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不可視の映画を視る evala 《Invisible Cinema "Sea, See, She まだ見ぬ君へ"》

evala 《Invisible Cinema "Sea, See, She まだ見ぬ君へ"》評 2020年6月

*2020年1月24日から26日まで南青山のスパイラルホールで上演されたevalaによる《Invisible Cinema "Sea, See, She まだ見ぬ君へ"》評として、上演後にウェブサイトで発表されたもの。こちらは実際の会場での体験を通して書かれている。


映画において音や音楽とは、スクリーンに映し出される映像から聞こえる(はずの)音を補足する役割を持っていた。そのスクリーンに映る風景に聞こえていた(だろう)音、さらには、実際にはその風景には聞こえていなかった音も含めて、映画のサウンドトラックとは、そこにありうる音を再構成した音風景である。それが巧みであるほど、映画は体験の強度を高めることになり、映像と音響(場合によっては沈黙)は、たがいに不可分な関係を切り結ぶことになる。

たとえば、映像がさまざまなカットからなるモンタージュとして構成されるように、音響もまたカットアップされ、両者のあいだには、ある必然性が擬似的に作り上げられる。ゴダールが映画をしてソニマージュ(音+映像)と呼んだように、映画とはそうした表現形式なのである。
一方で、映画において、その主役であるはずの映像は、音響によって大きく印象を変化させるだろう。映像と音響の関係性は、かならずしも決定的なものではなく、ある映像に対する、唯一の解としてのサウンドトラックというものは存在しない。無声映画に音楽家がサウンドトラックをつけることが行なわれているが、どれもが「それらしく」聞こえることが、その交換可能性を表している。

evalaによるインビジブル・シネマ「Sea, See, She ─ まだ見ぬ君へ」[*]は、読んで字のごとく、不可視の映画であり、「耳で視る映画」を標榜したものである。映画にとって音とは、見ているもののリアリティを補強し、その世界に没入させるための自然さを装うものであるだろう。見えているものがたしかにそのものであるように、音は見えているものとずれることなく、映像に伴走している。だから、それは映像と音の関係がうまくいっているかぎり、あまり意識されない。たとえば、リップシンクがずれていると、とたんに見ているものと聞こえているものは分離してしまう。しかし、この作品では、同期すべき映像は存在せず、座席こそ一方向に向けて整然と並べられてはいたが、完全な暗闇の中で、映画の舞台を正面に見据えるスクリーンが存在しない。むしろ、真暗闇の客席の空間を音が移動することで、客席を舞台にしてしまう。それは、視覚によるイメージの限定にとらわれない、音がもたらす自在なイマジネーションによって、観客それぞれの感覚によって体験される、映画を志向しつつ、しかし、その枠を越えようとする試みである。キューブリックの「2001年宇宙の旅」におけるスターゲートのシーンが映画における、映画を逸脱する体験であったように、それは約70分のサウンド・トリップとも言えるものだ。

私たちは、耳で空間を把握し、それによって世界をとらえている。それゆえ、空間的にコンポーズされた「耳で視る映画」は、あらゆる異なる場面へと観客を瞬間移動させ、その只中に放り込むことができる。観客は、会場中央に集中した客席のもっとも音がよく聞こえそうな席に座り(自由席ゆえ希望の席に座れなかったひともいたかもしれないけれど)、ある固定された場所に位置する。それは、観客が自由に空間を移動するようなサウンド・インスタレーションとは異なる体験の方法である。こうした立体音響体験においては、スピーカーに対する聴取位置を厳密に定めることが必要であり、不可避なやり方ではあるが、それでも、こうした映画的な視聴環境での音響体験のためのセッティングが行なわれている。作品中、音の風景が突然一変し、私たちがいる場所が、たちどころに海や森に変わり、音が後方から前方へと移動し、体を通り抜ける。遠くに聞こえていた波音が、突然巨大な獣に飲み込まれる。しかし、全般的に、音を全身で浴びるような、体感的な体験とはちがう、もっと音が感覚に染み込んでくるような印象を持った。

こうした音像設計は、evalaの真骨頂でもあるだろう。この音像のサウンド・トリップにおいて、作品は、映画的なナラティヴを発動していく。しかし、それが従来の映画とやや異なるのは、すべてが主人公の視点で見られた映画のように感じられたことだ。すべてが主人公の主観視点だけで撮られた映画が存在するか、寡聞にして知らないが、「耳で視る」ということが、この作品を主観的な世界よって構築させる要因になっているのではないか。多くの観客がこの作品を体験し終えて、それぞれ異なる耳で視た体験を語るように、音という情報から広がる景色や物語はひとつのものではない。もちろん作家本人による唯一の制作意図はあるにせよ、観客それぞれが持つバックグラウンドや経験値から、個々の景色が描かれ、物語のヴァリエーションが生み出される。

この作品では、「海」というキーワードがすでに与えられているように、波音がイマジネーションの起点となっている。波の音が聴こえる、それはどこかに実在する海かもしれない、もしかしたら、どこかとどこかの海の音であるかもしれない。ある特定の場所を想起させようとしていることもあるだろうし、ある抽象化された海ととらえてもいい。もちろん、地球ではないどこか、というシチュエーションもあり得る。またそれは、観客の記憶と強く結びつく場合もあるだろう。各々がそれをどう解釈するかは観客自身に委ねられている。音が喚起するイマジネーションは、映像の不在によって強化されるが、しかし、それゆえに観客に無限定にさまざまなイメージを想起させることもたしかだ。

今作で映画監督の関根光才が演出として参加している理由もそこにあったのではないか。evalaの音像設計以外に演出があるのだろうか、暗闇の、何も見えない中での体験ではなかったかと思った観客も少なくなかっただろう。私自身、作品を体験しながら、どのような演出が施されているのか、気づかないでいた。暗闇であるがゆえに、客席の些細な光が気になってしまうが、しかし、それはもちろん作家の意図しないものである。それゆえ、上演中、目をつぶっていたのだが、終盤、ふと暗闇がゆっくりと明るくなっていることに気がついた。暗闇の中の音だけの体験は、彼方から広がる光芒が、暗闇からの出口を思わせるように、作品をエンディングへと導いていった。どこか神々しいまばゆい光のゆらめきに、暗闇から解放された目は、そのイメージを見ようとするが、それは何かの明確な像を与えてはくれない。はたして、イメージから聞こえてくるはずのものが聞こえているのか、聞こえているもののイメージが見えているのかはよくわからない。タイトルに導かれ、目はその光のリフレクションを、波や女性のように捉えようとするが、それは答えではないだろう。暗闇の中で、たしかに聞こえていたものはイメージとなり、そのリアリティを感じてもいたはずだが、それは、何かが見えることによって、曖昧なイメージの海の中に融解していく。まるで音はどうしても映像にできないものだとでもいうように。そして、暗闇が明るくなるに従って、それまで感覚を支配していた音が遠ざかっていくようにも感じられ、それは、夢から醒めていくように、長くゆっくりとフェードアウトしていった。


*——Invisible Cinemaは、オーストリアの実験映画作家、ペーター・クーベルカが1970年に、ジョナス・メカス、クーベルカらによって設立されたアンソロジー・フィルム・アーカイヴズ内に、収蔵作品を鑑賞するために作った映画館の名称でもある。ちなみにクーベルカのInvisible Cinemaは、観客がスクリーンのみを注視できるように、座席が仕切りによって個別に区切られていた。それは映画におけるスクリーンの正面性を強く意識させる。
参考:太田曜「ペーター・クーベルカ PETER KUBELKA 伝説の映画作家」、西村智弘 金子遊編『アメリカン・アヴァンガルド・ムーヴィ』森話社、2016年


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