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【アニメ『映像研には手を出すな!』】魂を込めた創造と蟠りの結石、積み重ねた先の鮮やかなる「最強の世界」

 2020年に放送が開始されたアニメ『映像研には手を出すな!』(監督:湯浅政明)は、第24回文化庁メディア芸術祭においてアニメーション部門大賞を受賞した。佐藤竜雄は贈賞理由としてこの作品を以下のように評している。

(省略)キャラクターの美術はルックも相まって作品内の現実と空想がないまぜになり、登場人物たちがイメージを共有していくさまを視聴者は台詞ではなく感覚で理解するという稀有な映像体験を味わっていたのではないだろうか。

文化庁メディア芸術祭「第24回アニメーション部門大賞 映像研には手を出すな!」
贈賞理由(参照 2024年8月14日)

https://j-mediaarts.jp/award/single/keep-your-hands-off-eizouken/index.html 

 アニメという性質上、嘘のつき放題な世界で、『映像研には手を出すな!』というアニメはまさにその嘘が嘘であることを隠さず全面に押し出している点で評価されている。この点に注目してアニメ全12話を通して視聴すると、嘘は意図的に差別化され、さまざまな性質と役割を担っていることが分かる。今回はエピソード1でアニメ制作の契機として特に印象的に描かれた二つの嘘に(筆者が素人なのは承知の上で)映像技術的側面から注目し、「アニメを作るためのアニメ」における嘘の差異と、それらの不透明性を指摘したのち、不透明な2種類の嘘がなぜ差別化される必要があったのかを検討する。

遊びとしての妄想

 一つ目の嘘は「遊びとしての妄想」である。何にも縛られない自由な妄想は創作の原点になる。特に浅草みどりと水崎ツバメがアニメ制作のためではなく、ただ単に遊びとして自身の豊かな想像力を膨らませる、いわばごっこ遊びのような無邪気な妄想が、彼女たちが作り上げるアニメのアイデアの基盤になっていく(*1)。こうした妄想が初めて描かれたのはエピソード1の序盤である。

 浅草みどりは、引っ越してきた新しい街の複雑で入り組んだ構造に惹かれ、「冒険日記」(*2)に気に入った風景をもとに想像した世界を次から次へとスケッチしていく。このとき彼女が机上のノートにスケッチをする様子が正面から捉えらえた後、(想定される)カメラはパンアップし、彼女の背後にあるはずの部屋の景色ではなく、白一色の空間が広がり彼女の妄想した白黒の景色がフェードインする。こうしたカメラの勢いのある動きを境に、彼女が存在している一般的なセルアニメーションの世界から、彼女が頭の中で描く妄想と地続きになった鉛筆画の「冒険の世界」へ移行したことが明確に表現される。

図1:『映像研には手を出すな』(湯浅政明監督、2020年)
浅草みどりが自分の住む街を冒険して見たものをもとに妄想した「冒険の世界」。欄干の奥に立ち、街の様子を眺めるのが妄想内の浅草。

 この時点で、彼女に「アニメを作る」という明確な目標はない。というよりも、表現したいという欲求を発散する手段を持ちえず、妄想を妄想として留めることになっているように見える。彼女が妄想を止め、現実の(セルアニメーション風の)世界へ戻ってきた時、彼女は窓の外を眺めていたが、外は暗雲が立ち込め、雨風が吹き荒れていた。

アニメを作る過程での想像

 二つ目の嘘は「アニメを作る過程での想像」である。全編を通して一本のアニメを制作していくことで話が進んでいくバックステージものとしての側面もあるこの作品において、このようなイメージは最も盛り上がるシーンと言っても過言ではない。佐藤が「作品内の現実と空想がないまぜになり、登場人物たちがイメージを共有していくさま」と言い表したシーンでもある。

 その中でも特に、三人でのアニメ制作の契機となるエピソードとして丁寧に描かれた、浅草みどりの描いたイメージボード(作中では設計画や背景画とも呼ばれる)と、水崎ツバメが描いた人物やロボットを太陽光の差し込む窓に重ね合わせ、「最強の世界」を想像するシーンに注目したい。カットが入り、浅草が「私の考えた最強の世界 それを描くために 私は絵を描いているので――」と振り向きざまに意気揚々と宣言するショットに移行すると、背景や浅草の衣服が一つ前のカットとは全く異なるものに変化する。

 この時、振り返った浅草の視線は直前まで浅草の真後ろにいた金森に向けられているわけではなく、画面の向こう側からこのアニメを見る我々に対して「最強の世界」を宣言するような印象を受ける(図2)。その証拠に、このショットでは浅草の「――それを描くために 私は絵を描いているので 設定が命なんです!」というセリフと共に一気にズームアウトし、浅草の隣にいた水崎や、後ろにいた金森、また三人がいた座敷の空間自体が消え去って、水彩画風に彩られた機械仕掛けの街が全貌を現す(図3)。


図2:『映像研には手を出すな!』(湯浅政明監督、2020年)
振り返った瞬間に衣装も背景も変化していることから、想像の世界へと移行したことが分かる。


図3:『映像研には手を出すな!』(湯浅政明監督、2020年)
図1からズームアウトした様子。中央に位置する金色のオブジェの前に立つのが浅草みどり(もうほとんど視認できないほど小さい点になっているが……)。

 こうした水彩の世界は浅草の想像による特権的な空間ではない。カットが入って次の場面に移ると、浅草同様、衣装が変わった水崎と金森が同じく水彩で彩られた世界に登場する。(窓ガラスで重ね合わせ)空想の中で立体となった二人の合作を前にして、水崎は「続き描こう」と浅草を急かす。だが実際、想像の世界の中で水崎が取る行動は何かを「描く」というよりも、ロボットを「弄る」動作であるといった言動の不一致が見られる。また現実の世界でラフ画を「描く」ことと何か機械を「弄る」ことにかかる時間の差を無視するような想像の世界内での時間性の曖昧さもまた、こうした想像があくまで想像(嘘)であることを視聴者に意識させる。

 加えて、こうした二つの場面を技術的側面により主眼を置いて比べてみると、それぞれの嘘の性質の違いはさらに明快になる。浅草の「遊びとしての妄想」は平面的であり、影もなく、浅草自身も周りの背景と同じタッチの姿で登場する。単にこの時点での浅草自身の画力不足を表現しているとも言えなくもないが、カメラの動きに着目してみると、そうとも断言できない。このシーンでカメラは浅草の動きと連動し、彼女を一方向から線的に捉えている。意図的に2次元的な表現を徹底しているようにすら思える。

 一方の「アニメを作る過程での想像」では、浅草らの姿は一般的なセルアニメーション的な着色で、背景は水彩画風で表現される。また監督自身がインタビューで「彼女たちがイメージした設定は水彩画にして、パースをつけて立体的に表現した」(*3)と言及している通り、意図的に3次元的な空間が強調される。同時に想定されるカメラの位置も多角的であり、多方面から人物を捉え、動く被写体に焦点を当てる時にはカメラ自体の動きが流線的になる。

表現したいという欲望にどうしようもなく駆られる

 二つの嘘の表現になぜこのような違いが必要だったのか。この問いに答えるために考える必要があるのは、これらの妄想/想像においてアニメを作ることが前提になっていたか否かである。先述したように冒険日記のスケッチから「遊びとしての妄想」を繰り広げていた段階の浅草には、アニメを作るという意識はない。この時点での妄想はある意味、一枚絵をカメラが並行して追っているような状態であり、アニメを作る上で欠かせない背景とキャラクターそれぞれのレイヤー同士の間隔が意識されていない。

 一方、アニメを作ることを明確に意識して展開される想像は、浅草と水崎それぞれが描いた絵を重ね合わせることがきっかけとなった(*4)。こうした絵を重ねる行為は、トーマス・ラマールが日本のアニメの特徴の一つとして提示した「多平面的イメージ」という概念を想起させる(*5)。端的に言ってしまえば、両氏は、2枚の絵(レイヤー)を重ね合わせることで、背景とキャラクターのセルを重ねるというアニメを作る上で最も根本的な作業を期せずして行っていたことになる。こうしてアニメ制作の第一歩をようやく踏み出した彼女らは、「遊びとしての妄想」とはまるで異なる、現代アニメ風で躍動感のあり、複数のレイヤー間の距離が意識され図が立ち上がる立体的な想像の世界へと旅立つこととなった。

 こうして妄想の段階で表現したい欲求を十分に発散できないことに蟠っていた浅草は、水崎と自身の絵を窓ガラスに貼り付けることで、太陽の光の下に開かれたアニメを制作する道筋を、そしてようやく産声を上げた「最強の世界」を目撃するのだった。

 暑いのでここまでにする。

【サムネイル】

『映像研には手を出すな!』(©2020 大童澄瞳・小学館/「映像研」製作委員会)公式サイトより

【註】

(*1) この作品の主な登場人物は、浅草みどり、水崎ツバメ、金森さやかの三人である。それぞれの役割が明確に異なっており、大まかに言えば、浅草が監督、水崎が作画、金森がプロデューサー的な役割を果たす。

(*2) この時点で浅草みどりが開いているノートが「冒険日記」とは判断できないが、そのすぐそばに積み重なった別のノートの表紙に「冒険日記 No194」と記されていることから、彼女は普段からスケッチを欠かさず、現在その「冒険日記」はNo195にまで及んでいる可能性があることが分かる。

(*3) ぴあニュース「湯浅政明 朝鮮から学んだこと 作り手の“ワクワク感”が視聴者にも伝わった『映像研には手を出すな!』」2022年2月8日(参照:2024年8月14日)https://lp.p.pia.jp/article/lifestory/212899/218447/index.html?page=2

正確に言えば、作品内の「日常のシーン」との差別化を意識して、想像の世界をパースをつけて立体的にするというアイデアだった。詳しくは上記のサイトを参照のこと。

(*4) マンガ研究者であり三輪健太郎は、2枚の絵を重ね合わせることの重要性を自身の論考で指摘する。以下を参照のこと
「絵を動かすこと、絵を重ねること 『映像研には手を出すな!』とアニメーションの条件」『ユリイカ』青土社、令和4年7月号臨時増刊号、pp.249-258

(*5)トーマス・ラマール(藤木秀朗 監訳 大﨑晴美 訳)『アニメ・マシーン グローバル・メディアとしての日本アニメーション』名古屋大学出版会、2013年


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