「殺す」という愛の形
先日、推している役者さんの出演舞台を観て
タイトルのようなテーマで考え事をしている。
「相手が望むのであれば殺す事もできる」
「それは強い愛の形のひとつだと思う」
という考えが昔からわたしの中にある。
「人(や生き物)を殺してはいけない」
これは自分以外を尊重する意味で基本として、
では、
相手が死にたいと望んでいたら?
生きる事が苦痛でしかない状況なら?
病で苦しみ死を待つだけの誰か
生きている事に意味を見出せない誰か
その誰かが自分の愛する相手で
「殺す」事を自分に望む場合には?
倫理的に、法律的に、してはいけない。
相手に生きていてほしい
自分の手で愛する相手の命を断ちたくない。
そんな色々な葛藤もあるだろう。
それを飛び越えて、相手の望みを叶える事ができるだろうか。
「していいか」「悪いか」ではなく
「できるか」「できないか」でのお話。
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昔、実家で飼っていた猫が病で死んだ。
肺に水が溜まる先天性の病気で
診察を受けた時点でもって数日の状況だった。
その場で安楽死か自宅で看取るかの選択で
飼い主であった母は「自宅で看取る」を選んだ。
わたしは安楽死を提案したが
「かわいそうだ、見守りたい」とそうなった。
食事も立ち歩くことも眠ることすらも出来ず
常に溺れ続けるような薄い呼吸を繰り返すだけ。
そんな猫の側でうたた寝をしながら朝まで頭をなでつつ、表題のようなことを考えていた。
診察からたっぷり20時間ほど苦しいだけの時間を過ごして、ついに猫は痙攣をおこし苦しみもがいた末に動かなくなった。
猫は人の言葉を話せない。
生きたいとも死にたいとも言えない。
どちらを選んでも選択側のエゴでしかない。
だから母の選択を責めるつもりはない。
それでも
「自分の罪悪感の方を守る程度の愛情か」
という感想がその時わたしの中にあった。
「看取る」のは、安楽死も翌朝でも変わらない。
「自分の選択で死を決めたくない」
それはつまり
「相手の生き死にに責任を持ちたくない」
という事ではないのか。
「殺すなんてかわいそう」という一般論で
相手から逃げた事実をくるんだだけではないか。
そんな気持ちで生き物を飼ったり、
子供を産んだりする母に疑問を感じた。
今一緒に生きているオカメインコのひよこさん。
仕事中に昼寝をする姿
お昼休みにわたしに合わせてごはんを食べる
リモート会議の声に耳をかたむける
休日にベッドの上で一緒に音楽を楽しむ
たまらなく幸せで愛しさを感じる時、
ふとやはり考えがよぎる。
もしも彼女が病に苦しむ時
わたしは彼女を殺す事ができるだろうかと。
わたしの心はとうの昔に決まっている。
あらゆる状況を想定して対応とタイミングを決めている。
苦痛を伴い死を待つだけで安楽死が可能ならば
鳥のお医者さんにお願いする。
もしも大災害などで、例えば大地震で家が倒壊し
ひしゃげた鳥小屋や瓦礫におしつぶされ
もう助かる見込みもない中
苦しそうに鳴き続ける姿を見たときには
わたしは彼女の首をおとすと決めている。
決めてはいるが、したくない。
そんな日がこなければいい。
いざそうなった時に、行動した後に、後悔をしない自信もない。
悔やみ悲しみ自分を呪うだろう。
彼女がそれを望んでいたのかと、確かめようがない、取り返しのつかない事をしたと悩むだろう。
それでももしもの時はと、決めている。
自分ならば、愛する相手にそうしてほしいから。
罪悪感から目を背けるのではなく苦悩を選び、
自分の苦痛を取り除いてくれる相手がいい。
作中のとある人物はとても愛情深い人で
そんな人に愛されたらどんなに幸せだろうかと。
そう思える相手に巡り会えただけで
いつ死んでも構わないとすら思うかもしれない。
「殺す事ができる」というのは
とても深く強い愛の形のひとつだと思う。
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そんな事を改めて考えさせられる作品だった。
謎解き要素がまんてんで、観る側に委ねられている作品なので、「そういうテーマの作品」っていうのはわたしの個人的な感想なんだけど。
ともあれ「死ぬ事」「殺す事」について
普段とは違う角度で考えるきっかけになる。
人を選ぶだろうけど、面白い作品だと思う。