「盗られる」を経験できてないから私は理解しづらい価値観なのかも
もしかしたら、自分の育ちが影響しているのかもしれない、と図解にしてみてから気づいた。
私は「ひとりっこ」である。
よく人から言われてた。「ひとりっこっていいよね」って。
確かに、兄弟がいないから「取り合い」はめったに生まれない。お下がりも従姉妹ぐらいなもんでほとんど経験がないかもしれない。
誰かのモノだったもの、…買う前だって間違いなく販売会社のモノだったりはするんだけどそれは置いておいて、「中古品」に幼い頃はほとんど縁してこなかった。
これは正直、「親」が影響している。両親はたくさん産みましょうっていうのがごくごく当たり前だった時代を生きてきている。そして、両方とも上のきょうだいがいる。
お下がりにかなり遭遇してきたんだと思う。そして、それを「されたくなかった」のだと思う。
二人が産んだ子は私一人。だから、買い与えよう、新しいもの持たせよう、不足しないようにしよう…としてきたんだとなんとなく思う。
「自分達」はしてもらえなかったから、
ある意味、祖父母を反面教師にした【方針】で育ったのかもしれない。
何歳だったか忘れたけど、多分、大学で家族の問題の拗れを考えるとき、上世代の生活歴、価値観から読み解く、みたいな手法を知ったときからそんなことを考えたりした。
でも「盗られる」を経験してないのもあまりよくないのかもしれないなって大人になって思う。
まあ、経験がないなんて、そんなことはないんだけど…多分人よりは少ない。反対に奪っちゃう、は心弱っているときはそこそこあった…私、欲しいものには正直すぎたと思っているので…
いつの間にか生まれた、新しい「価値観」
最近は「持つ」ことを「面倒」だと思うようになった。
昔は与えられたし、欲しがったし…で物がめちゃくちゃ多かった。今も過去のものは捨てられずにいる。
本当は「手放したい」。
でも、それもかなり「手間」…なので置いておく、つまり後回しが現状一番楽だし、現実的なのでそうしている。
でもいずれは「離して」いきたい。ベストは循環させること。他の人が価値を感じるならその人に使ってもらいたい、「譲りたい」。
なるべく「自分のモノ」にはしたくない。自分も含め「多くの人が大切にしながら自由に使える」モノを必要に応じて手元に迎えて、また使わなくなったら「譲る」。そして「循環」させる。
「盗られる」感覚じゃなく、「循環する」、そういう感覚で、モノも人もお金とも関わりたい…
そういう考え方が、図解したみたいな思考を生んだのかもしれない。