古楽という現代の音楽 フレットワークと坂本龍一とダンスリー
『intoxicate』Vol.81(2009年8月)
近年では、坂本龍一の最新アルバム『アウト・オブ・ノイズ』の録音に参加し、その幅広い活動領域をさらに拡げることになったヴィオール・コンソート(合奏団)、フレットワークは、1986年ロンドンで結成された、ヴィオラ・ダ・ガンバによるアンサンブルである。一般的に「古楽」(early music)とは、バッハ以前の中世、ルネサンス、バロック期の西洋音楽を指すものであり、『グレゴリオ聖歌』や『カルミナ・ブラーナ』、ヒルデガルト・フォン・ビンゲンの諸作などがよく知られるものだろう。現代においては、その楽譜の解読や研究、作曲された当時の演奏方法、様式や慣習などへの考察にもとづいて、「古楽器」あるいは「オリジナル楽器」と言われる、そうした時代の音楽に使用された楽器、もしくはそれを復元したものを使用して演奏されるものである。
ヴィオラ・ダ・ガンバは、「ヴィオール属」とよばれる16世紀から18世紀にヨーロッパで使用されていた楽器で、大きな音量を出すことができる「ヴァイオリン属」と異なり、その小さく繊細な音色によって、宮廷などの室内での合奏に用いられていた。通常6本の弦とフレットのついた指版を持っており、ギターとの類似が見られ、楽器を両足にはさんで支える演奏法をその特徴とする。ガンバとは「脚」のことであり、対して、腕に構えて演奏する弦楽器という意味を持つ、ヴィオラ・ダ・ブラッチョなどのヴァイオリン属は、18世紀ころにヴィオール属と入れ替わるように以降のクラシック音楽の中心的楽器となっていく。その背景には、音楽の聴取環境および聴衆の変化があり、家庭や教会、あるいは宮廷といった場所から、より大人数の聴衆を集めることのできるコンサート・ホールへと音楽を聴く場が移行することで、よりそれ自体の出音が大きく、より豪奢な音色を持つ楽器が要請されるようになっていったことがある。
坂本は彼らの音楽を「他のグループに比べて、どこかアジア的で、微妙なニュアンスをもった、繊細な音楽として聴こえてきた」(★1)と評しているが、それは楽器の構造上弦の張力が弱く、単体の音量が小さく、柔らかい音色を特徴とすることや、古楽器には東西文化の混交におけるアジアに起源を持つものもあるように、近代以降の、西洋における楽器の規格化以前の楽器であることなどが、彼らによって適切に解釈されているためかもしれない。
フレットワークの坂本のアルバムへの参加は、そのような観点から聴いてみると非常に興味深い。彼らの参加した2曲のうち「hwit」は、彼らの演奏を想定して書かれた曲であり、11声のパートが多重録音されている。また、「still life」では、東野珠実が笙の演奏で参加しており、豊かな倍音の響きを持った古楽器と邦楽器がピアノとギターとの合奏を行なっているが、演奏は各自個別に行なわれている。通常の彼らの録音において、こうした制作方法がとられることはおそらくないだろう。そこではヴィオールや笙の音が電子音との類似性をもって響き、それがまた、坂本の近年における一連の電子音響作家とのコラボレーションからの影響があるのではないかと指摘されている(★2)ように、そうした電子音響作品を経由した耳によって、古楽器の音色がとらえ直されたり、現代音楽や実験音楽が再発見されたり、といったことが作品に新たな響きを与えている。また、坂本がここ数年関心を持っているというモートン・フェルドマンの点描的な音の配列を持った、弱音のみで演奏された小さな音量で聴くように指示された音楽も、作品に深い残響を響かせていることが窺える。
そのような解釈を、他の古楽器にあてはめてみるなら、たとえば、大きなホールでの生音による演奏は不可能であるが、そうした楽器の特性によって、演奏される音楽の場所と聴き方、ひいてはその内容が規定されるものであっただろう、クラヴィコードのような出音の小さな鍵盤楽器には、音の響きに耳を傾ける「傾聴する」というような、ある種のディープ・リスニング的な聴き方が示唆されるように思われる。この作品では、北極圏で録音された「氷河の小さな水の流れ」「海の氷のつぶつぶ」「氷の洞穴で録音したベルの音」といった、さまざまなフィールド・レコーディングによる音素材が使用されている。それらが、具体音や生楽器の音をコンピュータでプロセスした電子音と有機的に結合し、さらには、フレットワークの弦の響きと共鳴し、『アウト・オブ・ノイズ』という作品全体のトーンを決定している。
フレットワークの最新作は、メゾ・ソプラノ歌手、クレア・ウィルキンソンを迎えて録音された『シルケン・テント』(commmons)である。彼らは所謂古楽のみを専門に演奏するアンサンブルではなく、もちろんジョン・ダウランドやヘンリー・パーセルといったイギリスの作曲家の作品の演奏を手がけながら、現代曲を古楽器によるアンサンブルで演奏してもいる。この新作でも、古楽曲からドビュッシーやショスタコーヴィチ、さらにはアレクサンダー・ゲール、マイケル・ナイマンまでにいたる近現代の作曲家の楽曲が演奏されており、かつての彼らにはないヴァラエティに富んだ作品集になっている。「自分たちが持っているものをすべて見せていく」という意図があるのではないかと坂本が言うように、ある意味では入門編として、こうした音楽にあまりなじみのないであろう、ポピュラー音楽の聴衆にアピールすることも考慮に入れた選曲とも言えるだろう。
古楽演奏の起源は、20世紀初頭の古典楽器の再発見、すなわち復古運動によるものだという。リュートやチェンバロといった、現代の楽器にとって替わられていた楽器が製作されるようになり、それによって当時の音楽解釈が研究された。しかし、「オリジナル楽器」を使用した、正統性を重視したオーセンティックな演奏によって、実際に当時の楽曲が演奏された状態を再現するという行為は、むしろ楽器自体のポテンシャルを再認識させるものとなったと言えるのではないか。それは、たとえばフレットワークが、現代の作曲家の作品をレパートリーに含んでいるということが、時代の変移によって淘汰されてしまった楽器が持っていた可能性を、音楽史を遡行し、ありえたかもしれない音楽史として描き出すことになるのではないかという想像を働かせるものである。たとえば彼らの「亜麻色の髪の乙女」の演奏を聴くとき、「ドビュッシーはヨーロッパの外側に音楽のちがうあり方をみとめた最初のヨーロッパ人」(★3)であるということを、その「アジア的」な響きの中に聴きだす想像力を喚起するだろう。
楽器が持つ性能は、それによって作曲される音楽を規定してきたと言えるだろう。楽器の能力は、作曲家の創意を触発するものであり、それを超えたものがまた楽器の改良を促す。しかし、ある楽器が淘汰されることによって、その楽器で演奏されていた音楽までが淘汰されるものだろうか。
坂本と日本の古楽アンサンブル、ダンスリールネサンス合奏団(以下:ダンスリー)と共演した作品『ジ・エンド・オブ・エイジア』(1982)は、中世・ルネサンス期の音楽とともに坂本のオリジナル曲が収録されたものである。1972年に結成されたダンスリーは、中世・ルネサンス期の音楽はもちろんのこと、そのレパートリーとして、沖縄や韓国などのアジア民謡といった非西洋音楽を取りあげていることでも知られる。それは、西洋近代音楽に対する批判としての中世・ルネサンス音楽から、日本人である演奏者に対しての正統性の探求とも解することができる。たとえば日本民謡を日本の民族楽器以外の楽器で演奏する意義について千野秀一は、「民謡は死にかけているが演奏されればいつでも「音楽」として生き返る可能性を持っている」と言っている。そして、「よい演奏にはその力がある」(★4)と。フレットワークによるバッハの『フーガの技法』は、「バッハ以前の音色で、あえてバッハを演奏する」(★1)ものであり、それが彼らの演奏力によって、この作品に新たな視点を与えるものとなっている。また、『カルミナ・ブラーナ』の演奏などで知られるニュー・ロンドン・コンソートの芸術監督を務めた、フィリップ・ピケットは、中世・ルネサンス音楽を中心にした吹奏楽器奏者、指揮者、そして研究者であるが、フェアポート・コンヴェンションのアシュリー・ハッチングスによるアルビオン・バンドへの参加やリチャード・トンプソンとのデュオ作『ザ・ボーンズ・オブ・オール・メン』(1998)などによって、ロックの世界でもその名を知られる演奏家でもある。アルビオン・バンドで追求されたのは、エレクトリック楽器と古楽器によって英国伝統音楽を演奏するというものであるし、トンプソンとの作品は16世紀のダンス曲をロックのフォーマットで再生させるものだった。
現代の古楽演奏は、当時の楽曲、オリジナルな楽器、といったオーセンティシティによる再演だけではない。さまざまな年代や地域の音楽を取り入れながら、新しい音楽や文化の解釈を示唆する可能性を兼ねたものであり、現代において「古楽」という音楽ジャンルを確立している。
★1—坂本龍一「絹のような響きとともに」、フレットワーク&クレア・ウィルキンソン『ザ・シルケン・テント』ライナーノート、commmons 、2009年
★2—「坂本龍一インタヴュー」(聞き手:佐々木敦)、ヒアホン第1号、HEADZ、2009年
★3—高橋悠治「伝統というこのやっかいなもの」、『ことばをもって音をたちきれ』、晶文社、1974年
★4—千野秀一「ツケが払えない」、坂本龍一+ダンスリー『ジ・エンド・オブ・エイジア』ライナーノート、コロンビア、1982年
参考資料:200CD古楽への招待編纂委員会『古楽への招待』、立風書房、1996年