発達障害と性同一性障害と身体と感覚について
浅学ながらボディ・イメージとかミラーニューロンとかについて考えていることをつらつら。
私のミラーニューロンはよく働く。過剰、と言ってもいいくらいに。もちろん、一般の程度を客観的指標として知っているわけではないが、恐らく、これは過剰なのだと思う。
ASDの診断基準に「身振り・ボディランゲージの欠如やぎこちなさ」とあるし、内気なので身体的表現は苦手だ。
しかし、独りであれば音楽聴いて乗るし、ダンス観て身体を振る。もう何をどうやっても体調がだるくてしようがないときに、これで現実の感覚を上書きして誤魔化したりできる。
小説を読んでいる最中に笑ったり泣いたりするので、電車内での読書が少し危なかったりする。
見ず知らずの子どもが涙声ではぐれた親を探しながら陳列棚を早足で抜けていくのをみて、貰い泣きをする。
小さい頃から歌うのが好きで、プロの歌い方を模倣して喉開けて歌う癖がついていたらしい。中1の音楽の小テスト(1人づつピアノの隣に呼ばれて、1・2フレーズ指定されて歌うやつ。公開処刑)で、先生から「習ってたりしてた?」と訊かれて初めて気づいた。
ぴったりなぞる、合わせる、といった、こだわりも混じるのかもしれない。逆にこれへ由来するのかもしれない。
対人スキルの代替として過剰に発達しているのではないか、とか思う。
なので、誰かの強い言動や感情に曝されるのを避ける。この反応は制御が効かない上、理解の伴わない共感、技術の伴わない模倣に過ぎないからだ。
もちろん、ミヤモト・マサシ曰く「狂人の真似をしたら実際狂人」、反応を重ねることによって、理解や技術が伴うこともあろうが。でも何を真似び学ぶかくらい選ばせて欲しい。
過去、花に潜るクマバチに没入(『ニューロマンサー』よろしく"ジャック・イン"と読みたい)したときは、しばらく自分の身体に戻ってこれなくなって大変だったし、今でも時々、その身体感覚が蘇ってきて揺らぐことがある。
この「揺らぎやすさ」はGIDにも関連があるのではと思う。自分ではない身体に在ることと、その感覚が有ること。自分の身体がないことと、その感覚だけが在ること。
この二重の身体感覚に対処するために、判定が甘くなっているのではないか。あるいは判定の甘さが先にあり、それが幻身体を生じさせているのかもしれない。
だから、怖いのだ。いつか自分は、「この身体」、この物理身体に戻ってくるのではないかと。戻ってこれるのではないかと。戻ってきてしまうのではないかと。
このGIDは本物なのか。身体的治療を進めて本当によかったのか。だから思春期を棒に振ってまで考え抜いたし、未だに考えている。
そして身体的治療を開始した当初はここまでの言語化に至っていなかったし、そして未だこのゆるふわ具合である。
あと、自己と外界の境界としての身体と感覚。これも甘い。裸あるいは緩い服だと、境界が溶けて発散していく。私にしばしば体表を触る癖があるのは、手と肌、双方からの身体の確認行為ではないかと思う。
あと、不思議の国のアリス症候群。最近は入眠時にたまに起きる程度だが、小さい頃はしょっちゅうだった。
ついでに、変性意識状態。過去に1回だけ、「変性意識状態」という概念を知らなかったら間違いなく宗教を興していただろう強烈さで食らったことがある。
こんなだからこの私は実に興味深い。
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