【エッセイ】ー鬱と私①ー 音楽が消えた日
タイトルに明記するか少し迷ったけど、話題が話題なので、もし苦手な人がいたら回避してもらうべく入れた。
よって、そういう話しは得意でないという方は、一応センシティブな話題なので、上手に自衛いただくようお願いします。
つまり、今回はそんなお話し。
ありがたいことに、今はケロリとして生きてて良かったねえと笑っているので、深刻ぶるつもりはない。
ただの事実、いち経験談として、「へえ」と見てもらえたらありがたい。
特別、何がどうというきっかけがあって書くわけではないけれど、最近「あの頃は〜」と思い出すことが増えた。
そして、noteでも自ら触れて書くことが増えた気がするので、ここらで一区切りつけるべく、一旦記憶にある「あの頃」を残しておこうかなという気になった。
では、いざ。
私の性質
私はいわゆる「ゲラ」と言われる人間だ。
笑いの沸点が非常に低い。すぐ笑う。
笑いすぎると、だんだん何が面白かったのか分からなくなって、その「何に笑ってるのかわからなくなるくらい笑ってる事実」が面白くて、さらに笑いのどツボに入るような勝手に楽しい人間。
楽しいことが大好きだし、人とコミュニケーションを取ることも好き。
よく笑うしよく泣くし、よく言えば感受性豊かで陽気なタイプ。
そんな人間が鬱になろうとは、私は想像もしていなかった。いや、ほんとに。
自分で言うのも変な話しだが、私はどちらかいうと仕事はできる方だったと思う。
マルチタスクも余裕。
授業の準備をしながら保護者対応をして、クラスのあの子のことを考えながら部活動のことにも手を回す。そうこうしているうちに、他の子が職員室に質問に来て応対をしつつ、所属部署の資料に目を通しながら隙間時間にお昼を食べて…。
むしろ、それができないと仕事は回らなかった。仕事の内容は本当に多岐に渡り、やれることは際限ない。
どこまで気付くか、気づいたことをどこまでやるかの線引きは、永遠に私の中での課題だった。
決して驕るつもりはないが、「私はいろいろ気づきすぎた」。
加えて、自分自身の性質として、「完璧主義」があった。
やりかけたことは、最後まで責任を持つべきだと常々思っていたし、自分ならできる・できるようにするのだ、今までもそうしてきたという、プライドもあった。
何より、そこそこできる自分が好きだった。
もちろん、ワンマンでは成立しないから、本当にできないときや不得手なことは、周囲に頼ることもできた。
できないことを無理に自力でと思うことはなかった。仲間には本当に恵まれていたし、たくさん助けてもらった。
それでも、だんだんガタはくるもので。
ある大きな出来事を境に、心折れちゃったなあと自覚することが増えた。
教育現場は、日々いろんなことが言われているけれど、本当にすることが多い。
今この瞬間も、教壇に立ち踏ん張っている先生方には心の底から尊敬しかない。
それでもまあ、何とかやってきた中で、ふと「今いる場所を離れるかあ…」という気分になり、退職した。
ありがたいことにお金に困ることは、なかった。
元来物欲が遠い人間であることに加えて、もはや私の趣味は貯金だと割り切るぐらい、仕事に追われてお金を使う時間がなかったからだ。
不安だらけだったけど、貯蓄という過去の自分の頑張りの上に、そっと座ってみることにした。
そんなわけで、心機一転関西を離れて関東に行くも、世界中がコロナ禍に飲み込まれていく。
もともと環境の変化に弱い上に、新しい場所に少し慣れたかなというくらいで、世の中が規制だらけで暗くなり、どんよりしたニュースばかり目にするようになった。
風邪をひきかけていた私の心は、すっかりそのどんよりを吸い込んでしまって、ついにはガッツリと「心が風邪を引いた」らしかった。
音楽が消えた日
まずだんだんと、夜眠ることができなくなった。
昼間に体を動かして疲れたらあるいは…と、むちゃくちゃに歩いてみたり、昼寝などをしないようにしても改善されなかった。
夜に眠れず、昼も寝ないという日が続くと、心身ともにどんどん疲れていく。
切り替えて仕事をしようにも、教育現場もコロナの影響を受けて大きく揺れていた。
仕事をしていない、自分の収入がないという不安もあった。
自分のことながら、非常に客観的に「何かおかしいぞ」と、自分の変化を冷静に見つめる日が続いた。
気づけども、何をどうすべきかはわからなかった。
テレビをつけると暗いニュースばかりで、避けるようになった。
お気に入りの本を読もうとしたけれど、目が滑って内容が入ってこなくなった。
大好きだったドラマを観ようとしたけれど、誰が誰だかさっぱりわからなくなって、話しを追いかけることができなくなった。
だんだん、食べることも億劫になった。
この辺りで、「生きること」があまりに下手になっている自分に本格的に気づく。おそ!
ただし、世の中はコロナでみんな我慢して生きている。
この疲弊した感じや、閉塞感は私だけではないはずだ…と、悶々としながら過ごす。
あるとき、関西の家族と連絡を取った際に「様子がおかしいから今すぐ帰還せよ」との言葉を受け取った。
もうその頃には、すっかり「自分で考える」ことが全然できなくなっていて、「言われたから帰ろー」くらいのノリで、実家に帰った。
──気がつくと、もう随分と音楽を聴いていなかった。
天窓を眺める日々
実家に帰った頃には、本当にびっくりするぐらい「何もできなくなっていた」。
眠ることも食べることも、本当に何も。
はじめは起き上がることもままならず、ベッドの上で横になって天窓を眺めて過ごした。
何もしてないし、何も心は動いていないのに涙が出て、泣き虫も極めるところまで来たなあと思った。
本当に何もできなくて、何もする気にならなかった。
よもや自分がそんな状況に陥るとは…と、心の隅で思っていた。なけなしのプライドが私の口を封じて、関西にいることを周囲に言えなかった。
いろいろ理解のある親のサポートがあってようやく、私は「私の受け皿」としての、体の生命を維持できていた。
朝、起こしてもらって、食べる食べないはさておき食卓につく。
特に深い内容のない会話を親として、犬を撫でて過ごした。テレビはついていただろうか。あまり記憶にない。
夜、これがなかなかキツかった。
眠れないものだから、起きてただ時間を過ごす。スマホゲームをしていたような気がする。
「何もできなくなった」という不甲斐なさと、「まさか自分が」という混乱にずーっと苛まれていた。
今なら、まあそんなこともあるよと思えるのだけどねえ?
「希死念慮」という言葉も、知った。
私をいまこの世界に引き留めるものは、何もないなあと漠然と思っていた。
ただし、私には勇気がなかった。
痛いのも怖いのも、辛いのも嫌だった。人間には、「死を怖がって、生きようとする本能があるんだな」と薄ぼんやり感心した記憶がある。
真っ暗な中、さらにスモークがかかるような視界に困惑しながら、手探りで「その日」を生きるというミッションをこなす時間が流れた。
期間はもう曖昧だ。
随分長い間、そのもやもやした時間を過ごしていたように思う。
親に通院を勧められたけれど、私は「自分は別に通院するほどではない」と思い込んでいたので、実際に専門家の手を借りるまでに一年を要した。
面倒くさい困ったやつである。
その困った思い込みを、ぶち壊す事件がおきた。
思い出せないパスコード
ある日、使っているiPhoneの挙動がとても重たいことに気がついた。
何も思わず、ただ再起動しようと電源を切って、付け直した。
再起動をかけたら、パスコードの入力を求められ、そこではたと考える。
…パスコード、何だっけ。
思い返すと、いつもFace IDでロック解除をしていた。とはいえ、パスコード入力でロック解除したこともある。
数字は覚えているはず…とりあえず心当たりをいくつか入力する。
…解除されない。
焦って入力し、弾かれるたびにロック時間が伸びていく。
パソコンを使って、Apple IDとかその辺にも手を伸ばす。
ことごとく認識されず、果ては手元に「光る文鎮と化したiPhone」が存在することとなった。
いやもうほんと、びっくりした!
まさか自分が、そんなポンコツになってるとは思わんやん!!
そんな経験、ある?
毎日使ってたiPhoneのロック解除できなくなって、ロックというロックが全部掛かってしまうこと、ある?!
不幸中の幸い、パソコンでLINEにログインしていたおかげで、友達とは連絡を取れた。
困り果てて、私はその友達に泣いて助けを求めた。
彼女は実家にまできてくれて、私の絶望に寄り添ってくれた。
後にも先にも、あんなにズタボロな姿を家族以外に見られたのははじめてだった。
本当に絶望した。
「日常」に差し支えるほど、ポンコツになっているとは。
──そうして私は、ようやく病院にいく覚悟を決めた。
書いていたら、思ったより長くなってきたぞ!
併せて、何となく疲れたなあと思うので、今日はここらで一旦切ろうと思う。
自由だなあ!
わはは!そんなことも、あります。
続きは、また明日…。
何はどうあれ
いま画面越しにこれを読むあなたが、そして読み返す私自身が、今日も穏やかな夜を過ごせますように。
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