
時に「ファンとくくられるであろう人からも」
心ない意見を寄せられたのが欅坂46であり、
それはしばしば菅井友香さん本人にも向けられていたように思います。
そしてそれは櫻坂46になってからもなかったわけではないように感じています。
(「大切なもの」インタビューにおいて、自らに向けられた言葉についても述べていて、大変心苦しくなりました。)

グループにとって、菅井友香さんにとって、
そんな日々もすべて意味があったのだと今捉えられるようになったのは、
キャプテンが自らの、グループの意味や価値を前向きに捉えるために闘ってきたからだと感じています。

そして、自己肯定感が低いと自ら口にしていた菅井友香さん。
(おこがましすぎる言い方ですが)同じく自己肯定感が低い自分にとって、そんなものを無理に高めなくても
自分なりに考えてもがいて「自分と」闘った末に得られるものがあれば、自分にとっての支えになるのだろうということを、菅井友香さんの姿と言葉が教えてくれたと思っています。

おわりに

東京ドーム公演2日目、いよいよ旅立ちを迎える時に菅井友香さんが綴った言葉は一生忘れないでしょう。

今日までグループを守るために闘ってきました。
悲しいこともあったけど、最っ高に楽しかったです!

櫻坂46キャプテン菅井友香「波乱万丈なアイドル人生」に幕 葛藤の日々に涙も【卒業スピーチ全文】
https://www.oricon.co.jp/news/2256425/full/

その言葉を使わなくても、やっぱり菅井友香さんにとっても「闘い」と捉えていたのだなと
ほんの少しの申し訳なさと、それまでの歩みに対する大きな感謝が溢れた瞬間です。

必要のない闘いをしなければいけなかったこともたくさんあったと思います。
時にそういう状況に追い込んでしまったのは自分を含めたファンも一因ではなかったかと、そしてグループを形作る「運営」にもできたことすべきことはあったのではないかと、複雑な思いも捨てられません。

それでも今は、菅井友香さんの闘いの日々の先に
櫻坂46というグループ・メンバーに、菅井友香さん自身に明るさあふれる今があることをありがたく、誇らしく思うばかりです。

毎度ながらとんでもない文字数になってしまいました。どうしよう。

恋愛感情ではない菅井友香さんへの尊敬の気持ちをどう言い表せばいいものか、いつも悩むのですが
やっぱりこうとしか言えないな。そんな言葉でこの文章を閉じます。

菅井友香さん、今までもこれからもずっと大好きです。