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【短編】苦いままでいい。-後編-【『ミルクは先か後か入れないか。』CP話】
早めに終わった大学での時間。いつもより長く居られると踊り出しそうな足で向かった喫茶店。いつものカウンター席。そして、私の背後にある一人用のテーブル席に彼がいた。
「………」
本を持つ手が震えないように指先まで集中させる。平然と大好きな本を読んでいるように見えるよう努める。同じ文章を何回読んでも、頭になんて入ってこない。
――何故、ここにいる。
彼は、いつもブラック珈琲を飲んでいる。紅茶を飲んでいる姿は大学では、見たことがない。まさか、実は、紅茶も嗜(たしな)める紳士なのか。
微かに香る匂いからして、彼が飲んでいるのは、ロイヤルミルクティー。なるほど、甘いものも好むのか。
「今日は、何にする?」
「えっと、ロイヤルミルクティーで」
彼と同じものを飲みたいという衝動で、早口に頼んでしまった。
「あら。珍しいね」
「偶には、ね」
至極テキトーな返事。
「あ、そうそう。後ろに座っている彼が、この前言ってた紅茶嫌いさん」
「えっ」
思っていたよりも声が大きくて、咄嗟に自分の口に両手を当てる。
――彼が、例の紅茶嫌いさん。
まさかの展開に、驚くことしかできない。
「お隣空いてるし、呼ぼうか?」
そんな心の準備なんてできていない。
話したいけど、話せない。
「今回は……またの機会で」
折角のチャンスから自ら逃げるようにして断る。
――そいつも結局は自分の視線の先にある人に手を伸ばそうと必死なのよ。
この前のマスターの言葉が、今更きゅうっと胸を締め付けてきた。
彼には、好きな人がいるんだ。
感じてしまった親近感に哀愁が漂い始めた。
「……ご馳走さまでした」
折角、いつもより長く居られるはずなのに、いつもより早く店を出た。
もうすぐ日が沈む。最後の光が、私を赤く染め、少し温かさを感じさせた。
店を出る間際に焼き付けた彼の姿を思い出す。あの珈琲好きのしかも紅茶嫌いの彼が、必死で紅茶を飲めるようになろうとさせる人とはどんな人なのだろうか。きっと素敵な人に違いない。――私が、入る隙なんて、きっとないんだ。
「………」
キッチンの紅茶と並んで置かれたほとんど手が付けられていない珈琲瓶を手に取る。少量の珈琲と大量のクリーミーパウダーと砂糖。お湯を注いで混ぜたら、一気に飲み干す。
やっと、飲めるようになった珈琲と言うには程遠い珈琲。これ以上苦いものは飲めない。でも、飲めるようにならなければ、彼の背に触れることさえできない。
――もう、頑張る必要もないはずなのに。
「――嗚呼、苦いなあ……」
震える口許を無理矢理吊り上げた。
▼ ▽ ▼
「あんた、最近、珈琲飲まなくなったね」
本から顔を上げると、彼女が眉尻を下げてこっちを見ていた。
「……うん。やっぱり、飲めなくても死ぬわけじゃないし、いいかなって」
「……なんかあったの?」
「……えへへ。……彼、好きな人がいるんだって」
「えっ」
口に出したら目頭が熱くなって、本に隠れて下唇を強く噛む。
「告って、彼に言われたの?」
「いや、いつも行ってる喫茶店のマスターに教えてもらったの」
「じゃあ、まだ、チャンスは」
「私のはずないよ」
彼女の言葉を最後まで聞きたくなかった。そんな夢物語。現実に戻れば、悲しくなるだけだ。
「……私がただ一方的に眺めているだけなんだよ。ほとんどお互い知らない関係で。話したこともないのに」
「でも、あんたは、あいつのこと知らなくても好きになったじゃない」
「私がおかしいだけだよ。みんながそうなって恋するなんて普通じゃない。今回が、特別普通じゃなかっただけで。きっと彼は、元々それなりの関係がある子を好きになってると思うよ」
「そうかもしれないけど、まだ、諦めるのは」
「あんまり、辛い思いしたくないんだよっ」
本から顔を出して、彼女を真っ直ぐに睨み付けた。
「……ほら。私、弱虫だから。逃げちゃいたいんだよ。深く傷付く前に。……でも、万が一があったら、ラッキーだね」
笑う。意識して。
励まそうとした彼女に大人げない態度を取った代わりに。
向かい合った彼女の少し離れたところに、彼がいる。いつものようにブラック珈琲のボトル缶片手に本を読んでいる。胸は痛いはずなのに、彼が目の中から消えることはなかった。
日課の喫茶店では、彼がいない日は安堵する。安堵と同時に少しばかりの寂しさは拭えない。逆に、彼がいる日は、緊張と同時に少しばかりの嬉しさは拭えない。
諦めているはずなのに、まだ、諦めていないんだ。
ぼんやりと綺麗に並んだ紅茶缶を眺める。今日はいつもとは違うものを飲んでみたい。でも、それがまだ決まらない。メニューを見ると、今日はシュークリームとスコーンがマスターの手作りらしい。
――今日くらい、いいか。
マスターに紅茶はもう少し迷うと告げて、シュークリームとスコーンの両方を頼む。マスターはいつも通り嬉しそうに笑った。
今日は、この時間帯では珍しく人が多かった。空いている席はカウンター席だけになっていた。せわしなく動き回るマスターとは裏腹に客はゆったりとした時間を過ごしている。私もその一人であり、紅茶を何にするか迷いながらも本を開いた。
カラン――とドアのベルが私の耳にやけに強調されて聞こえた。コツコツと床を鳴らす靴が、こちらにゆっくりと近づいてきて、私の隣で止まった。
ごくりと喉を鳴らした。
座ったのは、彼だった。顔は見れていないが、今日大学で見たときの服と同じであることは分かった。そして、微かに香る珈琲の匂い。確かに彼である。
また平然と読書をするふりをする。垂れ落ちてくる横髪を耳にかけ直す回数がいつにも増して多くなる。
――なんてことだ。よりによって、いつもよりも多くお菓子を注文してしまったのに、隣に彼が座るなんて。
自分の目の前にあるシュークリームとスコーンとスコーンを見つめる。今日くらい、と甘えた自分を止めてやりたい。
「今日は何にする? ダージリン、レディ・グレイ、ローズヒップがおすすめだけど」
隣に座った彼に、マスターが話し掛ける。
「セイロンで」
「ミルクは?」
隣で、首を横に振っているのが微かに分かった。
「あらっ、いらないの?」
珍しいとでも言わんばかりに、マスターはまるでアメリカのコメディドラマ並みのリアクションをする。
「セイロンなら、ミルク入れた方が美味しいのに。貴女もそう思わない?」
「……!」
急に話を振るマスターに驚いて「えっ」さえも声にならなかった。驚きすぎて勢いよく本から顔を上げた拍子に首がもぎ取れそうになりながらも、余裕を装い、一度笑ってから、頷いてみせた。
「そうですね。私も、セイロンならミルクが好きかな」
できるだけ落ち着いて見えるようにゆっくりと一つ一つの言葉を口から出していく。
マスターは嬉しそうに口の両端を吊り上げて、彼の方を向いた。彼は少しだけ迷ってように間を置いてから、「じゃあ、ミルクで」とぼそりと呟いた。
マスターは満足げな顔をして、紅茶の準備を始めた。
胸が高鳴りつつ、一回だけならとゆっくりと彼の顔を見る――と、神の巧妙な悪戯か、彼とバッチリと目が合ってしまった。口から飛び出しそうな心臓を必死で引っ込める。
慌てる私に、彼は優しく笑いかけた。あのときと同じ、優しい笑顔だ。その笑顔に釣られたのか口が開く。
「……紅茶、好きなんですか?」
「えっ」
――もう、この際どうでもいい。最初で最後であろうこのチャンス、いい思い出として墓場まで持っていこうじゃない。
「よく、見かけるので」
「ああ……まあ、はい。はは……」
マスターから聞いたからと言って、「紅茶頑張って飲んでるんですよね」なんて、口が裂けても言えない。彼は若干困ったように返事をした。
「そっちも……紅茶、好きなんですか」
――質問返し!
「はい。……なかなか、紅茶に特化した喫茶店ってないから、お気に入りで」
「そうですよね。確かに、あんまりこういうところないですもんね」
幸せ過ぎたら、心臓が痛くなるのだと、今まで生きてきた人生で初めて知る。
彼はまた、はは、とはにかんだ。暫し、沈黙する。
――どうしよう。何か言わなきゃ。
「珈琲、飲まれるんですか?」
咄嗟に出た言葉に、心の中で頭を抱える。「いつも見ていますって半分言っているようなものじゃないか!」と数秒前の自分に叫ぶ。
「……分かります?」
「私、鼻良くて」
咄嗟に出た半分本当で半分嘘の返し。ほんの少し珈琲の匂いがするのは確かだし、嘘は言っていない。嘘は言っていないはず。
「私、珈琲飲めなくて。でも、珈琲飲める人ってかっこいいなって思って、どうにか、牛乳とか砂糖とか多く入れたり、ケーキと一緒に飲んだりして、飲めるようになろうって思ったんですけど、全然駄目で……」
だんだん頭が混乱して、言おうとも思っていなかったことが口の中から溢れ出す。
「これなら飲めるって思ったものも、珈琲はちょっとだけのほとんど牛乳で。友達にそんなの珈琲じゃない! なんて言われちゃって」
終わった恋だ。珈琲飲めない告白をしたっていいじゃない。
「好きに飲めばいいんですよ。美味しく飲めればそれで」
彼は私の目を真っ直ぐ見て、優しく笑った。
終わった恋のはずなのに、やっぱり胸はきゅうっと苦しくなった。
「はあい」
彼の瞳に吸い込まれそうになった私の視界に1つのポットと湯気の漂う牛乳瓶、そして2つのティーカップが映り込んだ。
「折角だから、お2人でどうぞ。ポットと瓶は一緒だけど」
マスターは本当に、現代のアフロディーテかもしれない。
心の中で、後光が差すマスターに向かって合掌した。
「あの、美味しいミルクティーの作り方、教えてくれませんか」
「えっ」
急な彼のお願いに、声が裏返ってしまった。慌てて両手で口を塞ぐ。
「今、どうにか紅茶飲めるように頑張ってるんですよ」
彼は、私の目を真っ直ぐ見ている。私は、その瞳から逃れることはできなかった。紅茶を飲めるように頑張っているとカミングアウトした彼は、少しだけ恥ずかしそうにまたはにかんで、右頬を掻いた。
着々と、名残惜しくも、彼への想いを箱に詰めては開かないように箱に口を閉じていたというのに、その努力も虚しく、閉じたはずの箱から想いが溢れて止まらなくなり、その想いが私の表情筋を緩ませた。
「――じゃあ、代わりに今度、珈琲の美味しい飲み方、教えてくれませんか」
少しは期待してもいいのだろうか。
私にもまだ、チャンスはあるのだと。
弱虫でも、勇気を持って動くことはあるのかもしれない。
目の前の紅茶と一緒に、私の前に置かれていたシュークリームとスコーンも、彼と一緒に食べようとそっと、手を動かした。
Fin.
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