紡ぐ物語
◆ひとりの声から始まるもの
こんな一文から始まる文章は、JRの車いす対応の仕組みの改善を求めて私が立ち上げた署名活動のメッセージである。私のような車いすユーザーは、JRを利用する際、発車の十分前や二十分前の電車に乗れないことが日常的に起きている。その理由は、全国のJRではスロープを使う車いす利用者の案内が「降車駅に連絡がつくまで私達を電車に乗せられない」という原則ルールに則っているから。
JRの車いす対応が遅いことは車いすユーザーの間では有名なことなのだが、その結果、私達は暑い日も寒い日も、他の人の何倍も時間をかけて電車を待つという経験をしてきている。
今回私は「駅員さん個人の対応」ではなく、「車いすユーザーは目の前の電車には乗れないもの」という前提のもとに成り立っているそんな「JRの仕組み」を変えたいという思いから、この署名活動を立ち上げた。
この署名活動を立ち上げる前の私は「JRの車いす対応が遅いのは昔からだから仕方ない」「他の私鉄はこんなことないし、こんなものか」と半ば諦めていた。そんな私を動かしたのは、私のもとに届いた一通のメッセージだった。
私が何気なくJRの車いす対応の現状を悔しさとともにSNSに投稿した時、「悲しいとも悔しいとも思わなくなるまで、この現状に慣れるしかないんですかね…」と反応を下さった障害のある子を育てるママさんがいた。彼女のお子さんはまだ二歳。まだまだこれから未来の可能性が広がっていくはずの小さな子どもを育てているママさんが、子どもに障害があるというだけでそんな風に社会に対して失望せざるを得ない経験を積み重ね、声を押し殺させてしまう社会の構造に、私は悔しさと悲しみでいっぱいになった。
私が「JRってやっぱり不便だな」と思うだけなら良い。いや、決して良くはないが、少なくても私がこれまで通り我慢すればそれで済む話である。
でも、この仕組みが障害のある子ども達とその家族にとって、社会で堂々と生きることを諦めてしまうひとつのきっかけとして存在していることが、私はどうしてもやりきれなかった。
私は、「その気持ちは大切なものだから押し殺さなくても良い」「助けを求めることは悪いことではないから、味方を作って一緒に堂々と生きていこう」といったようなことを文面に込めて返信したのだが、その後も彼女の言葉が私の頭の隅から離れなかった。
「悲しみや悔しさを押し殺さなくて良い」と言いながら、実際には何もしていない自分に対して無力さを感じてもいた。何も行動しないことは、結局は何もなかったことにすることと同じ。それは私が望んでいることではない。残るもやもやとした気持ちの中で、それだけは確かだった。
それから私は自分には何ができるのか、何をすべきか数日間悩んだ末、友人の応援もあってオンラインの署名活動を立ち上げることを決めた。もちろんそこには迷いもあったし、私がたった一人で署名活動を始めたところで果たしてそれがどの程度の影響力を持てるのか見当もつかなかった。でも、後押ししてくれた友人の「どうなっても学びはある。失うものはない」という言葉を信じて、署名活動のための文章を紡ぐことができた。
伝えたい想い
署名活動を立ち上げたその日の夜、「百人くらい集まっていたら良いかな」と思って開いた署名活動のページを開いて、私は自分の目を疑った。
そのページには、既に一七〇〇近い署名が集まっていたのである。私のような障害当事者はもちろん、障害のない人達も含めてたくさんの人がSNSで私の署名活動をシェアして下さっていて、そのシェアがまたシェアを呼び、今この瞬間も拡散されている。心臓がどくん、とした。私の知らない人にまで私のメッセージが届き、それに共感して下さった方がこんなにいるんだ。その「ひとの力」に私はただただ圧倒された。
それからもその勢いは止まらず、署名活動を立ち上げて四日目、賛同者が一万人を超えた。まさか、こんなにたくさんの署名が、こんなに早く集まるなんて。誰よりもその事実に驚いていたのは、他でもない私だった。
署名活動の呼びかけの中で、私はこんな文章を綴った。
この署名活動の中で私が伝えたかったことは、JRへ改善を求めるということだけではない。
この問題のもっと根底にあるもの、それは、障害の有無に関わらずひとりの人間が人間として、社会の一員として尊重されるべきであるという「人権」だった。
人権という直接的な言葉こそ使っていないが、一万人以上の人が「私の想いはわがままではない」と後押ししてくれているようで、私はそれが一番嬉しかった。
こんな風に私が障害当事者としての想いを言葉にして届ける活動をしていると、「アクティブな障害当事者」と言われることが多い。
でも私が昔から「障害当事者としての私」として活動することに強い想いを抱いていたかというと、決してそんなことはなかった。そんな自分を隠したいとまでは思っていなかったが、障害当事者としての視点から何かを発信することに大きな価値を見出していたわけではなかった。
そんな私が今の私になるまでには、日本やアメリカで過ごした大学時代が大きな影響を与えてくれている。
◆「飾らない物語」の重さ
大学二年生の時、日本で障害者として生活することに息苦しさを感じ始めた私は、ダスキン障害者リーダー育成海外研修派遣事業の研修生としてアメリカのボストンで約半年間の研修に参加した。
障害のある子どもの家族支援を行う機関でインターンシップをしたり、障害支援に関わる様々な組織を訪れては障害やリーダーシップについてみんなで議論したり、アメリカで人種的にマイノリティーとされている人々の歴史や彼らが受けてきた差別について大学で学んだりと、半年間にしては濃すぎるくらいの日々を過ごしていた。
ボストンで過ごした日々はもう今から五年ほど前になるが、文化も言葉も周りにいる人々も違う場所で自分自身と向き合う機会を与えられたことは私にとって新しい発見と葛藤の連続で、今でも鮮明に覚えている。
私がボストンに来て感じた最初のことは、私が出会った障害当事者やその仲間達は「障害者=助けが必要な人」ではなく「大切な声を持つ人」だという認識を明確に持っているということだった。アメリカの障害支援が発展してきた背景には必ず、障害当事者やその仲間達が声をあげてきた歴史があった。
そう教えてくれた人達とも出会った。
こんな出逢いを積み重ねていくうちに、もしかしたら私は「障害者」という枠に囚われて生きなくても良いのかもしれないと思うようになっていった。日本で障害のない人達に囲まれて過ごしてきた私にとって、こんなに深く障害やマイノリティーについて考える機会は初めてのことで、身近だったはずの障害の世界がとても新鮮に感じられた。
忘れられない出逢い
そんな私の心に特に深く刺さった出来事が二つある。一つ目は、私のインターン先のスーパーバイザーさんのこれまでの物語を聴いた時のこと。彼女は、知的障害と自閉症がある娘さんを育てる、ベトナム移民のシングルマザーだった。「希望の道」とタイトルがつけられたプレゼンテーションの資料を見て、どんなお話が聴けるのだろうと私は勝手にわくわくしていた。ところが、その私の気持ちは早々に裏切られることになる。
彼女の物語は、彼女が移民としてベトナムから渡米するところから始まった。特別支援教育がまだあまり発展していないベトナムよりもより良い教育を娘さんに受けさせたいと、家族からの反対を押し切って娘さんとふたりきりで渡米したこと。
希望を胸に渡米したはずなのに、言葉や文化の壁があり、時に差別にも遭い、必要なサービスや支援がなかなか受けられなかったこと。
ベトナム移民の家族会に行っても自分と同じような障害のある子を育てているのは自分だけ、障害児の家族会に行ってもベトナム移民は自分だけで、結局どこに行っても安心できる居場所を見つけられなかったこと。
そんな時に、今の職場に出逢って救われたこと。そして十年後の今、そんな自分の経験を生かして、ベトナム移民の障害児の家族会を運営していること。
ここには書ききれないくらい私の知らなかった彼女を知ることができたその物語に、私はとても衝撃を受けた。彼女が歩んできた道のりを想像しては、泣きそうなくらい心が動かされた私がいた。わくわく楽しい話が聴けると単純に思っていた自分に反省すると同時に、私はありのままの物語が持つ力を感じていた。
決して楽しいことばかりの話ではなかったのに、どうしてこんなに心が震えるんだろう。希望だけではない、そこに至るまでの悲しみや悔しさも絶望もたくさんあったお話なのに、私はどうしてこんなに彼女をハグで包みたくなるんだろう。
それまでの私は、障害当事者やその家族がネガティブな話をすると、「やっぱり障害者は不幸だ」と思われるのではないかとか、逆にポジティブな話をしたらそれはそれで「障害があるのにすごい」といった偏った捉え方をされてしまうのではないかと思っていた。そういった世間の固定概念や先入観に自分も当てはめられてしまうことが怖かったから、私は障害当事者としての自分をあまり出さないように意識していた。
でも、その日私が聴いた彼女の物語は「障害児の親」の物語ではなく、「彼女の物語」だった。それはきっと、彼女が喜びも悲しみも絶望も希望も大切にして、飾ることなくそのままを彼女の言葉で伝えてくれたから。
その日をきっかけに、私は自分の物語を、自分の言葉でまっすぐに伝えることで生まれる力について考えるようになっていった。
忘れられない時間
そして二つ目は、大学でアジア系アメリカ人について学んだ授業で過ごした時間だった。この授業の教授は、アジア系アメリカ人の中でも特に東南アジア系のコミュニティを専門にしていた。そのため、授業を受けていた学生も、二世や三世の東南アジア系アメリカ人の学生がほとんどだった。そんな中に東南アジアの歴史も文化も言葉も何も知らない私が突然混ざらせてもらえたのは、ほとんど奇跡に近い周囲の優しさとご縁のおかげだったから、この機会を無駄にしたくない私は私なりに講義を理解しようと努力していた。
その場に自分が存在しているだけで私は充分刺激を受けていたのだが、特に印象に残った先生の言葉がある。それは、
という言葉だった。
そんなアフリカの諺を紹介しながら移民や難民の方々が受けてきた抑圧や差別を説明し、
「だから君達には、そうやって光が当てられてこなかった物語や権力者の下で人知れず傷ついている地面の草の存在に目を向けられる人であって欲しい」
そう私達に話していた教授の姿が私は今でも忘れられない。
私は移民でも東南アジア系アメリカ人でもないけれど、マイノリティーという意味では同じ属性にいて、この先生が伝えてくれたことはいつも障害分野にも通じるものがあった。
そして、この授業でも「自分自身の物語」というものを大切にしていて、学生達がアジア系アメリカ人として生きることへの誇りや葛藤を描いた動画や絵本などを製作し、自分の言葉で表現していた。
◆私の物語とは
こうして様々な物語に触れるうちに、私は「私の物語ってなんだろう」と考えるようになった。もしも私が自分の物語をどこかで表現するとしたら、その物語はどんなものになるのだろう。
どれも嘘のない、私の本心だった。それなのにどこか薄っぺらい。道徳の教科書にでも出てきそうな言葉しか並べられないのは、どうしてだろう。…私の本心は、本当にこれだけなのだろうか。これだけにしてしまって良いのだろうか。
本当は、寂しくもあったんじゃないか。車いすに乗っているからといってみんなに置いて行かれないように必死で、でもみんなの前ではなんてことないふりをして、そうやって自分の小さくて脆いプライドを守ってきたのかもしれない。
本当は、こわくもあったんじゃないか。誰かの助けがないと生活が回らないことを知っていたから、周囲の人から嫌われないように、好かれるように、お荷物だと思われないように、そうやって無意識のうちに自分で自分を抑え込んできたのかもしれない。
救われた言葉
「障害者はかわいそう」そう思われたくなくて強がっていた私は、実はものすごく弱かった。そうやってこれまで気づかないふりをしてきた自分の本心と向き合おうとすると、いろんな記憶や感情が溢れてきて、呑まれそうになってしまう。そんな自分の心に溺れそうになっていたら、お世話になった方からこんなことを言われた。
私の弱さを見透かしたような愛あるその言葉を、当時の私はまっすぐに受け取ることができなかった。それを認めてしまったら、私がこれまでに守ってきた何かが崩れ去ってしまいそうな気がしてこわかった。
その一方、そんな私を支えてくれたのもまた、いろんな人達の存在だった。
詳しい話は何もしていないのに、週末になる度にお出かけに連れて行ってくれたスーパーバイザーさん、共に過ごした研修生の仲間達、いつもあたたかく私の帰りを待ってくれたホームステイ先の家族、私の葛藤を近くでずっと見守ってくれた人達、そして日本にいる大切な人達。
私がこれまで生きてきた道のりや価値観を私以上に大切にしてくれて、私の意思を聴いて尊重してくれる人達に囲まれて、私は少しずつ、弱かった自分の気持ちの存在を素直に認められるようになった。
私は、私が思っているよりも、頑張ってきたのかもしれない。
私の中にいろんな気持ちがあることを認めても、私自身の価値は下がったりしないのかもしれない。
そんな風に私が自分と向き合う旅は、日本に帰国してからも終わらなかった。私の悩みや葛藤に懲りずに向き合い、私を信じて下さった大学の先生方やボストンから応援してくれた方達には、本当に感謝してもしきれない。
◆他者との繋がりが紡ぐもの
そんな大学時代を経て、私は少しずつ、自分の物語を言葉にすることができるようになった。そして、そういうことができるようになって気がついたことがある。それは、私の物語は私だけのものではないということ。私の物語にはいつも、私に気づきを与えてくれた他者の存在があった。
みんなが教えてくれたこと
人がお互いに一緒にいたいと思える対等な繋がりを創るのに、障害の有無は関係ないと教えてくれたのは、障害のない健常者の友達だった。自分なりに悩んだり頑張ったり、一緒にくだらないことをして遊ぶことに、障害の有無は関係ないことも教えてくれた。
私は健常者という立場になったことはないけれど、その立場から見える世界を想像できるようになったのは、障害のないみんなのおかげ。
車いすに乗りながらこの世界を豊かに渡り歩く術や工夫の引き出しを教えてくれたのは、障害当事者の先輩や仲間達だった。私の周りにいる障害当事者は、時に受ける理不尽な痛みと闘いながら、でも怒りや悲しみに呑まれることなく、泥臭く賢く豊かに生きている。
もしもこの先、私の障害がどんなに重度になっても絶望したままでは終わらないと思えるのは、そんな仲間達のおかげ。
社会に変わって欲しいと願うなら、まずは自分自身が変わること。社会がいつか変わることを望むのではなく、自分ができることから行動していくこと。すぐに大きな変化は起こせなくても、行動すれば必ず何かは変わること。その大切さを教えてくれたのは、ボストンで出逢った人達だった。
そして何より、私がどんなに他人と違っていても弱さを見せても、私が私であることをあたたかく受け入れてくれる人達がいてくれたおかげで、私はここまで来ることができた。
世の中にはいろんな人がいて、いろんな価値観が転がっている。様々な価値観に揺さぶられ、自分が大事にしたいものを見失いそうになっては、私をあるべき場所へと引き戻し、大切なことを思い出させてくれる人達に私は支えられてきた。
みんなに出逢っていなかったら、私はどんなに狭くて偏った価値観の世界で生きていたのだろう、とこわくなる。
みんなに出逢っていなかったら、私は自分の本当の気持ちと向き合うことを避け、健常者との間に自ら壁を創り、自分が傷ついてきたことを認める勇気を持てないままだったかもしれない。自分の声を押し殺し、強がって生きることだけが上手くなっていたかもしれない。本当の自分の気持ちが、自分の物語が、自分でもわからなくなっていただろうと思う。
そうなっていたらきっと、私は自分や誰かのために声をあげる署名活動なんてできなかった。だから、あの署名活動はみんながここまで私を成長させてくれた証でもある。
私の物語のいま
そんな署名活動は今、賛同者が一万五千人を超えた。今後、私はここに集められているたくさんの声をJRや国に届けることの責任を果たし、これからのJRの変化の行方を見届けていきたいと思う。
あの署名活動もこの文章も、私の物語の一部にすぎない。今の私にはまだ言葉にできない過去や現在の物語も、まだ出逢っていない未来の物語もたくさんある。それでも私は自分の物語を大切に、自分に正直に一つひとつ紡いでいきたいと思えるようになった。物語が大切にされるあたたかさを知ったからこそ、自分以外の誰かの物語も、大切にできる人でありたいと思うようになった。
そんな今の私の願いを、ここに最後に伝えたいと思う。
社会の隅に埋もれてしまいがちな人達も含めて、お互いが物語を大切に紡ぎ合える世の中になりますように。
※この記事は、もともと第57回NHK障害福祉賞のために書き下ろしたものに小見出しを追加したものです。私にとっても大切な物語になったので、選考結果後にnoteにも残しておこうと思い残しています。