中森明菜「元山口組組員の暴力と長い沈黙」(4) 西﨑伸彦
暗黒の90年代を乗り越えた彼女は……。/文・西﨑伸彦(ジャーナリスト)
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レコード会社の移籍話
1989年の自殺未遂から約2年。中森明菜は、歌手としての本格復帰が見通せないなか、ニューヨークで無為な日々を過ごしていた。
シングルを3枚出したものの、アルバムの制作は未定。デビュー以来所属してきたワーナー・ミュージックとは契約上の繋がりのみで、もはや決裂状態にあった。テレビ番組の撮影で、ニューヨークに同行していたワーナーの宣伝スタッフも明菜を持て余していた頃、レコード会社の移籍話を持って、元ビクター社員の栃内克彦が現地に姿をみせた。
彼は明菜の自殺未遂後に設立された前所属事務所「コレクション」の元社長から依頼を受け、MCAビクターへの移籍後の打ち合わせに来たと告げた。
「何それ? そんな話聞いてないよ」
そして、栃内が改めて持参した契約書をみた明菜は「その実印もサインも私のじゃない」と不信感を露わにした――。
彼女の歌い手としての人生が、波乱とともに、また再び動き始めようとしていた。
栃内が振り返る。
「私も聞かされていた話とまるで違う状況に驚き、明菜に返す言葉もありませんでした。そこから彼女とじっくり話をしました。明菜はニューヨークがお気に入りのようで、中心部にあるロイヤルトンホテルのペントハウスに宿泊し、夜はカラオケのあるピアノバーに連日のように通いました。彼女は大好きな松田聖子の曲を唄って、機嫌もよくなっていき、話も前進していったのです」
尾を引いた自殺未遂騒動
口座から金が消えた
2人で帰国し、契約書を整えた後、栃内は明菜の新しい事務所「コンティニュー」の社長に就任した。
「驚いたのは、ジャニーズ事務所の傘下にある興行会社の幹部が、真っ先に連絡をしてきて、明菜と近藤真彦との交際について言及したことです。『近藤が、明菜からマンション購入名目で受け取ったお金の件は伏せて欲しい』と言われたのですが、私には何の話をしているのか、まるで分かりませんでした」(同前)
自殺未遂から2年が過ぎても、明菜と近藤との“事件”は、まだ燻り続けていた。その縺れた人間関係のしがらみから脱却すべく、スタートを切った新事務所。だが、その船出は初めから“視界不良”だった。
「コンティニュー」は91年9月に設立され、当初は明菜の前事務所の社長の友人が代表を務めていた。明菜をワーナーからMCAビクターに移籍させる受け皿として、前事務所の社長とビクター関係者らが密かに立ち上げ、ビクター側からは当初、約5000万円が運転資金として振り込まれていた。そして彼らは栃内に会社を預け、経営から手を引いた。
ところが、栃内が社長に就任した時点で、口座から金が消え、ほぼ空っぽの状態になっていたのだ。
「前任者らが費消していたことが、のちに分かりました。明菜には月500万円の給料を約束していたので、ビクター側に追加資金をお願いしました。そのうちに、明菜の大量にある衣装のクリーニング代などの請求書があちこちから届き始め、催促の電話も入るようになった。都銀の支店長からは呼び出しを受け、明菜が、実家のある東京都清瀬市に近い東武線沿線に約1億円を借り入れて建てたビルのローン返済が滞っていると指摘を受けました。このビルは彼女が家族のために建て、一時は家族が店舗で飲食店も経営していました。次から次へと支払いを迫られ、明菜に4カ月ほど給料を払った時点で、資金繰りはいよいよ行き詰ってきました。ビクター側は『何でそんなにお金が掛かるのか』と資金の供給をストップし、危機的な状況に陥ったのです」(同前)
一方、明菜の仕事も、決して順風満帆とは言い難い状況だった。
92年4月、明菜は安田成美とのダブル主演で、女性同士の友情を描いたドラマ「素顔のままで」(フジテレビ系)に出演。初の連ドラ出演ながら、平均視聴率26.4%と高視聴率を叩き出し、演技力も高い評価を受けた。
しかし、当時の明菜には、時に明らかな変調が現れることがあった。
「明菜が楽屋からまったく出てこず、共演の安田成美さんも困惑していました。一報を受けて私がスタジオに駆けつけると、今度はトイレに籠って出てこなくなったんです。ようやく出て来たかと思ったら、目は真っ赤で、何度も嘔吐し、フラフラの状態になっていました」(同前)
その数カ月後、明菜はフジテレビの新春ドラマ「悪女Ⅱ・サンテミリオン殺人事件」の撮影で、フランスのロケに参加。その際には滞在先のパリでも、トイレに籠り、丸一日出てこないことがあったという。
心身のバランスが崩れ、身体が悲鳴をあげているかのような異変。日本の芸能メディアは、明菜が再び自殺未遂を図ったと騒ぎ立てた。
ただ、明菜が、遅々として進まない歌手活動の再開にジレンマを感じていたことは確かだった。
「みんな私を利用する」
栃内は、当時ヒットメーカーとして注目され始めていた小室哲哉と明菜とのコラボを実現させ、小室が明菜に書いた「愛撫」を移籍第一弾のシングル曲にしたいと考えていた。小室も、明菜も乗り気で、レコーディングも行なわれたが、この曲がアルバム曲を経てシングルとして発売されたのは、それから約2年後のことである。
明菜を取り巻く環境は、事務所の経営が抜き差しならない状態になったことで、またしても空転を始めていったのだ。
「明菜とMCAビクターは契約金3億4000万円で移籍に合意と報じられましたが、私が確認したのは、無くなっていた最初の5000万円を含めても約1億7000万円。資金が回らなくなり、給料の遅配が始まると、明菜に『栃内が契約金を使い込んだ』と吹き込む者がいて、彼女もその話を信じ込んでしまった。そんな事実は一切ありません。ただ、彼女と次第に連絡がとれなくなり、私だけが悪者になっていました」(同前)
明菜は周囲に、栃内への怒りを隠さず、「最初はいいことを言っていたのに騙された」「みんな私を利用して商売する」と不満をぶちまけた。
明菜が離れ、主を失った「コンティニュー」は混迷を続け、その後、96年に破産。栃内は債務整理に追われる日々のなか、偶然、白金のタイしゃぶ屋で明菜と遭遇した。彼女は栃内を物凄い形相で睨みつけ、無言で去っていったという。
彼女はまたさらに孤独の鎧を身に付け、限られた人としか接点を持たなくなっていく。
中森家から戸籍を抜いた
当時、彼女が最も信頼を置いていたのは、20代前半に、六本木のチャイニーズレストランで、客と店員として出会って以来の知り合いだった江田敏明。2人は交際中だった。
江田は、93年から明菜が設立していた個人事務所「NAPC」の副社長としてマネジメントにも関わるようになった。明菜はこの頃、後見人を自任する女性が書いた暴露本騒動に巻き込まれ、その混乱を収めるために江田に助けを求めていた。
今回改めて江田に取材を申し込んだが、「今は飲食業をやっていて、彼女と何の関係もないですし、ずっと会ってもいません」と口が重い。
NAPCには当時、彼女が親しくしていたフジテレビ「夜のヒットスタジオ」の元プロデューサー渡辺光男や、長年にわたって彼女のスタイリストを務めた東野邦子も役員に名を連ねていたが、2人とも20年以上、明菜に会っていないという。
明菜が華々しい活躍をみせた80年代。日本経済は空前のバブル景気に沸き、90年代の足音が聞こえた頃から、右肩上がりを続けた株価と地価が下落してバブルは崩壊した。その盛衰と軌を一にするように、明菜の人気にも陰りが見え始めた。
一つの節目は、95年6月に訪れた。癌を患い、長く闘病生活を続けていた最愛の母、千恵子を亡くしたことだ。明菜は通夜には顔を見せたが、葬式には「仕事があるから」と出席せず、この日を境に家族とは完全に没交渉となった。
父親の明男が語る。
「家内が亡くなる少し前に、事務所の若いスタッフが何人も来て、『本人が中森家の戸籍を抜けたいと言っていますので、よろしくお願いします』と言われました。『冗談じゃない。事前に何の相談もないのに』と怒って帰って貰いましたが、あの子も成人ですから、戸籍は勝手に抜いたんでしょう。ただ、今でも私は不服に思っていますよ」
明菜は“分籍”の手続きまでして、家族との繋がりを自分の歴史から消し去ろうとしたのだ。
6人兄弟姉妹の5番目、三女として育った明菜は、歌手志望だった千恵子の影響で幼い頃から歌い手を目指した。決して裕福な家庭ではなかったものの、母親は娘のためにピアノを買い、4歳からバレエを習わせた。デビューが決まり、ヒットチャートを駆け上がる娘の活躍を誰よりも喜んでいたのが母、千恵子だった。
強い絆で結ばれていたはずの家族は、その後、明菜が稼ぐ莫大な金を巡る疑心暗鬼で分裂していく。しかし、88年に母親に癌がみつかると、明菜は翌年、母の療養のためにハワイのマウイ島に約1億円で別荘を購入。母への思慕の情は決して途絶えたわけではなかった。
その母の死後、家族に背を向けた明菜は、本業の歌手活動でも、かつての栄光を取り戻せないでいた。
迷路の出口が見え始めた
当時の音楽シーンは、88年のシングルCDの登場により、再び活況を取り戻し、J-POPが全盛期を迎えていた。小室哲哉のプロデュース作品やZARDなどビーイング系のミュージシャンを中心に100万枚を超えるミリオンヒットが続出。そのなかで、明菜はアイドルではなく、一表現者として、自分の立ち位置を探す試行錯誤を繰り返した。
94年には初のカバーアルバム「歌姫」をリリース。幼い頃に親しんだ岩崎宏美の「思秋期」や日本のロック史に残る名曲、カルメン・マキ&OZの「私は風」などを独自の解釈で見事に昇華させた。96年には30歳を機に初のディナーショーにも挑戦したが、一方でトラブルメーカーのイメージが先行し、セールスは頭打ち。芸能界の仕事に不慣れな江田のマネジメントで、またしても現場に混乱が生じていた。
「江田さんは、人を介してショーケン(萩原健一)の所属事務所の元社長、桜井五郎さんの力を借りることにしたんです。桜井さんは寺内タケシとブルージーンズの歌手から、渡辺プロのマネージャーに転じた芸能界の裏も表も知り尽くしたような人物でした。破天荒なショーケンの全盛期を支えた手腕を見込んで、扱いが難しい明菜の調整役を期待したのです」(NAPCの元関係者)
そして、明菜が社長を務めるNAPCは、桜井が率いる「インディジャパン」と業務提携し、テレビ局やレコード会社との交渉などのマネジメントを委ねることになった。当時は、MCAビクターとの契約が切れ、新たなレコード会社を探していた時期だったが、インディジャパンの紹介で、第一興商傘下のレコード会社「ガウスエンタテインメント」と契約。明菜にも、ようやく迷路の出口が見え始めていた。
歌手だけではなく、98年1月からはサスペンスドラマ「冷たい月」(日本テレビ系)で久々に主演し、その鬼気迫る演技が好評を博した。
当時を知るNAPCの元スタッフが語る。
「『冷たい月』は永作博美さんとの共演でしたが、番組の打ち上げで永作さんが泣き出してしまったんです。とにかく過酷な撮影スケジュールだったので、こみ上げるものがあったのだと思いますが、『明菜との共演が大変だったんだな』と受け取る人もいました。明菜さんは元来、生真面目で、融通が利かないところがありますから、演技の場面でも『おかしい』と思ったら遠慮せずに口に出してしまう。それで周囲が振り回されるんです。その代わり、本人も役作りに没頭しているので、悪気を感じることもないのです」
ドラマで幕を開けた98年は、新譜のリリースに続いてコンサートツアーの予定も入り、明菜にとっては久々に充実した日々だった。
「明菜さんは当時携帯電話を持っていましたが、その携帯は江田さんに預けたまま、まったく使っていませんでした。他人と個人的に連絡をとる意思もなく、その必要もなかったのでしょう。ただ、どこに行っても取材陣がいるので、保証人をつけてもなかなか部屋を貸して貰えず、8カ月近く都内のホテルに住んでいました」(同前)
外出が減り、出不精になると、楽曲の制作意欲とは裏腹に、最初の一歩が踏み出せなくなっていた。
ウォッカを飲みながら
この頃、明菜のレコーディング現場には必ずお酒が用意されていた。ウォッカ、しかも彼女が指定するスミノフ50度の青ラベル。これを炭酸で割って、スクイーザーでレモンを絞り、ウォッカ・リッキーを作る。彼女はそれを飲みながら、レコーディングの準備に入るが、唄う準備は整ってはいない。持参した小さなラジカセを持ってブースに籠り、30分から40分かけて曲を聴く。そして、スタッフに「唄う」と一声掛けると、4回か5回唄ううちに、“明菜節”になっていくのだ。
当時を知る元マネージャーが明かす。
「経験を積んで来たといっても、やはりレコーディングに向かう怖さのようなものがあったのでしょうか。とくに1回目はお酒の力を借りないとダメでしたが、お酒は3杯までと決めていました。本人もそれ以上飲むと酔っ払ってくることは自覚していましたし、周りも3杯目になると、そろそろどうやって帰らせようかと思い始めていましたね」
そして完成したガウス移籍第一弾のアルバム「SPOON」を引っ提げ、98年6月から1カ月をかけて全国14カ所15公演のツアーがスタートした。
ところが、このツアー中、思わぬハプニングが発生する。
「このツアーは老舗プロモーターで、キョードーグループの創立者の一人、内野二朗さんの会社が全面的にサポートしていました。明菜さんも乗り気で、朝は誰よりも早く起き、いつ寝ているのかと思うほどでした。コンサートの最後の見せ場で、『冷たい月』の主題歌だった『帰省~Never Forget~』という曲を唄っていたのですが、この曲は高い音域のところはかなり高い。レコーディングの時のキーでは、正直キツそうでしたが、『ファンが楽しみにしているからオリジナルのキーで行きたい』とギリギリまで粘っていました。ツアーは順調でしたが、ある時、急遽予定されていた会場が変更されたことがあったのです」(同前)
尾を引く自殺未遂騒動
荷物を抱えて何度も移動を強いられるうち、明菜も「なんでこんなスケジュールになっているの」と苛立ち始めた。
すると、キョードー側からは、「ジャニーズ事務所のメリー(喜多川)さんから電話があったみたいで。明菜がそこでやるならウチのタレントは使わせないと言っている」と説明があったという。
「それを聞いた私も耳を疑いました。自殺未遂から10年が経とうとしているのにそんなことがあるのかな、と。明菜さんも急な変更に苛立っていましたが、キョードーの説明を伝えるとひと言、『ああ、私嫌われているからな』。それで終わりでした」(同前)
このツアーは、収支も黒字となり、まずまずの成果を残したが、看過できない問題がいくつも持ち上がっていた。ツアーに先立ち、大手資本の音楽事業会社から、「費用は全額こちらで持つので、ツアー映像を撮らせて欲しい」とオファーがあり、マネジメントの責任者として江田にも話が伝えられた。
先方から「明日までに答えが欲しい」と迫られ、江田も「分かった」と答えていたものの、翌日、江田の電話は一向に繋がらなかった。そして、この契約はご破算となった。すべては杜撰なマネジメント体制に起因するが、そのルーズな体質は、さらに深刻な問題を引き起こした。
「明菜の事務所と提携していた『インディジャパン』が、ディナーショーなどの興行権を二重に売っていたのです。当初は、芸能界の重鎮が役員を務める興行会社と契約していたのに、契約を1年残して別の演歌系の興行会社と契約。当然クレームが入ったのですが、事情がよく分かっていない江田さんは『二重契約ではない』と言うばかり。結局、数千万円の契約金を巡って大揉めに揉めました」(元インディジャパン関係者)
いずれも明菜の与り知らないところで起こったトラブルだったが、彼女を支えるチームの歯車は、確実にズレ始めていた。この頃から「明菜がホテルで暴れて調度品を壊し、出入り禁止になった」といった奇行の風聞が囁かれるようになる。
「業界に置いてはいけない」
彼女の怒りの矛先は、唯一甘えられる“身内”の江田に向けられた。「私は一度、江田さんが明菜にラーメンを掛けられているのを見たことがあります。それでも江田さんは逆上することなく、彼女を宥め、守っているような印象があった」(同前)
明菜に手を焼いた江田は、外部から新たに幅広い人脈を持つ男を招聘した。NAPCの顧問となった男は、人脈を駆使して仕事をとり、現場にもまめに顔を出したが、その実体は山口組の元組員だった。
「本人も元組員であることを隠そうとしなかった。明菜の仕事を手掛けることで、芸能界で一発勝負を賭けようとしたんでしょう。ある時、彼がとって来た仕事を明菜がすっぽかした。すると、彼は江田さんをボコボコに殴り、江田さんの目の周りは真っ黒になっていました」(同前)
もはや瓦解は時間の問題だった。
年が明け、99年2月、明菜はドラマ「ボーダー 犯罪心理捜査ファイル」(日本テレビ系)に出演。しかし、番組は最終回を待たず、途中で打ち切りとなった。表向きの理由は、明菜の骨折とインフルエンザだったが、それはカムフラージュに過ぎなかった。
「明菜が朝方まで飲み明かしては、酔っぱらって現場入りし、撮影もいつものマイペース。それで共演者のスケジュール確保が難しくなったなどと言われました。ただ、撮影が夜中の2時、3時まで続き、帰宅した後に眠れなくてお酒を飲む。そしてまた早朝から撮影という悪循環で、とくに彼女が常軌を逸した行動をしていた印象はありません。制作者側から『病気を理由に引いて欲しい』と言われて降りただけで、批判を受けても『私は悪くない』というのは、彼女にとっての正論なのです」(前出・当時を知る元マネージャー)
番組降板で、芸能メディアは挙って明菜の奇行癖を書きたて、その旗振り役を山口組の元組員が担った。そして99年11月、所属レコード会社、ガウスの社長は記者会見を開き、明菜のわがままを糾弾したうえで、「(明菜は)業界に置いてはいけないアーチストだ」と引退を勧告し、最後通牒を突き付けたのだ。
明菜はまた、すべてを失った。
こうして暗黒の90年代が終わりを告げようとしていた。
彼女の元マネージャーは、今でも忘れられない光景がある。
それは、明菜に頼まれ、自宅に引っ越しの整理に行った時のことだ。
「そこには近藤真彦と一緒に買った黒い家具があって、『縁起が悪いから茶色に塗って』と言われましたが、そのことよりも、台所の引き出しでみつけた夥しい数のフォークやナイフ、スプーンに驚きました。フォークだけで約80本出てきました。ふと、彼女がホテルでルームサービスを頼んだ時、フォークやナイフを持ち帰ろうとしていた場面を思い出しました。スタッフに一声掛けるのですが、ツアーを回ると彼女の鞄がみるみる膨らんでくる。その中身はナイフやフォークでした」
マネージャーが明菜に問い質すと、「家に持ち帰っても使わないんだけどね」と笑うだけだったという。
幼い頃、裕福ではない家庭に育った明菜にとって、自分と家族、それぞれが専用の煌びやかな食器類を持つことは憧れだったのかもしれない。心の奥底で、本当は近しい人たちと食卓を囲むような“温かなもの”を求めているのではないか。不器用ゆえの潜在意識が、そこに現れているように思えて仕方がない。
2000年代に入ると、明菜の仕事のペースはスローダウンし、演歌やムード歌謡、フォークソングなどのカバーアルバムを次々と発売。歌い手としての力量を見せつけたが、往時の人気が戻ることはなかった。彼女はNAPCの後の、新しい事務所の社長兼マネージャーが与えてくれた“隠れ場所”に籠り、今も息を潜めている。
加藤登紀子が明菜を語る
87年にリリースした名曲「難破船」は冒頭、溜を作って、“たかが恋なんて”と畳み掛けていく、アウフタクト(弱起)で始まる。メロディー先行で作られた曲で、サビまで完成したところで、出だしの歌詞が浮かばなかった。そこにアウフタクトのアイデアが浮かぶと、音符が躍動を始め、一気に詞が完成したという。
歌手の加藤登紀子が作詞作曲し、元々は彼女がステージで唄っていた作品だ。加藤が語る。
「『難破船』は、絶対に別れないと誓っていた私の20歳の恋の終わり、23歳の頃を唄った曲です。作ったのは40歳を過ぎ、愛から遠ざかる自分を切なく感じていた頃でした。偶然、明菜さんがテレビで22歳の誕生日を祝ってもらう場面をみて、『誕生日の何が嬉しいの』というような不貞腐れた表情に、失恋のイメージが重なった。40代で過去を俯瞰している私ではなく、まさに恋愛の真っ只中にいる彼女にこそ唄って欲しいと思ったんです」
加藤登紀子氏
長い沈黙の意味は
歌番組で時々一緒になる明菜は、誰もいないスタジオの壁際にポツンと佇み、そのシルエットが加藤の心を捉えてもいた。加藤は明菜に、「もしよかったらカバーしてください」と「難破船」を吹き込んだカセットテープを手渡した。
「その数日後、地方での私のコンサートに彼女から花が届きました。言葉は一切交わさなかったけれど、それが彼女の返事であり、やり方なんだと思いました」(同前)
そのカバー曲は神懸った迫力を備え、聴く者の心を激しく揺さぶった。明菜も節目節目で、この曲を唄い、時には涙を流して、曲の世界を一層引き立てた。
「『難破船』から十数年後に、私のマネージャーだった人が明菜さんの仕事に関わっていた縁で、2曲ほど彼女に曲を作ったことがあります。彼女からは『ゼロ』というタイトルにできますかと返事を貰ったのですが、結局、実現はせず、音源も今は残っていません」(同前)
実は、明菜は02年、デビュー20周年記念で、「ZERO album~歌姫2」と題したカバーアルバムをリリースしている。ジャケットはCG処理された彼女のスキンヘッド姿で、まさにゼロからの出発を期したコンセプトになっている。加藤が書いた「ゼロ」を、もし彼女がこの時に唄っていたなら、そこから新たな伝説が始まっていただろうか。
中森明菜が表舞台から姿を消して約4年。長い沈黙は、彼女が才能を開花させた80年代への郷愁をいやが上にも誘う。80年代の芸能界は、元日に発表された沢田研二の「TOKIO」で幕を開けた。それまでジュリーの作詞を手掛けてきたベテランの阿久悠ではなく、コピーライターの糸井重里が作詞を担当し、新たな時代が始まったことを印象付けた。同じくコピーライター出身である売野雅勇は明菜の初期のヒット曲で作詞家として名を売った。
隆盛を極める音楽業界には才能溢れる人材が集結し、時代の必然としてアイドル文化と良質なシティポップが生まれた。そのど真ん中を、全力で駆け抜けた。それが、中森明菜だった。(了/文中敬称略)
(写真=iStock.com)
文藝春秋2021年12月号|短期集中連載最終回「消えた歌姫とバブルの時代」(4)
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