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映画「聖なる犯罪者」正しいってなに?

本日、映画「聖なる犯罪者」を見てきました!

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この映画、公開劇場がすごく少なくて存在すら知らなかったのですが、フォロワーさんからの評判が良く、気になったので早速見てきました!

結果、めちゃくちゃタイプ、どストライクの作品でした・・・。

宗教が絡む作品は人間の美しさと愚かさとが嫌と言うほど露呈するので大好物です!!!

とても考えさせられる内容だったので、レビューと共に色々思うところを書いていきます。

前半はネットで公開されている程度のあらすじと感想、後半はネタバレありで私の思った「神」について語ってみたいと思います。


1.あらすじ

主人公ダニエルは殺人罪で少年院に服役中の若い青年。

少年院では更生のための労働やカウンセリング、時折ミサ(キリスト教の祈りの集会)が行われていますが、ダニエルはそのミサで司祭のアシスタントを務める程の熱心な信者です。

仮釈放が決まり、少年院で教えを説いてくれたトマシュ神父との別れの際にも「神学校に行けたら良いのに・・・」なんて言うくらいです。

しかし前科者は聖職者にはなれない法律があり、ダニエルは釈放後は田舎の製材所で働くことになっていて、聖職者の夢は諦めざるを得ませんでした。

長くバスに揺られ、製材所に到着するもいまいち気乗りしないダニエル。

近くに見えた教会に立ち寄ると、マルタという少女に出会います。

何者なのか尋ねられ、どこから調達したかも知らない司祭服を見せながら「聖職者だよ」なんて言ってみせたところ、なんとこの冗談が信用されてしまいます。

この教会の司祭は重度のアルコール依存症で、ダニエルはその治療の間代理を任されることになってしまいました。

ですが神学校に通ったわけでもなく少年院でかじった程度の知識しか無いダニエルは、告解やミサで司祭としては型破りな、自らの言葉で説教をします。

この村では1年前に7人が亡くなる凄惨な交通事故が起きており、悲しみに暮れる村人達は、生きた言葉で寄り添ってくれるダニエルを次第に信頼するようになります。

しかしある日、ダニエルが働くはずだった製材所に同じ少年院にいた男がやってきて、金を寄越さないと正体をバラすと脅されてしまいます。

窮地に立たされたダニエル。

この男の言うままに利用され偽司祭として生きるのか、それとも本当の”聖者”として正しく生きるのか。

彼が選んだ選択とは・・・。


2.感想

人はなぜ神を信じ、祈るのか。そもそも神って何なのか。

神学、宗教学、人文社会が好きな方にはかなりオススメの映画です。

無宗教、特に日本人からすれば、「心から神を信じて教会に通い祈る」という行為は不思議に感じると思います。

でも、実は彼らも同じです。

体裁のために教会に通う者もいるし、祈って本当に救われるのか懐疑的な気持ちを捨てきれているわけではなく、形骸化した儀式を軽視する村人もいます。

そうした映画の観客とリンクする村人に、ダニエルはミサで真っ直ぐな瞳と言葉で教えを説きます。

このシーンでは、彼の瞳に吸い込まれるような力強さを感じました。

まるで本当に私に向けて言われているようで、心を動かされる村人たちの気持ちがめちゃくちゃ良くわかります。

彼の言葉が真実で、信じてみたいと思わされるし、聖職者である彼に懺悔し赦されることに意味があると思えるのです。

また、全体通してライティングでの明暗による印象付けが非常に上手く使われていましたし、カメラワークなど技術面でかなり引き込まれました。


この作品のポイントは、彼は確かに前科者ではありますが聖職者として活動する姿に全く悪意が無いところにあります。

本質的には村人を騙していますが、本当に善意でたくさんの人の心を救っているのです。

あらすじだけだと伝わらないと思いますが、決して元犯罪者が悪巧みをして聖職者を名乗り裏でこそこそ悪行を・・・なんて話ではありません。

善と悪、正しいって何だろうととても考えさせられる作品ですので是非ご覧になって下さい。


3.私の感じた「神」

さて、ここからはネタバレありで私が感じて考えたことを書いていきます。

ネタバレくらいたくない方はここまでです、ここまで読んで下さってありがとうございました。

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この作品を見てまず最初に考えたのは、宗教の意味です。

ここの村人たちは、6人の若者の死を嘆き、同じく亡くなってはいるものの若者の命を奪ったであろうスワヴェクを恨み、残された妻エヴァに対して暴言まみれの手紙を送りつけたり、壁に落書きをしたりと酷い仕打ちをしていました。

それなのに彼らは、スワヴェクの葬儀に反対するときに何の躊躇いもなく「自分たちは善民だ」と言いました。

このセリフを聞いたときに、彼らの悲しみは本物であるけれど、信仰を免罪符にしていると感じました。

正直、心から神がいるなんて信じている人なんかいないと思います。

それでも彼らが聖書を読み、聖歌を歌い、祈りを捧げ形骸化した「信仰」を続けるのは、「自分が善人であるという証明、罪悪感から逃れたい、免罪符が欲しい」という本来宗教上で手放すべき欲望があるからだと感じました。

「多くの誘惑に負け、仲間に自分の力を見せつけたい」という欲に溺れて殺人に至ったダニエルはその欲望を認知していて、さらにその欲望に負けた自覚があるからこそ、聖書の言葉を並べるだけの司祭の説教よりもダニエルの生きた言葉が村人たちに響いたのだと思います。

この「自分が善人である証明、赦されたい、免罪符が欲しい」という欲望の最たるものが告解です。

告解とは、聖職者との間に顔が見えないようにする壁を置いて、自分の犯した罪を懺悔する儀式で、作中でもとある女性が「たばこを吸う息子を殴ってしまう」と懺悔していました。

しかしこれは、人が人に赦されて満足しているだけです。

罪の大きさはあれど、ちゃんと少年院で罪を償った元犯罪者のダニエルと何が違うのでしょうか。

これに気付いた時、「神」という存在は人が人を裁くため、そして赦されるために作られた偶像にすぎないと思いました。

そしてこれを感じている人は少なくないはずで、それでも今日に至るまで宗教が無くならず戦争まで起こし聖書が世界1のベストセラーであるというのは、偶像とわかっていながらその存在に依存している人間の脆さの象徴ではないでしょうか。

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また、私はキリスト教徒ではないので彼らの考え方は完全にはわからないですが、懺悔して赦されるのであればなぜダニエルの罪は赦されないのでしょうか。

なぜエヴァをいたぶる村人たちの行為は赦され、正当化され、冤罪をかけられた側のエヴァは赦されないのでしょうか。

神って随分ご都合主義なんだなあとすごく感じましたね。

この作中、ダニエルも、村人たちも、少年院の青年たちも、各々にとっての正義を貫いています。

しかし誰も正しくありません。

そんな中、たとえ偽司祭だったとしても人の死を看取って涙し、死者への弔いの祈りに参加し誰よりもアツく感情を吐露するダニエルの、人を想う純粋な感情だけは正しかったと思います。

その証拠に、ダニエルの自宅には村人たちから送られたたくさんの写真やメッセージカードがありました。

彼は騙そうとしていたわけでもなく、自らの贖罪でもなく、本当に心から村人に同情し、愛し、赦していたんだと思います。

ダニエルがタトゥーの入った身体を見せ教会から去った後に、彼を悪く言った人はもちろんいるでしょうが、リディアのように確かに心を動かされた者もいます。

それはつまり、彼も愛され、赦されたということではないでしょうか。

ここに私はすごく希望を感じました。

こういった宗教観や人間という生き物について考えるのが好きな人には、本作は非常にオススメです。

上映館は少ないですが、是非見てみてください。



この作品を見終わったあと上記のようなことを考えながら、私自身は神サマを信じる気は無いけれど、宗教の本質や神を信じる人の心理をもっと理解したいと思い聖書を買ってしまいました・・・。

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聖書や宗教を元にした作品は大好きなのでこれを機に勉強して今後の考察に役立てようと思います。笑

それでは、良い映画ライフを!!



めーぷる。


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