今村翔吾(直木賞作家)戦国武将のハイブリッド戦争
幸村とゼレンスキー大統領の「イメージ戦略」。/今村翔吾(作家)
今村さん
「戦争は人」
——作家として数々の戦を描いてこられた今村さんですが、いま現実に起きているロシアとウクライナの戦争をどうご覧になっていますか。
今村 まず、「戦争をしているのはやっぱり人なんだ」と改めて感じました。というのも正直、侵攻が始まった2月24日の時点では、3、4日で終わるだろうと思っていたんです。圧倒的な軍事力の差や国力差があることは明白だったので「戦争を続ける」という選択肢はないだろう、と。でも、それは人間の思いをないがしろにした安直な予想だったと思います。
ウクライナの人々の、故郷やそこに住む家族、友だち、恋人を思う気持ちはとんでもなく強い。「国」というものへの価値観が日本人とは全然違いました。僕はそれを「祖国への愛」と呼んでしまいますが、その熱情はとても侮れるものではなかった。愛国心という情緒的な話ではなく、その思いゆえの最後の粘りや一歩踏み出す力というものが、現代においても、ここまで戦局に影響するのかと本当に驚きました。
——「祖国への愛」は戦略や兵器とは全く別次元のものですね。
今村 逆に言えば、兵力が足りていても、その思いがなければ、ここまでの事態には至っていなかったでしょう。歴史小説や戦記ものにおいては「士気」と呼ばれるものですね。「士気が失われて、総崩れになった」とかいう話が出てくるわけです。3万の項羽軍が60万近い劉邦軍に突撃してメッタメタに壊滅させたりするのを読んで、「そんなんなる?」とかって思っていたんですけれども、今回のウクライナを見て、「国を守ろう」とか「誰かのために戦おう」といった気持ちは、現実に兵力の差を埋められるのかもしれないと思った。つまるところ、やっぱり「戦争は人」なんだなと。
プーチンは人を読み切れなかった
——侵攻が始まってもキーウに残り、各国の議会で演説をするなど精力的に活動するゼレンスキー大統領は、ウクライナ国民からかなり支持を集めているようです。
今村 やはり、戦は「将」次第なのでしょう。一方で、その「将」が鼓舞することで生まれる士気には負の側面もあって、国内にはきっと「降伏してもいいから生き延びたい」と思っている人もいるはずなんです。そのような人々からすれば、いまの国を挙げての徹底抗戦の姿勢にうなずくことはできないと思う。大多数のなかで埋もれているそんな声もあるということは、常に考えておかなければいけません。
ゼレンスキー大統領
——プーチン大統領は、徹底抗戦の構えを見せるウクライナ側をどのように見ているのでしょう。
今村 相当焦っているでしょうね。簡単に勝ちを収められると思っていたら、想定外の抵抗にあっているわけですから。ウクライナの人々の士気を侮っていた結果だと思います。「戦争は人だ」というところを読み切れていませんでした。
——世界中が「起こり得ない」と思っていた戦争が現実には起きたわけで、その点、世界もプーチンを読み切れていなかった。人の行動は理屈だけでは割り切れないということでもあると思います。やはり、戦争はなくならないのでしょうか。
今村 語弊があるかもしれませんが、僕は、戦争はなくならないと思います。ひとたび「争う」ということを覚えてしまった以上、人間はそれをやめられない。戦いというものは、「知る」「知らない」の2択の世界だと思うんです。1度、「1」になってしまえば、決して「0」には戻らない。ただ、それを限りなく「0」に近づけるために、「10より5、5より1、0.001より0.0001」とより小さく刻んでいく努力をするための戦いもあると思います。絶対に「0」にはならないけれども、それをわかったうえで、「0」を目指し続ける。それが僕らのすべきことなのだと思います。
そもそも戦争自体、決して「良い」「悪い」の二元論で語れるものではないと思います。実際問題、戦争で科学が発展して、その技術を今の僕たちが享受しているという側面もある。戦争の一側面だけを僕は見ていられない。
たとえば(豊臣)秀吉による朝鮮出兵。朝鮮からしてみれば当然、侵略戦争です。が、一方で秀吉からすれば、着々と近づく南蛮勢力に対抗するための拠点が必要だったし、100年以上続く戦争経済をなるべくダメージなく収束させなければならなかった。そういう、やむにやまれぬ事情があったはずで、複合的に考えて、秀吉は出兵を選んだんだと思うんですよね。やらなかったら、また別に死んでいた命がある、という。
それに、いくら秀吉に「戦争はだめだ」と言ったところで、「じゃあどうすればいいんだ。自国民が死んでしまう」となる。これはいまの戦争も同じことだと思います。
だから、なんかこう言うと変なんですけども、そのプーチンの気持ちになってあげるっていう……そこにこそ戦争を終わらせる“秘訣”があると思うんです。
歴史を学び、人間を学ばなあかん
——和平交渉といいますが、あくまで“交渉”なので、相手の思いを知ることが大事になる。
今村 プーチンにはプーチンの正義がある。それは、世界中のほとんど誰とも共有できない正義でしょうが、少なくともプーチンが「正義」と信じる何かがあるわけです。それを見ずして、この戦争を終わらせることはできない。その現実は受け止めなければあかんのかなと思います。そのために、僕らは歴史を学び、人間を学ばなあかんと思うんですね。僕たちは、ロシアやウクライナを語れるほどに知っているのか。そういう問いには1度立ち返らなければなりません。地理的、民族的な歴史や宗教的な側面など、さまざまなものが複雑に絡み合って生まれているこの状況を理解するには、表面的な正義感では太刀打ちできません。
——ただ、恐ろしいのは、ロシアによる核使用の可能性もにわかに浮上してきたことです。今村さんの新刊『幸村を討て』では、徳川軍が大坂城を砲撃し、淀殿を驚かせて和議に持ち込む場面がありました。最終手段としてロシアが核に手を出す危険性については、どうお考えですか。
今村 家康とプーチンを比べるのは適切でないかもしれませんが、史実を見れば、大坂の陣において、たしかに家康は大砲で淀殿を脅かすことで和議に持ち込むことに成功しています。家康にすれば、「撃ったらいける」と、ある程度の確信を持っていたからこその行いだったでしょう。でも、ひとつ間違えれば、あの砲撃によって逆に豊臣側の士気がすこぶる高まっていた可能性もあった。さらにその残虐性に周囲の反応が厳しくなることも考えられますよね。
同様にプーチンが核の使用を決めたとして、果たしてそれでいまのウクライナが降伏するのか。太平洋戦争とは一概に比較できないと思います。核を使えば和平交渉は決裂し、戦争はドロ沼化するかもしれません。国際社会での締め付けもさらに厳しくなるでしょう。そうした可能性をプーチンがどこまで理解しているのか。非常に恐ろしいです。
——核は“究極の兵器”です。今村さんの直木賞受賞作『塞王の楯』では、「絶対に破られない石垣」を造ろうとする穴太衆(石工の集団)と、「どんな城でも落とす砲」を造ろうとする鉄砲職人の戦いが描かれます。「究極の砲を持った人間同士が互いに牽制し合ってその武器を使わなければ、それもまた一つの泰平の形かもしれない」と2人が話すシーンが印象的でした。
今村 究極の武器というのは、使われないからこそのもの。「泰平を生み出すのは、決して使われない砲よ」と語らせていますが、伝家の宝刀は抜いてしまったら、“宝刀”ではなくなります。これまで、「核は持っていても使わない」ということで微妙な軍事バランスの上に成り立ってきた均衡をロシアが壊したとき、ロシアやウクライナだけの問題でなく、世界中の思考や秩序そのものが大きく変わってしまうのではないかと思います。これが使われたのちの世界は、本当に想像もできません。
直木賞受賞会見には人力車で登場
韓国レーダー照射事件のインパクト
——執筆されていたとき、やはり頭には核兵器のことが?
今村 書いていたのはもちろんウクライナ侵攻よりだいぶ前ですが、ありましたね。もともとこれを書こうと思ったきっかけとなったのが、韓国の「レーダー照射事件」でした。
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