見出し画像

「3月11日」に考える、当時と今の違い

まさか今を生きる大人で「3月11日」が何の日か答えられない人はいないだろう。この日は僕らにとって忘れられない、いや、これから先も忘れさせてはならない悲劇の日だ。東北地方を襲った東日本大震災から今年で早9年。当時は、被災地を中心にネガティブな感情が広がっていたが、全国各地からボランティアや生活物資、義援金が集まり、みんなで東北をポジティブにしようという想いに溢れていた。

こうした中、原発を巡って人体への影響に関する様々な嘘・本当の声も飛び交ったが、それ以上に注目されたのが、マスメディアにはない有益な情報を人々にシェアするSNSの声であった。給水や炊き出し、商業店舗などの状況から、報道されない地域の被害状況まで、画面越しには見えないあらゆる情報がSNSでやりとりされた。これを機にSNSは社会に浸透していき、一方で批判を浴びたマスメディアとの議論が活発化していくこととなった。

そして、僕らは今、新たな不安と対峙している。あの当時と比べて今の日本はどうだろうか。人でも、モノでも、お金でも、何か社会を明るくしようという動きはあるだろうか。いいや、ない。強いて言えば、自宅待機者向けのコンテンツ無償配信くらいだろう。感染者数の増加、マスクの買い占め、度重なるイベントの中止、金融市場の暴落など挙げればキリがないが日本中がネガティブに支配されている。

震災では大いに役立ったSNSも今ではすっかり様相が変わってしまった。新型ウイルスの影響で中国からの紙類の輸入が途絶えるらしい、という根拠なき情報によってトイレットペーパーやティッシュの買い占め騒動が沸き起こった。さらには、専門家がSNSに参入したことで情報の高度化が進んだものの、今回の政府の対応に厳しい言葉を浴びせる人もいて、そうした意見自体は良いのだが、それに便乗する無数の匿名批判者によってSNSはヘイトで埋め尽くされている。

一体いつから日本はこんな風になってしまったのだろう。結局のところ、人間は利己的な生き物であるということなのだろうか。自分が被害者でなければ他人を思いやることができるが、いざ自分が何かの危険に晒されるとそれができなくなってしまう。日本だけでなく世界中がパンデミックの危機にある状況で、他人を、企業を、国を、世界を思いやることができる人はほとんどいないということなのだろうか。いや、一部であれ、そのような人はいるはずである。ところが日本では、孫さんのように国そして世界を何とか救おうとしても、すぐにどこかから槍が飛んでくる。もはや異常としか言いようがない。

マスメディアもソーシャルメディアもネガティブを促進する方向にしか僕らを導かない状況では、自分自身で何ができるかを考えるほかない。個人あるいは企業でできることは限られているが、ちょっとしたことでいい。それぞれが”今”を良くしようと考え、何か行動することで少しずつ日本にもポジティブが広がっていく。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?