がらくた、だから、そばに置く
「古くて嫌だ」
「ボロくて恥ずかしい」
と思っていたものに、魅力を感じる、この頃。
大人になった、ということなのか。
じいちゃん好みに見事染まった、ということなのか。
古くて恥ずかしくて誰も呼びたくなかった実家の家も、今や大切な存在だ。
薄汚れた襖、剥げかけた砂壁、古びた柱、所々の汚れや傷が、なぜか感慨深いのだ。
祖父が亡くなって、家の整理をしたとき、祖母が勝手に、祖父が大切にしていた小棚や小物入れや小箱などを捨てた。押し入れにしまっていた重厚な卓机を捨てた。着物や帯も知らぬ間に処分されていた。そこにあって当然だった品々が、いきなり喪失したのだ。あれから、彼女への信用はなくなった。
(ちなみに、刀剣関係のお金になりそうなものは、知らぬ間におじが持ち出してなくなっていた(金の使われた鍔などがなくなっていた)。「大人」なんてそういうものなんだ、とその時思った)
そんなこんなで、私の手元に残ったのは、じいちゃんの集めたがらくただった。
近所の神社のがらくた市で手に入れた、骨董を真似た贋物の鍔や文鎮や硯...北海道土産の熊の木彫りに、どこかの岩石の塊、七福神の布袋さんの置物、ガラス製の鮎の置物、極めつけは、謎の甲冑(装着可)。
「がらくたばかり、どうするの?」
「処分すればいいじゃない」
と家族に言われた。
いいや、
がらくただから、いいんだよ。
そのほうが、純粋に、愛着がわく。
金儲けとか、どろどろとした「大人の」欲望が混じっていない、あくまでも、自分軸の、そのものへの純粋無垢な「想い」がある。
いずれの品物も、高価な宝物ではない。だけれども、ひとつひとつにじいちゃんの思いがあって、じいちゃんが選んで、購入して、家に連れてきた、というストーリーがあって、あたたかな、どこかほっとする存在感がある。
安心するんだ。そこに、在ることが。
もう何年も前の話。
新宿の刀屋さんにじいちゃんの鍔を鑑定してもらったことがあった。
その時の言葉が忘れられない。
「あたたかな素直ないい品ですね。金額ではない。その人の人間性を感じます」
がらくたで、いい。がらくたが、いい。