9歳のわたしへ~大学院留学裏テーマ~
前回の記事で、私は「障害のある子ども達が自分らしく生きられるコミュニティを創りたい」と大学院留学の動機を書いたのだけど。
実は、私が大学院進学を決めた理由はそれだけじゃない。
前途多難だと知っていても、それでも諦めきれずに大学院留学を決めた理由。
それは、「9歳の頃の自分を救う」ことにある。
あの頃の自分に「もう大丈夫」と言ってあげられるように今の自分が生きること。
なんかクサいとかスピ系?と思われるかもしれないけれど、決してそんなことはなく。笑
私自身は、結構まじめにひっそりと?留学にこの裏テーマを掲げている。裏テーマだから、自分のためのものでしかない。
今回は、そんな大学院留学裏テーマのおはなし。幼少期に受けた手術入院の話も含まれるので、そんなお話も誰かの参考になったら嬉しい。
★当時のツギハギの記憶を繋げて書いているので、実際は違うところもあると思うけれど、あくまでもひとりの体験談として見て頂けたら嬉しいです。
人生2度目の手術入院
今からもう15年以上前の2007年の夏。
10歳を目前に控えた私は、人生2度目の手術をすることになった。
脳性麻痺のある私の身体を、より動きやすく、使いやすくするための手術。手術の名前は、選択的脊髄後根遮断術(SDR)という、ややこしいやつだった。その内容についての詳細はここでは書かないでおくけれど、要するに背中の神経をいじるオペ。
今はどうか分からないけれど、当時の手術適応は私のようながっつり車いすユーザーよりももともと歩ける子達が多い印象だったし、私は年齢制限的にもギリギリの歳で受けたので、効果的にも割と賭けに出た感じなんじゃないかと思う。
私の両親も「歩けるようになるため」というより、「今よりも身体を使いやすくするためのもの、あわよくば歩行器や杖で歩けたらいいね」くらいの期待を持っていたのかなーと、なんとなくそう思う(当時の気持ちを聞いたことないので分からない)。
当の私は、というと。
2回目の手術で、ちょっとカッコつけようとしていた。笑
なんとなく、「入院がいや、手術がこわい」というのがダサい気がして。
前回の手術は6歳の時で4ヶ月間だったから、それと比べたら2週間の手術入院なんてあっという間だし、また入院友達ができるのも楽しみだったのも事実ではあった。
だから私はちょっとだけカッコつけて「別に手術やってもいいよ」「2週間なんてすぐだしどんな子がいるのか楽しみ!」と言った(ような記憶がある)。
少なくても、ちょっと強がってたのは確か。笑
私の知らない世界
そんな感じで意気揚々と?入った病棟の世界に、私は素直にとてもびっくりした。私が知っていた整形外科の小児病棟とは、まるで違っていたから。
私が普段通っていた病院は、私と同じような障害のある子達がたくさんいた。話せる子も、話せない子も。
でも、私が今回入院したのは小児脳神経外科。
私と同じような脳性麻痺の子はほとんどいなくて、代わりに脳腫瘍や難治性てんかんと生きている子達が多かった。障害というより、病気と生きてる子達という感じ。
だからなのか「生死」を意識する場面が、とても多かった。
私よりも歳上のお兄ちゃんが、治療の影響で髪の毛をなくさないといけなくなって夜中に泣いていたのを聞いたり。
私の隣でついさっきまで一緒に遊んでいた子が、突然意識を失って大きな発作を起こすのを目の前で見たり。
ある日の夜、ナースステーションがバタバタしてるなぁと思ったら隣の病室の女の子が心肺蘇生されていて、次の日の朝亡くなったことを聞いたり。
なんていうか、当時の私にはどれもこれも知らなかった世界で、全てが衝撃だったことを今でも覚えている。
こういう世界で生きている子達は今も昔も確かにいて、目を背けてはいけないことだと思うのだけど。
当時の私は自分が見たり聞いたり感じたりしたことを、どんな風に消化すれば良いのか分からなかった。私の方が混乱して、友達の発作の後なぜか私が号泣してしまったこともある。
それと、当時の小児脳神経外科病棟には院内学級がなかったことも地味なカルチャーショックだった。
私は夏休みに被せていたので関係なかったのだけど、こんなに子どもたちがいるのに学校がないなんて、みんなどうやって過ごしているんだろう、学校行きたくならないのかな、と子どもながらに思った。
(私が退院して数年後に院内学級ができたみたい、良かった)
当たり前だけど、そうなると病棟保育士やセラピードッグ、チャイルドライフスペシャリストなんてもっといない。必要だったとは思うけれど、そんなの当時はまだまだ普及していなかった。
こんな環境での入院生活は、過ごすだけで十分すぎるくらいの刺激で、とても濃い時間だった。
母の涙
そんなカルチャーショックを抱えたまま、私は自分の手術当日を迎えた。
(そういえば、前日に隣のベッドの子と「明日は私の番」「頑張って」ってやり取りしたような気がする。書いていると急に蘇る記憶。笑)
オペ室に向かうストレッチャーに乗る前、病棟の外の椅子に座っていて。
母に「平気?」と聞かれた。「別に平気だよ」と母の方を見ると、涙目の母が珍しく私の髪を撫でてくれた。涙零さないようにしてたのかもしれないけれど、たぶんしっかり泣いていた。
まさか私よりも母が泣いてるなんて思ってもなくて、泣きながら笑って髪を撫でるなんて普段の母らしくなさすぎて、びっくりしてなんて返されたのかよく覚えていないのだけど、強いねとか偉いねとか、そんな言葉をかけられたような気がする。
母の涙が衝撃だったからなのか、本能的に「ここで私が泣いたらいけない」と思った私は、「またね」と家族に挨拶して冷静にストレッチャーでオペ室に入った。(ちなみに6歳の時はオペ室を下見して気が狂うくらい号泣した)
オペ室の扉が閉まった時、看護師さんに「こわい?」と聞かれて。目を閉じながら、無言でちょっとだけ泣いた。
このくらいなら、許されるかなと思って。
その後の記憶は、麻酔にかき消されていて、ない。
手術当日に覚えているのは、今書いたことと、手術衣が浴衣じゃなかった(前の手術した病院では好きな柄の浴衣が着れたのです、こういう配慮いいよね)のが残念だったことだけ。
次の私の記憶は、術後の日々。
9歳の絶望
術後の記憶は、あまりに苦しさと衝撃が強すぎたのか、あんまり記憶にないことも多くて。幻かな?と思ったりもする。
それでも、断片的に覚えていることがあるので、それを書きたい。
術後の最初の私の記憶は、ベッドの上で足の痺れと痛みに耐えている記憶。背中の傷ももちろん痛かったはずなのだけど、私の場合はとにかく術後起きる可能性のあるリスクとして指摘されていた感覚障害が強く出て、左足の親指の痺れが酷すぎてずーっと痛かった。
例えるなら、正座しすぎて痺れた足に、静電気のパチッがパチッで終わらずずっと続く感じ。親指に物が当たったり、風が当たったりするだけでもそのビリビリが強くなって、自分でも意味がわからなくて怖かった、痛かった。
最初はそれだけで何時間も汗だくで泣き続けていた記憶がある。実際は何時間もではなかったかもしれないけれど、私には永遠に感じられて。好きじゃなかった採血が何も痛みを感じないくらい、足の痛みが強かった。
赤ちゃんかよ、と思うけれど、泣き叫ばないと痛みを逃がせないくらい痛かった。
意味不明な症状に、これから先ずっとこれなのかなと思うとそれもすごく怖くて、この痛みと生きていける自信なんて全然なくて、9歳なりに絶望した。
途中から、痛み止めの赤いシロップが処方されるようになって飲んでいたのだけど。
それでも綺麗に痛みが消えることはなくて、靴下や装具が履けないことが続いた。ちょうど24時間テレビがやっていた頃で、10時間以上それを観てたのを覚えてる。笑
そんな私が唯一病棟の外に出られるのは、PTの時間。
あの時の私の記憶が正しければ、当時はリハビリの部屋は病棟とは違うビルにあった。古くて、黒電話が使われていて、薄暗くて怖かった記憶がある。
いつもひとりぼっちでリハビリを受けていて、それも寂しかったのだけど、あれはどうしてだったんだろう。
ホームページの写真を見る感じ、私の記憶とは違うから。今はきっと、もう少し良い環境なのかな。そうであることを祈る。
「辛い」と言えなくて
術後の私がそんな状態だったから、母は付き添い入院を始めた。入院も1週間延びた。
当時都内に通勤していた父は仕事帰りに私の病院に寄って会いに来てくれて、
当時4歳だった弟は祖母と父に交互に預けられた。
傷の回復とは別に感覚障害に振り回され、順調な回復とは程遠いように見えるこの状況に、家族それぞれが必死に向き合っていたんだと思う。
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