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「ハードルを低く、高く」20240120

・よく考えなくてもなんでわざわざ一人になろうとしているのか?一人でいることは特に意味ないのに。むしろ私は一人でいるとすべての勢いを己の内で殺してしまい、課題も生活も何もできないまま停滞してしまうのに。あれ……?本当にどうしてだろう……


・ケレン味の意味をずっと覚えられない。物語とか作品の評価に使う言葉なのは知ってる。意味は。


・↓これはSNS禁じてた2、3日に書いてたやつ。

・Twitterを見たい 見たい

・TLの風景に中毒になっている気がする。あと、考えたことを吐き出していくことの中毒でもある。SNSしばらくやめるって決めてから丸一日と半日くらい過ぎたが、今日の朝くらいからかなり時間の進みがゆっくりになってきた。他人の言説で脳内を埋め尽くされることがない。だから自分の考えを広げる余裕がある。

・CPUだのメモリだのを脳と作業机と表現することがあるけど、脳そのものも結構当てはまる気がするな。処理能力と、その考えを広げる場所-机と、机の数…感覚的だけど。

・音楽を大音量で聞き続けているとストレスに鈍感になるらしい。らしいばっかり。でも実際そう、脳の処理能力を一部麻痺させて今考えるべきことだけを考えさせる。


・結局SNSない生活が楽しくなくてすぐ再開した。そしたらTwitterのアカウントのうちひとつが、二段階認証設定をミスっててログインできなくなってた。



・なにも考えないで教授に「私達が提出した課題どうでしたか!?」って聞いたら、まじで当然のようにめちゃめちゃしっかり返事帰ってきてびっくりした。人に聞くのが怖い、やっても意味ないんじゃないかという私の精神性は、わたしだけのものにすぎない。あるいは教授が、教授なので、しっかりと答えてくれた、と、そういうことかはわからないけど。

・普段はこういうことを聞くときに(いうて大したこと書いてないし大したコメントも持たれてないだろうな)とか(私なんかそんな優秀でもなんでもないからあの人の記憶にそこまで強く残ってないだろうから、とくにコメントすることもないかもしれない)と思って、疑問を持っても聞くまで至らないのだけど、今回めちゃめちゃしっかり対応してくれたので、かなり認識が変わった気がする。腹くくって相手を相手にする、コミュニケーションの究極は相手を背負い込むのに躊躇をなくすこと、とか、そこらへんが実感できるようになってきた。

・あとそれはそれとして結構いいとこまで行ってるって言われたので嬉しくなってる。その飴もあって受け入れやすくなって実感できてるのかもな。


・こういう思考の根本は、そも他者から私への影響を私自身で軽視しているからと言うのがある気がする。で、私から他者への影響も同じく。今回においては教授をナメすぎてたのもあるか。




・直接行動

・って、なんだよ マジで 当然のようにハイレッドセンターの説明に使われてるけど、どこにも説明がない そこの定義をしっかりしておかないとハイレッドセンターがやったことの説明をつけられないんじゃないの?結構重要っぽい言葉みたいだけど。定義をしっかりしろと後世の評論家に言うのは違うか…多分本人たちが何も公開してない可能性はあるな。赤瀬川源平がなんかハイレッドセンターについて本を出してるらしいから読むべきかも。しかしまあ、そこまで熱意は無い。


・「回廊とデコイ」の舞台挨拶を見に行った。小林賢太郎さんと高崎拓郎さん、後半に(全然ゲストじゃないのに会場にいらした)松本亮さんも加わってお話を聞いた。とても良かった!

・賢太郎さんと高崎さんの出会いが「僕がNYに住んでいたときに彼の舞台を見に行って、初対面だったけど面白かったし日本語が話したかったから挨拶に行った」ということらしい。日本語が話したかったから初対面で挨拶に行く、そのフットワークが芸術家すぎるな……。挑戦を挑戦と思わず、というか”所謂挑戦”というものは日常で、やりたいことを達成するのは当然なんだよな、きっと。



・楽天infoseekニュースの、他の記事を表示するであろうところが広告だらけで面白かった。

・25個くらいあったんだけどそのうち記事のリンクは5個くらいしか無かった気がする。




・↑今やった

・↑去年の5月とかにやった

・変わりすぎ!!!!!!!!!

・数値そのものはそもそも基準が変わってるみたいだけど、偏り方がまるで違う。辞書=言語抽象の項目なのかな?言葉をこねくり回すのが好きになったんですね。あーあ、学科に染まってしまった。己の芯がない軟弱者め…



・まつもと市民芸術館に行きたい 長野に行きたい 雪、友達、知らない土地、そば。


・ヤマキの白だし、ダッサい香ばしさとダッサい甘みが嫌い。ごくごくたまに使うけど……買っちゃったので……。




・論文を書くのが嫌に滞っているのは、私が論文をよくわかってないのは踏まえつつ、論文というものを書き出すときの意識の姿勢がどうにも気に入らないからなんだと思う。確実な証拠、数字や記録、物理的なもの以外を論の証拠として提示して読者を説得しようとすることが私は受け入れられない。そんなことをしたら随筆じゃないかと感じてしまうので…。

・でもこれは私が知見が狭いせいだとは思う 随筆も論文もそんなに読んでないし、比較するつもりで読んだことなんて特にないし。

・感覚的なことであってもその強度を高めれば論の証拠になりうるっぽいな?というのは最近のなんとなくわかってきたけど、やっぱり数字だのの確実性に私は縋ってしまう。

・恐らく対話型鑑賞から来た、事実と解釈を切り分けようとする意識によってこの拒否感が出ている気はする、現時点では欠点。この"感覚的・数字ではないもの"の確かさを私が信じることができるようになれば、この切り分け志向はあきらかに利点でもあるのだろうけど…。


・そも、論文というものの性質がわりと苦手。 特定の分野に対して地平を設定し、そのうえで問いを設定し論を主張して、読者に対して様々な証拠で説得を図るというのが論文、だと思うんだけど、わたしはそこまで強固な主張を持った経験がない(そのつもり)。わがままを通すことも人に納得してもらうことも、どれも苦手なんだ…すぐ引いてしまう。自分一人でやれるなら特に遠慮もないんだけど、他人を意識した途端に主張というものができなくなる。

・論文とは人を言いくるめるのがメイン目的だということだけども、言いくるめをやるという場面において私は私の意見を使えない。私の意見はそんな強度はない・そんな価値はない・そんな重要ではないと思っているし、意見なんて別に言うもんじゃねえだろという根っからの偏りがあるため。

・だから逆に、自分のじゃない主張に対して裏付けや理論のこねくり回しで納得させるということなら、達成できるかは置いといてまあやれはするなと思っている。だーから新規性みたいなポイントでの意義が苦手なんだ。


・こういう、誰に言うわけでもなく、自分に言い訳するための「私は論文が苦手」の主張はできるぞ。そんなことしてないで課題やれバカ!


・問題は提起されないと無視されるのだから。という言葉を己への言い訳として。



おわり。

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