『た』とえばあの時あんなこと〜エビフライエフェクト〜

 人生とは選択の連続である。というより、無数の選択肢を紡いで今に至っているほうが正しい。
 例えば、朝ご飯に何を食べるか、何時に家を出て、その際にはどちらの手でドアを開け、どの足から外へ踏み出し、どの道を曲がり、どこで立ち止まるか。朝というだけでもこれ以上に選択肢を選ぶ必要がある。尤も、朝だからといって“目覚める”という選択肢を選ばなくてもいいわけだ。とはいえ、選択肢からは逃れることは出来ないが。何時に起きるか、起きた後はどうするか、まだまだ選ぶことは多い。

 こうなると当然起こりうるのは「あの時ああすればよかった」などというどうしようもない後悔である。物の本によればやらない後悔よりやって後悔のほうがなんとやら、とのことだが「やらなくてよかった」「やらなきゃよかった」なんて贅沢な事後感想もあるものだからぶっちゃけどうしようもない。やった後悔は後を引くし、やらなかった後悔は後ろ髪を引かれる。どちらもしたほうが/しなかったほうが得であったと断定したが故の幻想の産物なのだが、まぁ当の本人は言ったところで納得はしないだろう。

 私としてはどちらの行動を取ったほうがいい、などと言えるほど人生の経験を積めていないのでどちらでもお好きなほうで……とぶん投げることしかできないのだが、個人的にはその選択肢に至るまでの選択した道が重要なのではと思ったり。
 仮の話として、道すがら入った定食屋で定食の他に一品エビフライを頼もうとしたとしよう。メニューに写真はなく、ぱっと見回してもエビフライを食べている客はいない。この時考えられる結果としては、いわゆる“残念な”エビフライが出てくるパターンとそれなりのエビフライが出てくるパターン、大穴としてそこの店員だけがエビフライと呼称している全く知らない料理が出てくる可能性もある。
 振り返れば多くの選択肢があったはずだ。寄る場所、曲がる道、入る店……より遡れば昨日は何を食べ、どのような媒体で、何の情報を得て、エビフライへの興味と成ったか。飯の注文ひとつとて、数多の選択肢の末であることはご理解いただけただろう。
 そしてここで選ぶことの出来る選択肢は大きく分ければ2つ。エビフライを頼むか、頼まないかである。“大きく分ければ”といったのはもちろんこの選択肢にも派生が無数に存在するからだ。だが『エビフライを注文する』という事象に限定するならばこの2択に絞られる。さて、どちらを選ぶか。
 もちろん好ましいのは美味しいと思えるエビフライにありつけることである。個人の趣向は多々あれど、身がしっかりし、サクッと揚げられたエビフライが出てきたのならば文句はないだろう。
 その一方で、作っていただいたものにケチをつけるのはなんだがいわゆる“残念な”エビフライであった場合の悲しみは果てしない。値段に反して規模が小さかったり、仕上がりの未熟さやエビ本体のクオリティと期待値のすり合わせが難しいものが来てしまうと選択の誤りを認めざるを得ない。
 もう一つの大穴の場合だが……こちらはこちらで当たり外れの博打確率が跳ね上がる。当たればデカいが外した時の二段落ち感はなかなか取り戻せない。期待したもんでもなければ味も好みじゃないときたらそれはもう引きずる。引きずった。

 ただ、いずれにせよ「ここでこうしたからこうなった」という簡単な選択ではなく、その選択肢に至るまでに多くの選択があり、その時々で回避することも、よりよい結果にすることも出来た。とまぁ、後出しジャンケンではあるが、結果を補正する手立ては出来たはずである。
 先の例で言えば注文時にどんなものか聞いたり、遡れば店に入る前に評判や写真を、店を選ぶ前に近隣の店の選択を、道を曲がる前に周辺の地図を、そもそもエビフライを食べたい口であったならばエビフライが有名な店を、てな具合で選択することは出来たはずだ。しかしそれをしなかった、いや「しないほうを選んだ」結果目の前の2択に悩まされる結果となった訳だ。誰がその末を責められようか。

 先で述べた回避例も必ずしも有効ではない。予定の都合でその店以外の選択肢がなかったり、得た情報が誤っていたり、そもそもその情報すらなかったり。事前に対策を立てたとて上手くいく保証はない。むしろ完璧な計画を立てたうえでそれが崩壊しようものならそれこそ終いである。

 とどのつまり、後悔のリスクを考えたところでどうしようもないのだ。物事には必ず過程があって、その過程のひとつひとつに無数の選択肢が入り交じっている。成功だろうと失敗だろうと、そう至るまでにはそうなる理由が存在し、結果の判明が未来である以上、現時点で完全なる成功へ導くのはかなり難しい。
 得るも捨てるも個の自由である以上、ぶっちゃけ「〇〇なら〇〇すべき」なんてものはないわけで。こうしている今も数多の選択肢からここに至っていて、現在進行系で色んな可能性を捨てているのだろう。と、ありもしない世界線に思いを馳せている。











 さて、『ここまで読む』という選択を獲ったあなたがこれをもって今後どのような人生を歩むのか。それを観測するかどうかは、また後の人生で選ぶとしよう。他者の人生より、晩の飯のほうが大事だ。