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「夏は夜」|シロクマ文芸部|お遊び企画_参加作品

夏は夜の公園でこっそり会うのが常だった。山を切り崩して作られた古い住宅地のさびれた公園。僕らは秘密の関係だったのだ。

あの頃の僕は生意気な高校生だった。第一志望の私立高校受験に失敗して滑り止めの地元の高校に入学した。全てが面白くなく、腹立たしくてつまらなかった。気を遣う両親にもイライラした。そんな自分もとても嫌だった。

だから夜になると「走ってくる」と言って家を出た。僕は中学時代陸上の選手だったので、ランニングは日課だったから、誰も不思議に思わなかったし、夜の外出だからと言って止める人もいなかった。

古い団地の中にはいくつかの公園がある。自宅のある団地の入り口からは遠く離れた山の上の公園が僕のお気に入りだった。走りに行くと言ってそのまま山の上の公園へ行き、ベンチに寝っ転がって音楽を聴いたりする夜もあった。自然の中にいると自分がちっぽけに思えて気が楽になった。

ある夜、いつものように公園に行くと、僕の指定席に見知らぬおじさんが座っていた。おじさんは僕に気が付くと、見覚えのある水筒を差し出してきた。「君の忘れ物じゃないかな」確かに、昨晩ここで忘れた水筒だった。どうも、と言って水筒を受け取ると、おじさんはさらに僕に話しかけた。

「忘れ物だよ、って追いかけたんだけど、君は足が速いんだね」追いかけたけどちっとも追いつく気がしなくてすぐにあきらめたよ、とおじさんは笑った。「私もここが指定席でね。おそらく君が帰った後にここに座っている感じかな」

水筒を渡してあげようと思って、待っていたんだ。そういっておじさんは立ち去ろうとした。なんだか僕は急におじさんと話をしてみたくなった。なんというか、腹が立たない大人に久しぶりに会ったような気がして。

「あのう、聞いてもいいですか」

おじさんは立ち止まって振り返った。もちろんいいよ、なんだい。そういいながらもおじさんは僕に近づいてこない。こういう距離感がちゃんと保てる大人って、いい。ぐいぐい来ないところがすごくいい。

「僕はいろいろむしゃくしゃすることがあって、ここに来ると落ち着くんですけど、おじさんはどうしてこの公園に夜に来るんですか」

おじさんはちょっとびっくりしたような顔をして、ふっと笑った。「いや、ごめんね、興味を持ってもらえるなんて思わなかったからちょっとうれしくてね。」

僕たちはベンチに並んで座り、夜景を眺めながら語り合った。

おじさんは、隣町の高校の国語の先生だった。生徒にバカにされているような気がして、生きた心地がしないのだという。家に帰ると奥さんと子供が仲が悪くて居たたまれない。どこにも居場所がないような気がして、夜になると出かけるのだという。

僕は心底驚いたのだが、いや、そうでもないな、と思い直した。大人というのは、「大人」なんだと思っていたが、実は体が大きくなっただけの子供なんじゃないかという気がしていたのだ、最近ずっと。

うちの親を見ていてもそうだ。大人のような顔をして大人のようなことを言うけれど、実に感情的で子供っぽい。受験に失敗して不貞腐れた息子にガツンと言うこともせず、はれ物に触るような態度が特に気に入らない。

「いや、実際ね、君の言うとおりだよ。私も含めてだけれど、体だけが年を取って心が大人になり切れていない人が実に多い。逆に子供なのにやけに大人のような不思議な生徒もいる。」

なんだろうね、こう、不思議な気持ちになるんだよ。こうやって暗がりの中で話をしていると外見が見えにくいし、君とは立場なども考えずに話ができるから、ぐっと親しみを感じるね。

僕も全く同感だった。大人と対等に話ができるということが自分自身の価値の証明のような気がして嬉しかった。僕たちはまた運が良ければ会えるようにと約束をせずに別れた。

***

会えない夜もあった。だからこそ、次に会えたらどんな話をしようかと考えた。おじさんはいつも疲れている様子だったけれど、会って話すとおじさんというよりは悩める青年というイメージだった。とてもナイーブで優しい。

高校生のうちに読んでおくといい本があったら教えてほしいと頼むと、読書リストを作ってくれた。細くて優しい字で、丁寧に書かれたリスト。
おじさんの独断のおすすめの星もついていて、僕たちは時々、そのリストの本について語り合った。

おじさんと会うようになって、僕は気持ちが落ち着いた。
相変わらず学校はつまらなかったが、授業は真面目に受けるようになった。親のことも少し優しい気持ちで見ることができるようになった。世の中で本当の大人になれる人はほんのわずかなんだよ、とおじさんが言うのだから、本当の大人になり切れていないうちの両親を許してあげてもいいんじゃないかと、そう思えるようになったのだ。

***

夏が終わり、冬になり、再び春が来た。異動の季節だ。おじさんが、僕の学校へやって来た。僕はおじさんの名前も知らなかったし、夜の公園でしかあったことがなかったから、顔もよく見たことはない。

でも、その人が始業式の檀上に立っているのを見たとき、すぐにわかった。痩せてサイズが少し合わなくなったブカブカノ背広を着て、白髪が混じって手入れの行き届かないぼさぼさの髪の、あの人がおじさんだ。

国語の授業の担任にはならなかったが、おじさんの評判はあまりよくなかった。
声が小さくて何を言っているのかわからない、とか、質問をしても回答してくれるのが遅いとか、黒板の字が薄くて読めないとか、そんな噂だ。
おじさんは優しい字を書く人だから、黒板の字も弱弱しく見えるのかもしれない。質問の回答が遅いのは、いろいろと考えてくれるからだ。
声が小さいのは、背が高いとか低いとかっていうのと同じで個性なんだから、静かに聞けば聞こえるだろう。

おじさんが僕に気が付いていたかどうかはわからない。
僕は高校2年になって、クラスメイトに誘われて高校の陸上部に入った。中学の時に遠征で一緒に代表に選ばれた仲間に強引に誘われて断り切れなかったのだ。
おかげで友達もできた。
以前よりも頻度は減ったが、僕は相変わらず夜の公園へ出かけた。おじさんはいつの間にか公園へ来なくなってしまった。

***

僕は高校を卒業して大学へ進学した。時間の流れが急に早くなり、就職活動に追われ、希望の会社のひとつに入社が決まり、めでたく社会人になった。

夏が来るたびに僕はあの公園とおじさんを思い出す。
おじさんが公園に来なくなったのは僕のせいだろうか。

彼は僕にとって高校教師ではない。夜の公園の秘密の相棒だ。またいつか、あの公園で「今のおじさん」に会いたい。
そしておじさんの魂に触れたい。


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