紫陽花を継ぐ
紫陽花を吊るすと、縁側の向こうの青空がまぶしい。六月の雨が上がった朝、私は祖母の家の縁側にいた。赤い柄の花鋏が手の中で重みを持ち、思い出の断片が心に浮かぶ。六月は私の誕生月だ。
小学校に上がる前、両親はいつも言い争いをしていた。
ある夜、母は生まれたばかりの妹を連れて出ていった。翌朝、ダイニングテーブルに置かれた手紙を読んで驚く父。
その日はちょうど私の誕生日だった。父はボストンバッグに手当たり次第に荷物を詰め込んで、私を連れて新幹線に飛び乗った。
「しばらくおばあちゃんの家にいて。」と言ったきり、父は何も話さなかった。
初めて乗る新幹線の車窓から飛び去る風景を眺めながら、現実味のない気持ちで5歳の私も黙り込んでいた。
新幹線から乗り換えて在来線の電車に乗り、いくつか先の駅からタクシーで30分ほど走って辿り着いた祖母の家。
父は玄関先で私とボストンバッグを祖母に預け、そのまま急いで帰っていった。翌日は仕事だからと言って、振り返りもせずに立ち去った父の背中を、今でも忘れることができない。
誰一人お祝いの言葉を言ってくれなかった誕生日。その日から祖母と私の二人暮らしが始まった。
祖母の家の庭は決して広くはなかったが、手入れが行き届いていて、たくさんの花が咲いていた。
祖母は言葉がきつくて厳しいことを言う人だった。
他人にも厳しかったし、自分にも、息子にも孫にも厳しかった。嫁にはなおさらだったことだろう。私は顔や体つきや性格も母親似なので、祖母は苦々しく思うこともあったに違いない。
六月の雨上がりのある日。
祖母は縁側から庭に出て紫陽花の花を鋏で切り取り、縁側の高い所に吊るした。
「お手伝いをしなさい」と叱られたばかりだった私は、祖母が縁側に置いた花鋏でもうひとつ紫陽花の花を切ろうとした。
すると祖母はにこりともせずに「一株に一つの花しかご利益がないのよ、その鋏をこっちによこしなさい。」と言って、痩せた手を差し出した。
五歳の私は、刃先を自分に向け、両手で祖母に鋏を渡した。「よろしい」と、鋏を受け取った祖母はかすかに微笑んだように見えた。
魔除けになるという紫陽花の花を吊るす風習は、六月の6が付く日に行うとよいと言われている。
私の誕生日に合わせるように祖母は紫陽花の花を摘み取って吊るすようになった。
私たちは紫陽花を吊るす一年に一度のこの日をとても大切にするようになった。
結局、両親は離婚して、父は新しい奥さんをもらった。その人はとてもいい人だったけれど、そのことで決定的に父がいる家が自分の家でなくなったような気がした。
再婚を機に、私は父と新しい母と一緒に暮らし始めたのだけれど、ずっと自分が余計な存在ではないか、という気持ちが変わることはなかった。実際のところ、いろいろな理由を付けて私は祖父母の家へ預けられた。子供時代の半分以上をあの家で過ごしたと言っても過言ではない。
相変わらず言葉がきついので、祖母と新しい母は仲良くなることはなかった。とりあえず表面上は一般的な嫁姑のような関係性は保っていたけれど。
毎年六月になると私は祖母の家で誕生日を祝って貰っていた。古い台所のレースのテーブルクロスの上にオレンジ色の花瓶に生けられた白い紫陽花が私は好きだった。
祖母が用意してくれる近所の老舗洋菓子店の小さな誕生日ケーキも小さなローソクも大好きだった。
高校生になったある年の六月。私はいつものように祖母の家を訪ねた。しばらく居座るつもりだった。
いわゆる反抗期で、すべてに腹立たしい気分はまるで病気のようだった。祖母は紫陽花を吊るしながらブツブツと何かを唱えているので、こっそり盗み聞きをしたことがある。
「健康で過ごせますように、幸せでありますように、幸運でありますように」
家族一人一人の名前を言いながら唱え続けている祖母の小さな声は嫌味を言ったり文句を言ったりする時とは全く違う優しい声だった。
「誰と話しているの」と、声をかけると祖母は驚いたように振り返り、ニヤリと笑った。「おまじないよ。私の祖先にはパワーのある人がいてね、私はその血を受け継いでいるのよ」
おまじない。漢字で書くと「お呪い」。のろい、という字と同じなのには驚くよね、と言うと「似て非なるものとはこのことよ」と祖母はそのあたりの物を片付けてさっさと台所へ行ってしまった。
祖母の言葉には力がある。
言葉選びが下手だと思っていたけれど、誰とも距離をとるためにそのような言葉を選んでいるのかもしれないと思うこともあった
。私が知る祖母は花や鳥を愛で、迷い込んで来たケガをした猫を治療して飼い猫にして可愛がる人だ。
幸せでありますようにと願っていた家族の名前の中には、私の生みの母の名前も、新しい母の名前も、そして私の腹違いの妹の名前も含まれていた。
それならもっと優しい言い方をすればいいのに、という言葉を私は吞み込んだ。祖母のことだ、出来るならやっているはずだ。
やがて私は高校を卒業し、念願の東京の大学へと進学した。
父は投資用のマンションをいくつか所有していて、私はその中の一つを譲り受けた。
社会人になって仕事が面白くなり、忙しい毎日を送る中で実家へ帰るということを考えなくなった。
もちろん私の実家というのは祖母の家である。時々電話で話をしても特に年齢を感じるようなこともなく元気そうな毒舌を聞くと安心して、電話を切ったらそのうち帰ろうか、と思ったその気持ちも不思議に消えてなくなってしまうのだった。
ある日、祖母が亡くなったと知らせがあり、葬儀の後で祖母の家に立ち寄った。
祖母は88歳になっていた。いつの間にそんなに時間がたっていたのだろう。私も40代半ばなのだから当たり前のことだけれど、祖母はいつまでもあの頃のままでいるような気がしていた。
いつものように通りに面した小さな格子戸から庭に入ると、いつものように吊るされた紫陽花が風に揺れていた。
それは祖母の最後のおまじないの紫陽花だった。祖母が静かに息を引き取ったのは六月六日、この縁側だったという。
今年もあの「幸せでありますように」というおまじないを唱えていたに違いない祖母。守られていたことを忘れていた自分がちっぽけな人間に思えた。
私は東京のマンションを売り、祖母の家で暮らすことに決めた。
従妹は「狂気の沙汰だ」と言ったが、迷いはなかった。私はすべてを捨て、この田舎町へ戻ってきた。毎年、紫陽花を吊るして祖母のまじないを継ぐために。
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