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教員不足、学校で先生が集まらない本当の理由〜学校再興への提言

先生が足りない。志願者も激減している。
文部科学省の「教師不足に関する実態調査」によれば、2021年の年度の始業時に全国の小学校で1218人、中学校で868人、高等学校で217人の教員が定員より不足していた。必要定員数の割合で見れば小学校が0.32%、中学校は0.4%、高等学校が0.14%という結果だ。また、2021年まではなんとか充足していた東京都でも2022年の年度初めには約50人が不足し、補うどころか9月1日時点ではその不足数は130人に増加している。供給数に対して退職者数が増えた事は明らかで、確実に先生不足が加速していると言える。

同様に、教員を志望する人の減少も歯止めがかからない。2000年の公立学校教員採用選考試験の倍率は小学校で12.7倍、中学校で17.9倍、高校で13.2だったのに対し、2022年の倍率は2.6倍、中学校で4.4倍、高校で6.6と教員志望者の数もこの22年で激減している。

東京都では2022年実施の採用試験で、7912人の応募に対して3841人の合格者を出しており、倍率は2.1倍でこれは全国平均より1.6ポイント低かった。

公務員や教員の志望は景気に左右され、景気が良く企業が積極的に採用を増やす売り手市場の時には志望者数が減り、不景気で採用を減らす買い手市場の時には志望者数が増える傾向にあったが、近頃は先生不足、志願者不足が常態化している。

上記の数値は公立のものだが、私立の学校法人でも大きな差はないと言うのが実感だ。
どうして教員不足、志願者不足が常態化してしまったのか。民間人として校長をした経験や、学校改革のコンサルティングをする中で、見えて来た原因をあげてみたいと思う。

まず一言で表現するなら、先生と言う職業のやり甲斐と負担が完全に見合わなくなった事だろう。どんな仕事も大変である。大変じゃない仕事はない。しかし、一方で負担に見合うやり甲斐がその負担を押し退けてくれる事で誰しも負担とやり甲斐の均衡を保っていると言える。しかし、近頃の学校では完全に負担過多だ。よく学校の常識は社会の非常識、社会の常識は学校の非常識と言われるが、その格言を地で行く現実がそこにある。

負担の最大の要因は、業務過多である。これが学校がブラックであると言われる一番の理由であり、この事実が志願者が減っている大きな要因を占めている事は多くの人がご存知だろう。

先生の仕事は小中高で多少の違いはあるが、大きく分けて7つの仕事がある。
クラス担任。各学年の仕事。教科の仕事。校務分掌。各種プロジェクト。部活動の顧問。その他内外の研修に参加する事。そしてこれらの仕事をこなす為には膨大な準備や研究が必要だと言う事である。企業で言えば7つの課に所属している様なものだ。

クラスの担任はクラスの児童生徒の全ての管理監督と成長の責任を負う事になる。運動会や文化祭、遠足や修学旅行などの準備、いじめや事故、怪我など日々起こる問題への対応、保護者からの相談やクレーム、そして家庭問題の対応まで担任がやらなければならない事がある。保護者による虐待なども昨今は増えており児童相談所と連携して対応しなければならない。放課後や長期休暇中の児童や生徒の問題なども学校の先生の責任になるケースがある。クラス運営や行事以外の部分で実に多くの責任を負っている。

教科指導も昔よりやることが格段に増えている。
小学校の先生は基本的に全ての教科の指導を行う。昨年からは教科担任制を導入する学校も増えたがその率は高くはない。中高の先生は数学や英語など専門の教科指導の時間数は1週間で15コマから多くて20コマ程度だ。週5日稼働なら、1日3コマ~4コマの授業をする事になる。しかし単に授業をすれば良い訳ではなく、当然良い授業をする為には準備が必要だ。その日の単元を能力の全く違う児童生徒に等しく理解させる為の準備は様々に工夫しなければならない。プリントや動画を準備したり、昨今では双方向型やグループディスカッション型に授業を設計したり、ICTの活用も必須だ。昔の様に板書してノートを取らせるだけの授業では全くない事を理解し欲しい。宿題や提出物、テスト作成と採点は言うまでもない。最近の成績の付け方はテストの成績だけでなく観点別評価でつけるので、提出物や授業態度なども常に評価しておく必要がある。週の授業コマ数自体も多ければ、高大連携や民間、海外との共同学習もなど付随する学習の準びや設計にも多大な時間を取られるのが昨今の授業の特徴だ。

さらに大きな仕事として校務分掌がある。
校務分掌とは学校を企業と見立てて、教科指導やクラス運営以外に学校運営に必要な仕事の分担である。最も有名な分掌は教務部(学校によって若干名称が違う)だ。教務は学校全体の教科や行事の管理と調整を行う。休んだ先生がいれば代行を探し他の先生と授業を入れ替えたりしなければならない。必須時間数は足りているか、教室や施設はどこを使うかなど学校運営の根幹を担う。だからコロナ禍の調整は本当に大変だった。消毒や在宅学習の準備などを含め通常の業務の軽く倍は仕事が増えたと感じる。この分掌の仕事に加えて授業を持っている部長職の先生も普通にいる。

広報部は今やなくてはならない部で、生徒募集の為の学校説明会を企画開催したり、パンフレットを作成したり、ホームページを作成、更新したり、塾周りをして学校の広報をしたりする。塾周りは全員の先生で行っている学校もあり、広報部の先生がそのスケジューリングをしたりもする。このほか総務や生徒指導など学校によって若干種類は違うが、全ての先生がどこかの分掌に入って活動する事になる。

この分掌にプラスして特別プロジェクトなどが立ち上げられたりする。英語教育やプログラミング教育をもっと充実させる為にはどうしたら良いかを研究したり、校長先生が考えついた新しい試みを具体化する為のワーキングチームだ。これもかなりの調査や研究、実践のPDCAが必要で、簡単に実現はしない。学校によっては3つも4つもプロジェクトチームが作られ、先生の負担が膨れ上がっている学校もある。

1日に4コマの授業とその準備をし、保護者対応をし、各種行事の準備をし、分掌やプロジェクトの会議と準備、広報の外回り、一体これらを満足にこなせる人間がどこにいるだろうか?そしてこのような情報はもちろん教員同士出回っているし、新卒者は企業研究として理解しているだろう。先生にはなりたいけど、聞けば聞くほど大変な現実しか見えてこないとしたら、一般企業にしておこう、となるのは当然では無いだろうか。

では何故負担が増えこそすれ減ることが無いのだろうか?ビジネスの世界と教育の世界両方を見てきた私の自論だが、最大の原因は、企業にあって学校に無いものが原因だと考える。

多くの私立の学校法人は中高だけの従業員数100名程度の中小企業だ。企業活動は事業計画の策定に始まり事業計画の見直しに終わる。大事な事は商品やサービスの差別化だ。ブランディングとも言える。つまりその学校にしかない価値を提供出来るかどうかの戦略のことだ。これまでの学校の経営は前年踏襲で良かった。昨年と同じ事を同じ時期に同じように仕上げる事が学校の仕事の仕方だった。児童生徒がたくさんいた時代はそれで生き残れた。しかし今は違う。学校のブランド(提供価値)が明確でなければ、超少子化時代に生徒は集まらない。

一方今学校に求められるのは、旧式の偏差値教育でどの大学にどれだけ合格させられるかと言う合格実績と、今般定められた学習指導要領の軸であるICT教育や探究学習、高大連携、海外連携など新しい教育での実績だ。言うなればお寿司屋とフレンチ両方を料理する事が求められていて、あれもこれもこれもあれもがごった煮状態と言える。先にも述べた様に、1つの授業をするにも、1つの行事をするにも事前準備は膨大にかかる。大事なプレゼンがあって、何も準備せずに本番を迎えるビジネスマンはいない。こうなってしまう原因は、先にもあげた学校独自のブランディングが不明瞭だからと私は断言する。明確なビジョンや戦略無しに、時代にながされ求められるままに、付け足してきた結果が今の学校の負担過多を産んでいると言える。

その負担増に輪をかけて、生徒数の激減の結果、正規の教職員を減らさざるを得ない状況にある。本来先生が100人必要な学校で、非正規の先生が半分を占める学校も少なくない。統計では非正規の先生の割合は20%程度だが、それは先生が集められる学校も含めての平均なので、感覚的には30%〜50%では無いだろうか。非正規の先生は基本契約の教科指導だけで行事や生徒指導はしない。すなわち半分の先生で修学旅行や運動会、塾周りなどの広報活動など、校務分掌やプロジェクト活動を行う事になる。ここにはもう少し根深い原因があって、生徒が集まらなければ、いつでも人件費を調整出来る非正規を増やす傾向にあるのだ。これではブランディングも何もあったものではなく、単純に学校行事に関わる正規の先生の負担は倍になることになる。

その他企業にあって学校に無いものは枚挙に遑がない。
評価制度は不明瞭で相変わらずの年功序列だ。問題があって担任も教科も与えられていない先生が普通に給与をもらっている事実もある。新人研修制度も整備不足で、着任して数ヶ月でやめてしまう新人の先生も少なくない。職員会議は名ばかりで安心安全に議論が買わせる環境にはない。声の大きい年配の先生が発言し、若手が発言しにくい文化がそこにはある。改革を主張する働き盛りの30代40代が嫌気をさして退職する学校は年配と若手だけで空洞化しているのが特徴だ。経営者である理事達は滅多に現場に来ない。経営と現場に確実に壁がある。もちろん学校経営の責任は校長にある。しかし内情を知らずして組織の重要事項の決定はできまい。

組織は戦略に従い、戦略を動かすには良質なマネージメントが必要になる。この組織にとって最も重要な戦略とマネージメント、さらには円滑で、働く人達にとって安心安全な業務遂行に必要な良質なカルチャー、これらが学校には圧倒的にかけている。そして一人ひとりの先生の頑張りに委ねられ過ぎてしまっていて、その依存度は限度を超えている。

2030年までの変化は過去100年分の変化に匹敵するほどの変化が訪れると言われている。2030年には実空間と仮想空間が融合する。AIが自律的に知識を獲得する様になる。自動運転が主流になる。どうやらシンギュラリティは早まりそうだ。明らかに世界は激変する。

諸外国以上に日本の変化は急速かつ著しい。超がつくほどの少子高齢化。常態化したデフレと巨額の負債。緩和される事のない様々な規制と崩れる事のない既得権益。そして、何もかも改革が進まない現実。教育改革もまた然り。

もう旧時代的な教育も学校経営も機能しない事は誰の目にも明らかだ。一生日本の中にいて、日本人とだけ生活をする事は想定出来ない。テクノロジーが生活の多くを変える。そうした中で受験競争と学歴獲得を主眼とした教科型偏差値教育では日本も日本人も持つまい。どこの大学に何人合格させたかと言う学校の価値は、人口減少と言う点からも、世界に通用する人材を育成すると言う点からも役に立たない。

昔田舎にはよくあった。ラーメン屋から始めて売れないのか、要望なのかそばを出し始め、次第に天ぷらも焼肉も出すお店。人口が多い時代だったから可能な経営だ。その昔小渕恵三が日本の学校経営に関して、上手くないラーメン屋にも人が集まる状態だと評した事がある。しかし今はそうではない。あれもこれもでは、競争優位性は深まらない。先にも述べたが、学校法人の多くは中小企業だ。中小企業が巨大企業に立ち向かう戦略は、一点突破というのがビジネス界のセオリーだ(もちろん他にもあるが)。経営とは競争優位の争いだ。いよいよ学校独特の価値(ブランド)を明確にして、すべきこと、すべきでないことを明確にし、学校独特のカリキュラムをくみ、一人一人の子供の個性の受け皿となり、育成すると言う教育本来の役割を果たすこと無しに、この混沌と複雑化した学校教育の現場を立て直す事は出来まい。そして合格実績という呪文に臆する事なく、こうした時代の大きな変わり目だからこそ、保護者などのステークホルダーに対しても、新しい未来と教育の必要性を丁寧に説明し、変容の背中を押すくらいの覚悟が欲しい。そうした確たるビジョンの元に人を集め、共感を得て、選択と集中を進め、得意な分野で世界を変える人材を排出すると言う新しい価値で勝負できる学校の誕生こそが、先生のみならず、保護者、究極の当事者である児童生徒、しいては日本の未来に向けて新しい道を開く事になると思う。