アメリカ大学院留学までの道のり①~大学院進学の決意~
今年の秋から、アメリカの大学院でソーシャルワークと、特別支援教育を学ぶことになった。
すっごくシンプルにわかりやすくいうと、障害のある子どもとそのご家族を中心としたサポートについて学んできます。
(行くことを願っている)渡米はまだ少し先になるけれど、大学院に進学すると決めてから合格をもらい、さらにその先の道まで、本当にいろんなことがあって。
アメリカへの大学院留学というと、MBAとか、理系が何となく有名な気がするけれど。
私が目指すのはMSW/EdM (Master of Social Work/Master of Education)という、アメリカでもあまりないソーシャルワークと教育学の文系修士課程の二重学位(Dual degree)のプログラム。
さらに、私は肢体不自由、車いすユーザー。
こうなると、本当に、本当に、生きた情報っていうのが少なくて。
幸いにも私の周りには車いすユーザーでアメリカの大学院に進んだ日本人が複数いたので、その人達の繋がりには本当に感謝しているのだけれど、ネットにはなかなか出てこないもの。
ただでさえマイノリティーな身体障害者の、さらに文系海外大学院進学というマイナー(そう)な道のりにどこまで需要があるのか、正直私にも分からないけれど。笑
障害の有無に関係なく海外の大学院進学に興味ある人の参考になったら良いなと思うし
障害当事者やそのご家族に見てもらうのもちろん嬉しい。
そんな感じで、過去の私のように、画面越しのどこかの誰かの参考になればと思ってこれまでを綴ってみます。
まずは、私自身のためにも
私が大学院進学を決意するまでのお話。
はじめての社会人
大学生の時にダスキン愛の輪基金の海外研修で初めてボストンで半年間過ごし、私の価値観を大きく変える時間を過ごしたあの時から、なんとなーくアメリカに戻ってくる自分を想像したりすることがあって。
特にコロナ禍で家から1歩も出られなかった2020年の春は、家から出られない反動で半分妄想で海外の大学院を調べたりしていた。笑
でも、あの時の私はそれを現実的に考えるというよりは「いつか行きたくなった時のため」の心の貯金、心の逃げ場としてそれをしていただけだったと思う。
当時は私自身のいろんな悩みやコロナ禍もあり、「あと5年したらここに行く」とか、そんな具体的なことまで描く余裕なんて、当時の私にはなかった。
それから私は無事に大学を卒業して就職し、希望していた福祉業界の対人援助職に就くことができた。
当時の私は、福祉の特定の分野に興味があるわけではなくて、相手は子どもでも障害者でも高齢者でもそれ以外でも
対人援助職ができればそれでいい、と思っていた。
だって、みんな同じ人間じゃん??
って感じ。笑
だから、障害当事者の私が障害分野の就労支援の現場で働くことになったのも、本当にただただご縁を頂けた、というだけなのだけど。
私は、就労支援の中でも障害のある人達が一般企業で働くことをサポートする仕事に就くことになった。
ぶっちゃけ興味のない分野だった割に、私は就労支援の面白さ、奥深さに気づいていくようになる。
就労支援って、「利用者さんが就職すること」がゴールではなかった。
たとえば
「就職」するには応募書類の作成や面接対策が必要で
それをするには自分に合いそうな企業を見つけることが大切で
さらにそれをするには「自分のことを知る」ことが必要で
自分を理解するためには過去を振り返って未来に繋げていく線が必要で
点を線に繋げていくには、これまでの自分を「よく頑張ってきたね」ってケアしてあげるこもすごく大切で。
ちょっと抽象的で伝わりにくいと思うけれど、この一連の流れ一つひとつの伴走者となるのが支援者の役割(だと私は思っている)。
就職が必ずしも正解ではなく、その人がどう生きていきたいのかを決める「プロセス」に価値を見出す仕事なのだ、と気づく。
「就職」はあくまでも目に見えやすい節目のひとつなだけで、そこに至るまでのプロセスの方が支援者としての存在が何倍も試される仕事だった。
それに気づいてから、私の中でのゴールは、「就職」以上に「利用者さんが自分のことを大切にできること」になり、そんな大切な道のりを隣で見させて頂けることに夢中になった。
一人ひとりのこれまでと、今と、これからを一緒に地図を自由に描いて悩みながら少しずつ歩いていくような感覚が私の中にはずっとあって
その感覚がすごく好きで好きで、
1年目は特に一人ひとりの利用者さんに向き合うことに必死だったような気がする。
(私に自由にめいっぱいその経験をさせてくれた当時の上司達には感謝してもしきれません)
木を見ていたら森が見えた
そんな風に一つひとつのケースと向き合い、キャリアも昇進していくにつれて、プライベートで様々な障害のある方やご家族と出逢うにつれて、私は自分自身の限界や物足りなさを感じるようになる。
どうしてこんなに、障害がタブー視されているんだろう
どうしてこんなに、車いすや装具に抵抗を感じる人が多いんだろう
どうしてこんなに、合理的配慮はわがままじゃないかと迷う人が多いんだろう
どうしてこんなに、障害のある人の選択肢が限られているんだろう
どうしてこんなに、前例をつくることを怖がって保守的な支援者や大人が多いんだろう
障害は誰のせいでもないのに、
どうして自分らしくいることを申し訳なさそうに生きないといけないんだろう
障害のあってもなくても
自分の素直な気持ちに正直に
相手のことも尊重しながら
何にも囚われず自由に誇りを持って生きられる人が
1人でも多く生きられる社会であって欲しい
いろんな人に出逢えば出逢うほど
私の中でそんな気持ちが強くなっていった。
そこに一歩でも近づくためには何が必要か、私には何ができるか、と考えた時
障害のない人達に私達のいろんなことを知ってもらうことも大切だけれど、私はそれ以上に
障害のある人達の心を内側からあっためて
「そのままの自分で充分だ」と思える人を増やすこと。
日々現場で頑張ってる支援者と一緒に自由にいろんな発想をして「とりあえずやってみよう」「私達も自由に生きていいんだ」と思える人を増やすこと。
障害の有無に関係なく、「こうあるべき」「みんなこうしてる」「常識はこれだから」という抑圧に縛られて「どうせ無理だ」とやりたいことやありたい姿を諦めてしまう人を自由に解放すること。
誰かが傷ついたり迷ったりしたとき、私がその人にとって自分に素直になれる方を選ぶことを支えられる人間であること。
何より、私が自分に正直にまっすぐいることを勇気を持って大切に続けられる人間であること。
それが、障害当事者であり、支援者であり、ソーシャルワーカーの私ができること、すべきことかなと思った。
そして、それをするには、私自身が広い世界を見て、いろんな生き方を知って、自分と誰かの自分らしさを守るための知識と経験と感覚が必要だと気づいた。
やっぱり、日本を出て学んでみよう、と海外の大学院進学を目指すと決めた。
大学院選び
海外の大学院を目指すと決めた時、私は初めから国や学校を決めていたわけではなくて。
日本よりも多様なバックグラウンドを持つ人達に囲まれて、私が学びたいことが広く深く学べる場所であれば、アメリカでなくても良いと思っていた。
その上で、私が絞った条件がこちら。
✔ソーシャルワーク発祥地が理想
✔街が比較的バリアフリーで治安良し
✔車がなくても生活できる
✔大学院のカリキュラム
✔ソーシャルワーク専攻の大学院のランキング(米国ランキング、世界ランキングともに見る)
✔奨学金の制度や機会
色々見て考えた結果、上記の条件を一番満たしていたのが、私が受けると決めたボストンにある大学だった。(一度暮らしたからイメージがつきやすかったのもあるかもしれない)
特に、ソーシャルワークと教育を同時に学べるカリキュラムは私にとっての大きな魅力。
ボストンは学費や物価がめっっちゃ高いことと、冬は北海道よりも寒くなることだけがネックだったけれど
まだ受験してもいないのに天気やお金の心配をするのはやめようと思って、受験することを決めた。
まずは挑戦することに意味がある。
こういうのは特に。
ボストン以外の大学院も視野に入れて探した大学院選びだったけれど、結局6年前に行っていたボストンに戻ってくることになり、そこにも不思議なご縁を感じたり。
大学院留学を目指す人は、一度にたくさんの学校を受ける人が多いみたいだけど
体力的にも時間的にも経済的にも限度があることを感じていたし
私は何より留学そのものよりもこの時点で大学の存在に憧れていたので
この大学だけを1度だけ受験して、もし落ちたら大学院留学自体を諦める。
そう自分に約束をして、大学院留学に向けて進むことを決めた。
(私はやると決めたらやる、やらないならやらない、頑固なのです笑)
次は、それぞれの応募書類や奨学金のお話。