山内昌之「将軍の世紀」 「みよさし」と王政復古の間(4)光格天皇と「小民の膏血」
歴史学の泰斗・山内昌之が、徳川15代将軍の姿を通して日本という国のかたちを捉えることに挑んだ連載「将軍の世紀」。2018年1月号より『文藝春秋』で連載していた本作を、2020年6月から『文藝春秋digital』で配信します。令和のいま、江戸を知ることで、日本を知るーー。
※本連載は、毎週火曜日に配信します。
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公家たちが「辺々希代の珍事なり」(『山科忠言卿記』)とか「古今未曽有の事なり」(『敬義宿禰記』)と呼んだ京都大火は、御所の修復についても前代未聞の希望が光格天皇から寄せられた。天皇は、火災復旧を機に平安大内裏の古式に戻す抱負を隠さなかった。他方、定信は自ら京都に出かけ、幕府の緊縮財政と万事節倹の現状を関白・鷹司輔平に説明している。定信は、予算がかさむと「御手伝い」の大名は賦役を民衆に転嫁し、不作や凶作の続く現状では御所に贅美を尽くすことで人びとが重税に苦しまないかと牽制した。ここが定信の政治技術の冴えている点であり、天明七年の「御所千度参り」で下々に憐憫を垂れた天皇が自分の住まいや儀式の場について贅沢を言われるはずはない、と示唆したのである。禁裏の方では大火の折に京都所司代が不在だったことが面白くない。戸田忠寛(ただとお)が天明七年十二月十六日に免じられ、松平和泉守乗完(のりさだ)が翌日に補職されつつ赴任していない隙を衝いた大火災であるが、禁裏都督を武威の一部とする徳川幕府には何とも間の悪いことであった。戸田の所司代更迭は、後から伏見の市人訴訟の不手際によるとされるが(『寛政重修諸家譜』第十四、巻九百六)、御所千度参りで禁裏の幕政干渉を許した責任も問われたのだろう。それだけでなく、十九年に一度回ってくる天明六年十一月一日の「朔旦冬至旬儀(さくたんとうじのしゅんぎ)御再興」(『柳原均光日次記』)が将軍家治の死と重なったにもかかわらず強行されたことや、七年十一月の大嘗祭も大幅に旧儀へ復古されただけでなく、宝暦事件で永蟄居処分を受けた裏松光世の養孫・兵部大輔明光らが天皇入御後に大嘗祭終了の「恐悦を申し上げ」て終了する(『今出川前内大臣殿記抜書』)などの動きもあった(『光格天皇実録』第一巻所収。「朔旦冬至」『翁草』4、巻百九)。しかも光世は、まもなく定信を苦しめる大内裏の古式に則った復興の青写真を描く黒幕となるだけに、忠寛が所司代の後に老中になれなかったあたりに、定信など江戸の要路による京都関係者への厳しい眼を知る思いがする。
不思議なのは、一銭を出すわけでもない朝廷が好意的義務として修築する幕府に対して優位に立ったことだ。それは光格天皇が対幕関係で面目を一新する決意をもち、何をおいても幕府との力関係で優位に立つ意志を強く変えなかったからだ。定信が御所造営総奉行として乗り込んでくるなら、禁裏も前例のない造内裏御用懸を設けて中山前権大納言愛親(なるちか)はじめ三名を任じ、造内裏奉行に権大納言日野資矩ほか二名を命じるといった駆け引きが繰り広げられた(『光格天皇実録』第一巻)。定信は鷹司関白を相手に、明和七年(一七七〇)に三百万四千両あった幕府の貯蔵金が御所の焼けた天明八年には八十一万七千両にまで減ったことを説明したはずであり、関白もそれは理解できた。
定信は、朝廷が幕府に「生民困窮お厭い」(民衆を救済せよ)と命じたのは何だったのか、「宮室の美をなし候ものは、これまた小民の膏血」(荘厳な御所は民衆の血と脂を搾って造営した)ではないのか、と。しかし天皇は動じない(藤田覚『近世政治史と天皇』)。光格天皇からすれば「小民の膏血」を絞ったのは武家方であり、禁裏は関知しないというのだろう。社会救済は幕府の義務なのに怠ったから自ら警報を発したのは何が悪いと考えたかもしれない。光格天皇は、財政事情を顧慮せず幕府に負担だけでなく、人民の怨嗟を押し付けることにも躊躇しなかったのだろうか。これでは権威をふりかざしながら「いいとこどり」をすると揶揄されても仕方がない。宝暦事件に連座して三十年以上も蟄居していた間、平安大内裏の研究を大成し考証の書にまとめた前左少弁・裏松光世の執念と幕府への遺恨が天皇を動かしたのは否定できない。幕府は光格天皇の古儀復古へのこだわりに屈したが、裏松の暗い情念は決して天皇のためにならないことを朝廷関係者はやがて痛感する。定信は、「上京のうへ御狭少に候はば、いかやうにも御たてなしなどさた(沙汰)すべきとの命を蒙りし」と家斉の意志を知っていたせいもある(『宇下人言』)。
光格天皇と松平定信は衒いや虚勢と無縁の人物であった。むしろ二人には、自らに課せられた責任を曲げずに受け止める意志力の強さで共通する面もあった。それは政治的責任感というよりも彼らの属する世界と制度の重みを受けとめる歴史的責任感ともいうべきだろう。天皇になるとは思いもよらなかった光格と、十五代将軍の中でも一、二の存在になりえた定信は、立場は違え、出自に比べて現在の身分に屈折感があった分だけ、物事に取り組む姿勢にくもりはなかった。他人と筋違いの妥協をせずに、信じるところを進む結果は時に激烈な衝突も起こした。たとえ人とぶつかっても仕方がないという自信と自我も共通していた。一方は、即位した当初に伊勢神宮への宣命で「眇々たる傍支の身」(取るに足らない傍系出身の身)で天皇になったと語る。しかも、後の寛政八年になっても、公家たちの遊興や過怠は許せず、六十人ほどの公家に永蟄居や差控などの処罰を加え、自殺者まで出す厳しさであった(藤田覚『江戸時代の天皇』)。他方は、田安家当主はおろか第十一代将軍になっていた可能性を隠しながら白河松平家の養子になった事情を「さりがたきわけありしこと、この事は書きしるしがたし」と胸中に秘める(『宇下人言』)。救いは、彼らが互いに毎日のように個性溢れる命を出す主人と、鞠躬如(きっきゅうじょ)として従うべき廷臣の主従関係になかったことだ。
二人の出会いについては詳らかにしない。定信は「参内し龍顔を拝し天盃を頂戴」し、実父・田安宗武のせいで有職故実に明るい田安家の力を借りて冠と装束も正しく着用したために恥をかかず、進退も手をついて歩く関東流を避けて膝行を心掛けた。あとで広橋権大納言伊光からは、礼に適っており「関東の御使にはめづらし」と褒められた。鷹司関白は参内の振舞と進退が天皇の御感にいたくかなったと伝えた。六門の内は下馬なので鑓を伏せて持つべきだと考え、自分は伏せたので京都所司代もやがて伏せるようになったという。これは「王室を貴びし一事ぞ」と人びとが誉めそやした(『宇下人言』)。しかし、これは幕府の最高実力者としてどうか。歴代の所司代が作り上げてきた武家優位の一部慣例を公家の有職故実の礼に譲歩するなら、幕威を次第に失う先蹤を付けたことに定信は無頓着だったのだろうか。
関連して言うなら、このあたりの矛盾をいち早く察知した一人が松浦静山だったのは意外かもしれない。この頃、彼は旧友の林述斎と幕臣と朝臣の本分をめぐり議論した。大学頭を辞めて大内記となった述斎に向かって静山は、もし官(幕府)が朝廷と敵対する事態が起これば、自分は朝臣として官に刃向かうというのだ。しかし将軍自ら出陣するなら、跪伏、弓をふせて矢をつがえないとも誓う。神祖(家康)以来、衣食住で受けた三厚恩に報いるためだ。述斎があくまでも幕臣と言い張るなら、水魚の友交を捨てて弓矢に及ぶだろう。しかし、互いに対決せぬように微力を尽くし官を「善道」に進め、長く「国家長久」を保ちたいと静山は語る。その言は、まるで承久の変に際して北条義時が子の泰時に天皇・上皇が親征するなら、弓矢を折り戦うべからずと諭した『増鏡』の逸話とあべこべである。静山は、阿部備中守ら譜代たちと「膠漆の会」を開いた時、皆が「御旗」(錦旗)に向かって進むなら、自分は「御旗」を背(ウシロ)に対決せんと述べた。備中はおそらく正弘でなく父の正精と思われるが、一同は広言をいうものかなと乾笑した。静山は本気だったのである。他方、日光御神忌で江戸城に来た飛鳥井雅光が「城内」も広く「陪臣」も多いと広言したことに静山は「胸悪く思ゐし」、たとえ朝臣であろうと、「大城」を城内と言い放つのは将軍へ「不礼」だと、京都の公家による武士の棟梁への侮辱をいささかも許さぬのが「男なれ」と胸を張るのがおかしい(『甲子夜話三篇』5、巻六十一の一一)。
定信に話を戻すと、彼は容貌端正で貴種だったのみならず、和歌文章はじめ教養でも屈指の「黄昏(タソガレ)の侍従」がやってきたと禁裏の評判は上々だったらしい。名の謂れは『源氏物語』を詠んだ次の和歌に由来するのだろう(『甲子夜話』1、巻一の一六)。
心あてに見し夕顔の花ちりて たづねぞまよふたそがれのやど
「まよふ」を「わぶる」と詠む史料もあるが、十六歳当時の歌である(『日本随筆大成』第Ⅰ期7「解題」)。含弘堂偶斎の随筆『百草露』巻九によれば、「夕顔の少将」と称する向きもあったらしい(『日本随筆大成』第Ⅲ期11)。また、定信の下で江戸町奉行を務めた根岸鎮衛によれば、「尋ねまどへる黄昏の宿」と詠み「たそがれの少将」と京都で唱えられた(『耳嚢』巻八)。ともかく定信は、造営予算を工面しなくてはならなかった。『宇下人言』によれば、薩摩の松平豊後守(島津齊宣)と細川越中守(齊玆<なりしげ>)には志もあり、家臣を通して拠金の意志を尋ねると「尤もとて」二十万両を四、五年分割で差し出すことに同意したという。この御用金あるいは御入用金は、もともと熊本藩にそろそろ御手伝普請(土木河川工事)の順番も回って来るから先んじて名乗りをあげる方が明君・細川重賢を戴いた熊本藩にふさわしい、と定信の用人・水野清左衛門が熊本藩江戸留守居役に示唆していた。当時は、人夫を負担する御手伝普請から工事費だけを負担する金納御手伝普請に変わったこともあり(松尾美恵子「御手伝普請の変質」『学習院史学』一〇)、水野の方は十万両でどうかともちかけた。しかし、やりとりは京都大火災で一変する。熊本藩は十万両で国元と江戸藩邸が一致した矢先に、他ならぬ定信が造営奉行を仰せつけられ京都に出かけるのだから、一段と奮発しなくてはならない。高槻泰郎氏の研究でそのあたりの遣り取りを再現してみよう。十七万両という高額を示すと、定信は感謝するだろうが、他の老中はさして「出精」と思わないと水野は心配する。せっかく出精したのに、「御規模」(模範・手本)にならないのでは気の毒なので、ここは四年間で五万両ずつ払うというのでどうだろうか、とまるで熊本藩に恩を着せるかのように語るのだ。留守居の白杉少助は十七万両で「規模」にならないのなら、当方は最初の十万両に戻すだけだといきまく。水野はたじろがない。十七万両の数字はもう役人たちに伝えた。先年、芸州(広島)藩と長州藩はそれぞれ二十万両の手伝をしており、今度薩摩藩より表高が低いのに熊本藩が同額を上納すると格別と見なされるのではないか、と念を押す。肥後人たちも水野のしつこさに辟易しただろう。
熊本藩も明君・重賢の改革が成功したばかりに、重賢と親交のあった定信の側が細川家の内情を知るかのように無心するのだ。重賢でさえ、明和六年(一七六九)十二月に将軍・家治の特旨で従四位下左近衛権少将に任じられた時、嬉しさのあまり正月になって「元日やゐもなもあがる雑煮かな」と詠んだ。「芋菜も食(あが)る」が「位も名も揚る」を掛けたことはいうまでもない(『甲子夜話』3、巻四十五の七)。歴代当主で綱利以来、ひさしぶりに侍従から少将に進んだのだから得意満面だったに違いない。しかし官位昇進の貸しはきちんと返してもらうのが幕府なのだ。
しかも重賢の改革パートナーの家老・堀平太左衛門勝名がまだ現職のままであり定信の圧力をかわせないことを知っていた。ついに熊本藩は天明八年十二月に幕府に四年分割・二十万両納付を申し出た。定信からは「過分の御上納高誠にもつて御感心」の言葉があった。幕府は巧妙を極めている。これは「公儀の御入用」として納められ、その重要用途の禁裏造営に支出された。幕府は天明八年と寛政元年五万石以上の大名に一万石につき五十一両二分の割合で禁裏・御所の「御築地入用」として徴収したが、熊本・薩摩両藩と同じく上納金として御所造営費に充てられたのだろう(高槻泰郎「金納御手伝普請にみる幕藩関係」藤田覚編『幕藩制国家の政治構造』)。この両年については、幕府財政史の重要史料、「向山誠斎雑記及雑綴」のなかに「禁裏幷御所向御普請御入用」についての「上ケ金」として、それぞれ十八万四千両、十万二千両が記載されている(大野瑞男編『江戸幕府財政史料集成』下巻)。
現在の日本人が京都御所で馴染の紫宸殿や清涼殿は、光格天皇に定信が押し切られた天明・寛政時代の結構を継承しているのだろう。最近、所功氏らの努力で色彩感豊かな図や掛物を収めた『光格天皇関係絵図集成』が出された。その光格天皇の『即位礼之図』と仁孝天皇の『御即位式図御掛物』を比べると、新旧の南庭(だんてい)の殿門や築地塀を比べるだけでも寛政新造の華やかさが際立つ。また、前者と文化十四年(一八一七)の『桜町殿行幸図』の紫宸殿を比べると、後者の広がりの余裕を感じざるをえない。そのうえ、『寛政新造内裏還幸行列絵図』の威儀を正して引き締まった一行の躍動感を見ていると、新築なった宮殿に入る昂揚感がみなぎっている。この荘厳な建物と雰囲気を後世に残した二人の功績は大きい。しかし、熊本藩細川家はじめ大名たちの過剰な出費や、その背後の農民など「小民の膏血」を偲ばずに、建築物の荘厳だけを讃えるのは空しいことだ。
■山内昌之(やまうち・まさゆき)
1947年生、歴史学者。専攻は中東 ・イスラーム地域研究と国際関係史。武蔵野大学国際総合研究所特任教授。モロッコ王国ムハンマド五世大学特別客員教授。東京大学名誉教授。
2013年1月より、首相官邸設置「教育再生実行会議」の有識者委員、同年4月より、政府「アジア文化交流懇談会」の座長を務め、2014年6月から「国家安全保障局顧問会議」の座長に就任。また、2015年2月から「20世紀を振り返り21世紀の世界秩序と日本の役割を構想するための有識者懇談会」(略称「21世紀構想懇談会」)委員。2015年3月、日本相撲協会「横綱審議委員」に就任。2016年9月、「天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議」の委員に就任。