バーチャル美少女受肉とボディ・イメージについて

懲りずに話を続けてしまうというね。

「ボディ・イメージ」は、私が「認識身体」と呼んでいるものの学術用語だ。……用語として確立しているのかは知らないが。とりあえず使用はされている。まあ、定義さえ成されていれば、字面は問題ではない。

先月辺り、この「記憶身体」の正体は、"認識身体による物理身体のエミュレート"である、という理解を遂げた。
ということは、対となる"物理身体による認識身体のエミュレート"も存在するのではないか。そう思い返すと、確かにあった。昨年の術後、尿カテ抜去時。少し痛いですよ、と言われて身構えた尿道の長さが、認識身体のそれだった。
スッと終わって、呆然として、それからようやく、この物理身体の形を、男女の尿道の長さの違いを思い出した。軽い術後譫妄も混じっていたのだろうが、あのときは、確かにこの物理身体が、認識身体に上書きされていた。
そういうわけで、今この身体には計4つの感覚が重複し――いやこれ胸オペ経過のnoteだったわ。脱線してるわ。戻ろう戻ろう。

胸オペ1年経過所感(性同一性障害 GID・FtMにおける身体的治療: 乳房切除術を受け、1年経った感想)|森野舞良|note

で、私はありふれたヒトなので、ひとつの物理身体を有している。
そして、それと合致しないひとつの認識身体を有している。
その齟齬を埋めるべく、"認識身体による物理身体のエミュレート"が生じている。私はこれを用いて、この物理身体での生活をしている。
逆方向からも齟齬を埋めようとして、"物理身体による認識身体のエミュレート"が生じている。

ここへだ、物理とも認識とも合致しない「仮想身体」、つまりバーチャル美少女アバター(別に美少女でなくともいいが)をひとつ追加したら、さてどうなるか。
単純に考えれば身体が3つになる。
エミュレートも合わせると、計9つの身体が混在する。

つまりこうなる。大変に賑やかである。

この図は、多くの非身体完全同一性障害者に向けて、物理身体を左上に描いた。しかし私の場合、そして実際のところ全てのヒトでは、主体は右上の認識身体である。ほぼ完全に物理との同期が取れているので、それに気づけていないだけだ。おそらくは。

よって、多くの人にとってのバ美肉問題は、
『「認識身体(=物理身体)」と「仮想身体」間の齟齬』になる。
性同一性障害・身体完全同一性障害における問題、
『「認識身体」と「物理身体」間の齟齬』と構図は同一だ。
人格や世間体の問題はひとまず論じない。

過去、花に潜るクマバチに没入(『ニューロマンサー』よろしく"ジャック・イン"と読みたい)したときは、しばらく自分の身体に戻ってこれなくなって大変だったし、今でも時々、その身体感覚が蘇ってきて揺らぐことがある。
この「揺らぎやすさ」はGIDにも関連があるのではと思う。自分ではない身体に在ることと、その感覚が有ること。自分の身体がないことと、その感覚だけが在ること。
この二重の身体感覚に対処するために、判定が甘くなっているのではないか。あるいは判定の甘さが先にあり、それが幻身体を生じさせているのかもしれない。
だから、怖いのだ。いつか自分は、「この身体」、この物理身体に戻ってくるのではないかと。戻ってこれるのではないかと。戻ってきてしまうのではないかと。
このGIDは本物なのか。身体的治療を進めて本当によかったのか。だから思春期を棒に振ってまで考え抜いたし、未だに考えている。
そして身体的治療を開始した当初はここまでの言語化に至っていなかったし、そして未だこのゆるふわ具合である。
あと、自己と外界の境界としての身体と感覚。これも甘い。裸あるいは緩い服だと、境界が溶けて発散していく。私にしばしば体表を触る癖があるのは、手と肌、双方からの身体の確認行為ではないかと思う。
発達障害と性同一性障害と身体と感覚について|森野舞良|note

私はもともと自己や身体や性の境界が甘めなので、実際バ美肉してもわりかし上手くやっていけると思うが、全ての人がそうというわけではないだろう。――というかしていたわ。リアルで。高校1年の春までは少女やってたわ。さすがに美ではなかったと思うが。

そしてこの「上手くやっていける」という予測は、既に性同一性障害を体験しているからほざけることであって、体験していなければ、あの筆舌に尽くし難い艱難辛苦をそのまんまなぞること請け合いだ。

いや、私の話はいい。
話すべくは、「仮想身体」の仮想性と、「仮想現実」の現実性と、それらの侵食性だ。

「バーチャル美少女受肉」。
実体を伴わない、現実とかけ離れた外見の、肉体を受ける。
……こうして開くと、いっそ矛盾塊のような語句に思えてくる。

前回のnoteで、ネトゲやってたという話をした。クエストに挿入されたムービー内で、自キャラが自分の操作なしにシナリオ通りの動作をするのを見て、「身体を奪われた」という強い嫌悪感を覚えたことがある。没入により、画面の向こうのキャラクターが、自己に内包されていたのだ。

仮想現実の没入感は、ネトゲの比ではないだろう。仮想と付けども現実なのだ。こちらが没み入ることと、向こうが侵し食らうことは同等だ。

自己の、身体の、世界の境界は容易く掻き消える。事実や知識で正せるほど、この揺らぎは甘くない。よしんば正せたとて、体験や過去や記憶そのものを「なかったこと」にはできない。そして、正すには対価が要る。程度に差はあれ、時間やお金や経歴や社会的地位といった類のものが。

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