【エッセイ】夏を端まで食べきる
そんな気持ちになる週末を過ごした。
会いたいと心の動く人には、何としてでも会う努力をした。
人生にはいつだっていろんなタイミングがある。
私はそれを、この身を持って知っている。
この夏最後になる(多分)の、卒業生たちに会う予定を終えた。
卒業式から10年近くも経つと、相手もいい大人だ。私も変に大人ぶることなく「いち人間」として向き合うことが増えた。
それの、なんと誇らしいことか。
それぞれに、それぞれの人生を歩き・考え・得たものを、それぞれらしい言葉で語って聞かせてくれる。
私も肩肘張ることなく、その言葉を受け取り、率直に自分の想いや考えを返す。
その時間の、尊さたるや。
卒業してから、私に会う卒業生とは、ほぼ全員と「まさか卒業してからこんなふうに会うことになるとはねえ!」と笑い合ってきた。
今回も、決して例外ではない。
みんながみんな、特別親しかったわけでもない。
ずっと担任を持っていたわけでも、ずっと授業を見てきたわけでもない。
それでも何かが繋がった結果、今この時間はある。
その何かは、タイミングだったり気持ちだったり。
どれか一つでも欠けていたらズレていたら、噛み合わなかったら、会う気持ちを相互に持たなかったら…。
そう思うたび、私は人生の機微に触れる。
言葉にできない、泣きたくなるような温かい気分で毎度毎度カフェオレを口にする。
私はきっと、この先も彼らに会うたびこんな気持ちになるのだろうなと、幸せな想像をして、いつだって彼らの話しに耳を傾ける。
人生は、決断の連続だ。
結局のところ、何をどう選ぶにも「勇気」は必要になる。
新しいことをするにも、今を継続させるにも、過去に立ち返るにも、「勇気」を持って決断しないといけないことが、たくさんある。
「あなた」が決めるしかない。
「あなたの大切」は、「あなた」が決断するべきなのだ。
何を選んでもいい、間違いだと後ろ指をさされるようなこともあるかもしれない。
それでも私は「あなた」がそれを選ぶなら、その勇気を尊重したいし、選んだ理由ごと受け入れて見守りたい。
いろんな人の、いろんな話を聞いて、そういう気持ちでいっぱいになる。
それと同時に、人と話す言葉の中に「自分」も見る。
教え子たちに語る中で、自分自身にも語っているような瞬間が、ある。
他者の人生をありのままに受け入れることは、併せて自分自身の人生をありのままに受け入れることに、等しいような気すらしてくる。
「みんな」自分を大切にしたらいい。
尊重したらいい、仕方がわからないなら一緒に考えたらいい…。
この夏、会った教え子とのやり取りの中で、一つカミングアウトを受けた。
「私、note見つけたよ」
わー!ほんまかー!と、思わず笑ってしまった。さすがだ。
コミュニケーションを取っているSNSの端々に、ヒントになりそうなことを残してきた。
そして、このnoteを私を知る人が見たら間違いなく「私」だと特定できるだろうなとは思っていた。
もしかしたら、名乗ることなく見守ってくれている存在が他にもあるかもしれないと思うと、ああこうしちゃいられないなと、襟を正すような思いにもなった。
そろそろきちんと、「自分の夢」を語り直す時期がきたなあとも思う。
さあ、どこからどう語ろうかなあ…!
こうして私の夏は、ゆるりと過ぎていく。