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いつかはこない

私は小学生の頃、世界で一番忙しいのは小学生だと思っていた。
おとなになったら暇になるんだろうなと本気で思っていたのである。

当時の私は月曜日から土曜日までほぼ毎日習い事と塾で埋まっていた。

毎日学校が終わったあとに残業しているようなものだ。
若い頃は体力が無尽蔵にあったからこなせたけれど、今やれと言われたら無理だ。
というか、できたとしてもやりたくない。

考えてみれば、こんなふうに「やりたくない」と言えるようになったのは最近のことのような気がする。
ずっと「こうすべき」「こうしなければいけない」に縛られていた。


そんなわけで「やるべきこと」で毎日とても忙しかった私は、興味を持ったことがあってもとりあえず後回しにしてきた。

理科の実験にしても世界の歴史にしても国語の問題文の小説の続きにしても。

条件を変えたらどうなるのだろう?
もっとこうしたらどうなるだろう?
他の国ではどうなのだろう?
この先にどんな展開があるのだろう?

私は何度も思った。「いつかちゃんとやりたいな」と。
そしてそのいつかは永遠に来なかった。

もっと調べてみたい。もっと知りたい。もっとやってみたい。
そういう興味の種を何度も潰してきた。
もっと深めてみたいという気持ちにずっと蓋をしてきた。

今は目の前のテストや塾に忙しいのだから仕方がない。
成績や受験が優先事項なのでそれ以外は「無駄」であるからして。
すべてが終わればもっと落ち着いて、自分の興味を深められるはずだ。

いつか。
暇になったら。
時間ができたら。
おとなになったら。

私はそう信じていた。

でも暇になることはなかった。
常に何かに追われていた。

毎日勉強はしているのに全然深められている気がしない。
すべてがイントロダクションで終わってしまう。
表面的な付け焼き刃的な知識ばかりが増えていった。
そのすべてが悪いとは思わないけれど、今振り返れば塾なんて行かずに興味の赴くまま好きな勉強をすれば良かった思う。結果論だけど。

だいたい無駄ってなんだろう。

人間の人生なんてほとんどすべてが無駄なのであり、他人から見たら無駄だと思えることこそがその人らしさであり、人間の面白さだと思う。
何が無駄で何が無駄でないかというのは本人の主観だ。
本人がやりたいこと以外はその人にとっての無駄になるし、無駄なことが思いもよらないきっかけになることもあるからそれだってなんとも言えない。

これって失敗に似てる。
その失敗が次の成功をもたらす場合もあるし、成功するまでやれば成功になるし、そもそも失敗成功って何って話だし。


人生は短い。

だから「いつか」なんて言っているうちに一生は終わる。
それは明日かもしれない。
そう覚悟しておいた方がが良い、と思っている。

やりたいことは今やろう(もしくはカレンダーに書け)。
つい「いつか」って言いそうになるけど、私は「いつか」と言わないように気をつけているし、「いつか」という人間は信用できないぞ、と思っている。

「いつか」「そのうち」「機会があれば」というのは社交辞令で使っても良いとは思うけど、本気で思ってるとしたらちょっとまずいと思う。

時間=人生、であり、その大切さを理解していない人は他人の時間も無神経に奪ってくるから罪深い。


ところで、この「いつか」人間を狙ったサービスがサブスクリプションサービスだと思う。

たとえば、入会すると記事が全部読めます、というサービス。
それってアクセス権を買っているようなものだと思うけど「いつか読むかも」とお金を払い続ける意味が果たしてあるのだろうか。

だって、今読まないのに今後読まないじゃん、たぶん。
今読めないなら読める方法を考えない限り永遠に読めないじゃん。

これは来ない「いつか」の幻想にお金を払い続けているということだよ。

自戒も込めて。
いつかは永遠に来ない。

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京野 誠|オンライン軍師
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