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リアルタイムであることとはなにか——放送および通信テクノロジーが媒介するイヴェント、その意義と可能性

『Technology×Media Event』
2018年10月13日発行 日本電信電話株式会社

2018年にICCで開催した、特別展 OPEN STUDIO リサーチ・コンプレックス NTT R&D @ICC「“感じる”インフラストラクチャー 共感と多様性の社会に向けて」に際し、展覧会会場で配布された、立命館大学の飯田豊さんとの監修による小冊子『Technology×Media Event』に寄稿したもの。


2016年、リオ五輪閉会式のフラッグハンドオーバーセレモニーでの映像メディア・テクノロジーを駆使した演出が注目を集めた。それが、メディア・アートやエンターテインメントといった、使用されるメディアを共有するジャンルへと波及し、東京五輪を目前にした現在、そうした手法への関心がより高まり、舞台演出、商業施設や広告など、さまざまな形で展開されている。

新しい技術としての映像放送技術、情報通信技術などが発展するのに伴い、それらは先進的なアーティストにインスピレーションを与え、また、テレビ制作者たちの中からもテレビという技術はなにを表現することができるのかという問いかけが行なわれた。1970年の日本万国博覧会(大阪万博)では、拡張映画(エクスパンデッド・シネマ)やレーザー光線による演出など、アーティストによる多くの先駆的なアイデアが、新しいメディア・テクノロジーの可能性を提示していた。リアルタイムとは、そうしたアイデアのひとつだった。当時の日本電信電話公社によるパヴィリオン「電気通信館」では、電電公社の持つマイクロウェーヴ網を使って、半年間、万博会場の巨大スクリーンに生中継の映像を日本の複数地点から送り続ける、というアイデアが採用された。企画委員としてたずさわった当時TBSの今野勉と萩元晴彦は、「テレビ局では不可能なテレビ」として「画面の中では特別なことは何も起こらない」、遠くの場所のなんでもない日常が双方向に中継される、遠くを見るという本来のテレビジョンの実現を構想していた。結局そのアイデアは実現せず、今野と萩元も企画委員を途中降板することになってしまったが、それは、特別なことは何も起こらないが、しかし、何かが起こる可能性を内包した日常的な時間を中継し続けるという、ある意味ではイヴェント性を持ったものだったとも言える。

ヴィデオ・アートの祖として知られる韓国人アーティスト(国籍は米国)、ナムジュン・パイク(1932—2006)は、生涯電子メディアを駆使した作品を制作し、さらには通信と芸術が交差した新しい領野としての通信芸術を構想した。1973年に制作されたパイクの《グローバル・グルーヴ》は、単一画面によるヴィデオ作品であるが、放送というものの多様化、オルタナティヴなTVプログラムのあり方が示された作品だ。タイトルは、「グローバル・ヴィレッジ」という、マーシャル・マクルーハンの提唱した、世界中が映像ネットワークで繋がり、地球がひとつの村のようになるというヴィジョンを想起させる。30分弱の時間の中に、ダンス、シャーロット・モーマンや自身のパフォーマンス、ジョン・ケージの小咄、さまざまな伝統音楽、はてはペプシコーラのコマーシャルなどがカットアップ的に編集された、「未来のテレビ」像を予想した作品となっている。中でも、ナレーションの指示に従って目を閉じたり開いたり、薄目にしたりして観る、「Participation TV(参加TV)」というコーナーは、視聴者のインタラクティヴな関与を促す試みとして興味深い。パイクは、そうした放送におけるコミュニケーションの実験を一貫して行ない、のちに人工衛星を使用した同時多元中継プロジェクト《グッドモーニング・ミスター・オーウェル》(1984)や《バイ・バイ・キップリング》(1986)を実現する。

かつてテレビ放送では、中継地とスタジオで応答の遅れがあり、その時差によって視聴者はそれが実際に中継されていることと距離というものを認識した。そこでは、リアルタイムにおけるほころびが、却ってリアルタイムであることを保証している。1999年に上演された坂本龍一によるオペラ《LIFE》では、会場である東京の日本武道館とニューヨーク、フランクフルトをインターネットで結び、ネットワークによる遅延を利用したダンス・コラボレーションが行なわれた。それは、インターネットを介し、会場のスクリーンに映し出されるニューヨーク、フランクフルトの各ロケーションにいるダンサーの動きに会場のダンサーが反応し、その映像がニューヨークとフランクフルトへ届き、さらに会場のダンサーが遅延して戻ってくる各地のダンサーの反応に合わせて即興でダンスを行なう。そうして、反応の連鎖が地球を一周し、観客はネットワークの時差による、映像(ダンス)および音の遅延を通じて「ランダム遅延装置としての地球」を体験するというものだった。そこでは、遅延が時間の共有感を生み出し、それによってネットワーク技術が顕在化していた。しかし、それはたんに遅延という技術的に不可避な限界をクリエイションに転化したというだけではかった。当時の技術では遅延の度合いが速くなったり遅くなったりしてしまう「揺れ(ジッタ)」という現象を生じてしまうところを極力一定に保ち、揺れを限りなくゼロに近づける「時間保証技術(Latency Stabilizer)」が使用され、技術的限界からの創造的発想がまた技術的な解決を生み出している。

たとえばオリンピックを中継でリアルタイムで観るということが地球規模に拡張され、全世界の人と一緒に観戦しているという、出来事の共有感を生じさせる。それがメディアを介したイヴェントの特徴である。それは、実際にオリンピックをその場で実際に観ていることとの近似を目指すものだが、しかし、メディアを介した体験というのは、実際に観ていることとは別のリアルを生み出すものでもある。リアルタイムであるこということは、むしろ退屈でもある中に劇的な出来事が生起するその可能性ということでもあるだろう。そこに着目したのが、「電気通信館」の当初のアイデアだった。そうした出来事の可能性を内在した何も起こらない日常とは、何も起こらないこととは異なるものである。現代のメディア・イヴェントにおいても、そうしたリアルタイムであることとはなにかへの問いが投げかけられている。


参考文献
飯田豊 立石祥子編著「現代メディア・イベント論 パブリック・ビューイングからゲーム実況まで」勁草書房 2017年

the network technologies of LIFE
http://life.sitesakamoto.com/concept.html


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