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GQuuuuuuXジークアクス考察➓作品のテーマと未来予想
NTの新たな解釈
鶴巻監督はGQuuuuuuXの舞台挨拶で、「ニュータイプの概念について新しい解釈を」と述べています。本編中で示唆されていると思います。確認してみましょう。
区分される NT
アルファサイコミュ
オメガサイコミュ
シャア、シャリア・ブル、エグザベ
マチュ、シュウジ
作品を通じてNTが概ね2分されます。そしてGQuuuuuuX出撃で「オメガサイコミュは通常のサイコミュと違っている特別なサイコミュ」という趣旨の会話がありました。エグザベ少尉の「俺に使えるのか?」という発言もありました。
実際エグザベ少尉は拒否された訳ですが、マチュは使いこなせています。エグザベ少尉がNTでは無いかと言えばそうではなく、シュウジの攻撃を察知しています。従来の定義におけるNTである事に間違いはありません。それでもオメガドライブは動かないのです。
NT能力は2段階
大胆に予想すると、NT能力は2段階存在します
エグザベ シャリア (キラキラ見えない)
マチュ シュウジ (キラキラ見える)
シュウジの描いた落書きはソドン入港時点でも存在しています。これは明らかにキラキラを描いた内容であり、マチュはコロニー内の別の落書きに惹かれてシュウジに巡り合います。
ここでマチュはGQuuuuuuXに乗る前は、キラキラを辿れないのです。GQuuuuuuXを体験した後で、キラキラにまた触れたいと考えて一度見ただけのシュウジの壁の落書きを思い出します。この部分は意図して描かれているのではないでしょうか。
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マチュがNTだからGQuuuuuuXを動かす
マチュがイラストを見ていたから動かせた
どちらの可能性もあります。基本的な観客の受け止めは1の筈なのですが、これもしかしたら2が正解なのかもしれません。
アルファサイコミュは動かせるけれど、オメガサイコミュは動かせない人の差別化要素はキラキラに触れていたかどうか。そう思えます。
シャリア・ブルはコロニー外壁の落書きをスルーします。“キラキラ”に触れた事がない彼は、その感覚を有さないのです。因みにマチュはちゃんと落書きに気を取られる描写が加えられています。ただこの辺りの因果関係は難しく、どちらが原因で結果か判別がつきません。
因みに過去作でもキラキラに類する現象は存在します。Zガンダムのカミーユ・ビダンで、彼はNT能力が発露した為に「コロニーの外壁の外に存在する宇宙を知覚する開かれた感覚」を得ます。
日常生活の中でNT能力が描写されるシーンは(人の邂逅以外では)少ないのですが、カミーユのこの現象は作中のマチュの描写にも影響をしているのではないでしょうか。敢えて言えば、新解釈の由来の一つと考えられます。
マチュの能力
NTが2つに区分されるのはもう間違いありません。では、マチュは何が違うのか?
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「よく分かんないけど、なんか分かった」
作中でマチュが「なんか分かった」時は2回ある理解です。最初はGQuuuuuuXの操作を開始する時。2回目はクランバトルで反撃開始する時。そして米津玄師の“Plazma”が始まります。つまりこれらのシーンが作中で最も大切だと鶴巻監督が定義しているのです。
具体的には?
マチュが持つ能力とは何か?
歌詞から考えると、“目の前の厚い壁を打ち抜いて、宇宙の彼方まで飛び出す”それを可能にする力ではないかと思えます。
マチュの言動から考えると、“前後の状況を把握した上で、最適解を導き出し現象打破する能力”で間違いないと思います。思えば“どうすればいいか分かる”のはガンダム搭乗者に共通する描写ではあります。
「戦え、とガンダムが言っている」
シュウジの印象的なセリフです。
ではガンダムの中で誰が「戦え」というのか。
既に観客がその人物を知っていた場合、該当するのは「赤い彗星のシャア、アズナブル」しかいません。
赤いガンダムがロストする前の最後の搭乗者であり、「戦え」という台詞に相応しい人物です。アムロやララァならこの言い方にはなりませんが、シャアのセリフとしてなら通用します。
シャア「戦え」
ララァ「戦いなさい」
アムロ「戦うんだ」
同じ命令形でも、言い方としては人物毎に違うセリフを吐くのではないでしょうか。
シャリア・ブルはキラキラを知覚しない
シャリア・ブルはキラキラを知覚しません。後天的にできる可能性はありますが、ソドン艦内にいる時点では赤いガンダムの搭乗者を「シャア大佐ではない」と判別しています。状況的にシャアは赤いガンダムの中にいる、またはそこを通じて別の世界にいると考えられます。離れた場所からでは、そこまで掴めないのでしょう。
いずれにせよガンダムの中の存在に導かれながら、マチュやシュウジは物語を紡ぐ事になるのです。いずれシャリア・ブルとも赤いガンダムの中の存在が邂逅するのは物語的には間違いないのではないでしょうか。
戦間期としての0085
鶴巻監督はパンフレットで「0087でも良かったが、邪魔な男が木星から帰ってきちゃう」という趣旨のコメントを出しています。この辺から物語の展開が先読みできます。
「シロッコが帰還すると戦争不可避」
シロッコは最終的にティターンズを乗っ取る男です。戦局が混迷した原因でもあります。ジークアクスの0085は、再戦を予期して両陣営が軍備増強に励む冷戦の世界です。
シロッコが登場すると妨げになるという事は、NTの覚醒は来るべき戦争を回避させる方向に作用するのではないでしょうか。NT能力の発現はシロッコが帰還しても戦争を引き起こせないほど危機を回避させる。これが私の解釈です。
人が分かり合えたら戦争もなくなる
ファーストで描かれたNTの能力は、“分かりあうことで戦争を回避する可能性”でした。これは主にララァとアムロのやり取りに含まれています。実際は“出会うのが遅過ぎた”と悲しむ展開であり、以後もガンダム世界は再発する戦争に明け暮れる事となります。“人が分かり合える”実はこれは、ララァとアムロに共通する原動力です。
でも時間が巻き戻ったよね?
ジークアクス世界では、時間が巻き戻りました。そして発生した冷戦時代という舞台装置は、「戦争を回避し終わらせる」物語展開に最適ではないでしょうか。また、ジオン側は過去に取り上げたようにガルマ・ザビが生存しています。しかも軍を離れています。
シロッコの不在やガルマの存在が示唆するのは、平和という答えではないでしょうか。平和は戦争の道具であるNTが未来を掴む為に必要でもあります。また作中屈指の戦後世代コモリ少尉も平和を選びそうなキャラをしています。
戦争に利用される能力しかないエグサベ少尉や戦争に拘り続けるシャリア・ブルとの対比として、能力を平和的に利用できるNTが登場する可能性は期待できそうです。
木星帰りの真意
シャリア・ブルは木星帰りであり、パプティマス・シロッコもまた木星帰りです。ニュータイプの平和利用の鍵はここにありそうです。なんと言っても、作中で「木星帰りの勘ですか」とわざわざ台詞にしています。これは伏線と見るべきでしょう。
ガンダムでNTの平和利用が実績あるのは木星だけです。ΖΖガンダムで、ジュドー・アーシタもまた木星に去ります。
ただ木星に行くだけでは、物語は進展しません。木星では無い新たな場所を開拓するくらいのインパクトがなければ。
時間を超えられるなら、空間も超えられる?
という事でNTの平和利用を考えた時、本作では空間を超える能力が発露すると大胆予想します。
少なくとも「宇宙の彼方」を目指す事が歌詞からも読み取れます。人を狭い地球圏に押し留めるから戦争になるのであって、NTの能力を用いて人類がさらに宇宙に広がれば戦争は回避できる。
GQuuuuuuXは平和なサイド6を選んだ事からも、単なる戦争物語にはならなさそうです。
アニメに限らず全ての創作物は現実に対する風刺作品であるべきですが、現代日本の抱える閉塞感に対する答えも盛り込まれるのでしょう。ファーストガンダムは若者の物語でした。以後の作品も若者が主人公であり続けます。「子供には未来がある」←子供扱い「未来ある若者」←まだ未来は与えられていない「未来を若者にバトンする」
そこに原点回帰することは、ある種世界の命運を若者に委ねる事を意味します。
ガンダムという作品がカラーという別の作り手に委ねられた。この作品もまた、後の世の新たな作り手にバトンする。きっと、そんな思いが込められているのでは無いでしょうか。