“漫才の革命児”マヂカルラブリーが上沼恵美子の次に「どうしても笑わせたい人」
2017年に抹殺されかけた2人は、同じステージで頂点に君臨した——。「しゃべらない漫才」異色のM-1王者の内面に迫る。/文・中村計(ノンフィクションライター)
漫才の革命児
客席から時折「ひぃーっ!」と苦し気に息を吸う音が漏れる。
ステージでは、長髪の男が床の上に背中を付け、激しくのたうち回っていた。
それだけなのに客は呼吸もままならぬほどに笑い転げている。
2020年12月20日、漫才日本一を決めるM-1グランプリの最終決戦。そこに残れるのは、決勝に出場した10組のうち、ファーストラウンドを勝ち抜いた3組のみ。2番目に登場したのは、結成14年目のマヂカルラブリーだった。
2人が披露したのは「つり革」と呼ばれるネタだった。
「負けた気がするから、2度と、つり革つかまらないわ」
そう宣誓し、大きく揺れる電車の中で、つり革につかまらない男を演じるのは、アヤシイ雰囲気を漂わせるボケ役の野田クリスタル(34)。
その横で「耐えれてないけど」「こんなに揺れる路線、見たことない」「もういいからつり革つかめ!」と適宜解説を加えるのはピンクのカーディガンとネクタイを身に着けた小太りの男、ツッコミ役の村上(36)だ。
2人はこのネタで、史上最多となる5081組がエントリーした同大会で頂点に立った。賞金1000万円を手にすると同時に、その年の漫才日本一の称号を得た。
ところが、2人を待っていたのは、ネットメディアを中心とする「あれは漫才じゃない」というバッシングだった。
漫才コンテストを標ぼうするM-1の歴史は「しゃべくり漫才」の歴史だった。互いにテンポよくかつバランスよく言葉を掛け合い、ネタの中に一つでも多くのボケを詰め込む。歴代王者は、すべてこの教科書に則ってきた。それが漫才の究極の形であり、M-1で勝つための最短ルートだと考えられてきたからだ。
ところが、野田はネタ中、ほとんどしゃべらない。ほぼ動きのみでボケ続けた。野田は、こうとぼける。
「本番前、のどのチェックしておこうと思って『ヴヴンッ』ってやってる自分がバカらしくなりましたね。お前、しゃべんねえだろ、って」
漫才か否か――。
従来の教科書に沿えばノーだ。だが漫才の教科書は時代に合わせて常に書き換えられ続けてきた。だからこそ、伝統芸能ではなく、今も大衆芸能としてこれだけの支持を得ているのだ。
世間が過敏に反応したのは、彼らが「破壊者」だったからだ。変化とは、結局のところ、スクラップ・アンド・ビルドだ。進化の過程では、ときにスクラップを担う人材が現れる。すなわち、革命だ。
マヂカルラブリーは、漫才の歴史に現れた革命児だった。
野田は優勝直後の会見で、これから吹き荒れるだろう逆風を予期していたかのように、こう胸を張った。
「俺はチャンピオンです。文句は言わせません。(あれは)漫才です!」
横にいた村上も柔らかく同調した。
「あれも漫才ということになりました」
マヂカルラブリー
野田クリスタル(左)と村上(右)
「死人」になりかけた2017年
〈恥かかせたな〉
野田から送信されたラインには、そうとだけ書かれていた。滅多に連絡を寄こさない息子のこのひと言に、さばけた性格であるはずの野田チイの涙腺は一瞬にして崩壊した。
「恥なんてかいてないのに……。そんな風に考えていたんだと思うと」
2人の漫才を「一度もおもしろいと思ったことがない」とあっけらかんと語るチイだが、そのときの話になるとわずかに声を震わせた。
4年前の2017年12月3日、マヂカルラブリーは初めてM-1の決勝の舞台に立った。ところが、そこで2人は抹殺されかけた。
M-1では「死人」が出ることがままある。死人とは、芸人たちの間における隠語で、芸人として致命的なダメージを受けることだ。
M-1は今や平均視聴率20%前後のお化け番組だ。優勝すればスターになれるが、逆にすべれば芸人生命を絶たれかねない。野田が言う。
「準決勝までなら死なないですけど、決勝ですべったら死ねますから」
M-1の決勝の舞台を踏むには1回戦、2回戦、3回戦、準々決勝、準決勝と5度の審査を突破しなければならない(2020年はコロナ感染対策として3回戦をカットした)。
マヂカルラブリーはそれまで3度、準決勝で敗退していた。もともと芸人たちの間では評価が高く、熱烈なファンもいた。ただ、あまりにも個性的な芸風が足かせとなり、なかなか全国的な知名度を得られずにいた。
そんな中、結成11年目にしてようやくチャンスが巡って来た。4度目の挑戦で初ファイナリストとなったマヂカルラブリーは、全10組中、6番目にステージに立った。
「こんなに怒られます?」
M-1の黄金色のスタジオセットは「都内にマンションが買える」ほどの予算をかけているという。その黄金の舞台で2人が選んだのは「野田ミュージカル」というネタだった。怪しげな風貌の野田が、意味不明な言動で所せましと舞台を動き回る。それに対しツッコミ役の村上は、突き放したような口調でその動きの意味を解説していく。
その間、会場には無数の「?」が浮遊していた。奔放なネタに笑いは起きるが、表層的な感は否めなかった。その困惑は、審査員7人の得点によりはっきりと表れた。
「86」「89」「88」「89」「88」「84」「83」。合計「607」。90点台が1人もいなかった。最後まで2人の得点を下回るコンビは現れず、最下位に終わった。
その順位以上にインパクトを残したのは、歯に衣着せぬ物言いが売りの審査員、上沼恵美子との丁々発止のやりとりだった。上沼は高校時代に姉と「海原千里・万里」という漫才コンビでデビューし、天才少女と呼ばれた元漫才師でもある。
上沼恵美子
上沼は審査員の中で最低となる83点を付けた。その理由を問われ、好感度などは気にせず、正直に点数を付けたと吐露。そして、「本気で挑んでるんで」と補足した。
そのコメントに対し、野田がすかさず反応した。
「(こちらも)本気で挑んでるから! 本気でやってるから!」
魂の叫びだった。ところが、反論されたと思ったのか、上沼の表情がにわかに険しさを増す。そして、舌の先を巻きながら言い放った。
「本気でやってるちゅってんねん、こっちも!」
「関西の女帝」の異名を持つ上沼の迫力満点の啖呵に、2人の目に涙が滲む。
その後も上沼から容赦ない罵声が浴びせられた。
「一生懸命やってるのはわかるけど、好みじゃない」
「よう決勝に残ったなと思って」
村上は今でもあのシーンをまともに見返すことができないと言う。
「最初はボケなのか、マジ切れなのか、ちょっとわからなかったんですけど、上沼さんに近い人に言わせるとマジらしいです」
ステージを去るとき、村上が涙目で「こんなに怒られます?」とこぼした姿が印象的だった。
「ほんとそうじゃないですか。笑わそうとしてるのに、なんで……」
高校生でお笑いの世界に
芸人とは、ときにどうしようもなく悲しい存在である。真剣に取り組んでも真剣に見えない。いや、むしろ、そこで真剣に見えたら、芸人としては二流だと言っていい。
実際のところ、野田は高校1年のときから「本気」という表現では足りないくらい、お笑いの世界に己が身を捧げてきた。
野田は2002年、高校1年生のときに『学校へ行こう!』というバラエティー番組の企画「お笑いインターハイ」において、ヤンキーに扮したショートコントで優勝している。現在は肉体改造し隆々とした身体つきをしているが、当時は痩身で、スキンヘッドだった。
だが、そのときに得た自信を15歳の少年は持て余した。母親のチイが当時の息子を思い出す。
「小、中学校までは、明るくて、ものすごく社交的だったんです。ただ、高校生になって、暗い面も見せるようになりましたね。中学からバスケットをやっていたんですけど、それもやめちゃって。思いつめていたのかな、先生に突然、学校なんて行っててもしょうがないんで、吉本の養成所に入りたいんですって相談したり。焦ってる感じがしましたね」
お笑いインターハイの後、野田はネットで相方を見つけ、「役満」というコンビを結成。高校生ながら大人のプロ芸人に混ざって、インディーズと呼ばれる小規模なライブのオーディションを受けるようになる。
当時からの仲間であるモダンタイムスの川崎誠は、8つ年下の野田との出会いをこう回想した。
「ライブハウスのドアを開けた瞬間、目の前に野田がいた。そうしたら、睨み付けてきて。ボウズ頭で、やっすいスーツを着て、ずっとガンたれてました。『俺よりも面白いやつがいるんか?』みたいな。自信があったんでしょうね」
ただ、そんな野田もモダンタイムスのネタを見て、そのおもしろさに態度を一変させる。以降、モダンタイムスを師と仰ぎ、稽古場やアパートに入り浸るようになった。その頃、川崎の相方であるとしみつには忘れられない思い出がある。
「土曜日だったと思うんだけど、野田に『学校は?』って聞いたら、すっげぇ遠い目をして『今日、文化祭なんで。全然、こっちのほうがいいです』みたいな。こいつが文化祭で漫才やったら絶対チヤホヤされるのに、ああ、こいつすげえなと思って。普通の16歳は、土日を潰して、少ない客の前でネタをやることの方が正しいとは思わないでしょう。そっから急に親近感がわいて、初めて飯に誘った記憶があるんですよ」
「地下」で実力を付けた野田
インディーズに出演している無所属の芸人のことを「地下芸人」と呼ぶ。文字通り埋もれているからだ。野田が地下芸人をやっていた頃は、ほぼ毎日のように都内のどこかしらでライブが開催されていたという。
かつてカオポイントという漫才コンビを組み、野田らとしのぎを削っていた構成作家の石橋哲也が話す。
「今と違って、その頃は、お笑いの養成所と言えば、吉本くらいしかなかった。でも入学金と授業料で50万くらいかかる。ただ、入れば吉本の芸人にはなれるので、いわゆる免許に近かった。つまり、公認の自動車教習所に行くか、それとも自分で練習するか。僕らは無免許なのに公道で練習していたようなもん。地下芸人はそういうならず者たちの集まりだったんですよ」
役満はインディーズではそこそこの評判を得たが、相方の都合でわずか2年で解散してしまう。野田は高校卒業後、郵便局で働きながら、ピン芸人として活動するようになる。それまでは本名の野田光を名乗っていたが、それを機に野田クリスタルという芸名に変えた。
野田は男3人兄弟の末っ子で、父と次兄は公務員だった。そんな家風だったため、チイが一度、堅い職業につくようそれとなく諭したことがある。しかし、野田は珍しく声を荒げた。
「それは俺に死ねっていうこと?」
チイが振り返る。
「あの言葉は、強烈でしたね。3人目の子だったので、もう好きにすれば、という感じでした」
ピン芸人となった野田は地下芸人の間では、少しは名の知れた存在だった。白いランニングシャツとブリーフパンツといういで立ちで、意味不明なことをつぶやいたり、絶叫したり。地下ではそれがウケた。
「普通のデブ」だった村上
当時、法政大学のお笑いサークルに所属していた村上は、大学の学園祭で初めて野田の芸を見た。ただ、野田の芸風は学生にはハードルが高過ぎた。村上が思い起こす。
「クソすべってましたね。『ゲド戦記』の音楽を流して、何かひと言、ボソッと言うネタだったと思うんですけど」
ただ、そう言いながらも、村上は唯一無二の存在感にどこか惹かれてもいた。そしてライブで野田を観るようになり、野田の魅力に次第にからめ取られていく。
村上は学生時代、トリオで活動し、「大学お笑い日本一決定戦」で連覇を達成している。大学卒業後はプロになるつもりだったが、教職課程を履修していたため地元愛知県の出身中学で教育実習をし、就職活動もした。ただ、父の鈴木裕滋はこう言う。ちなみに「村上」というのは芸名で、村上の本名は鈴木崇裕だ。
「今思うと、就活はポーズだったんでしょうね。一度、職場のお笑い芸人でいいじゃないかと言ったんです。職場のムードメーカーみたいな存在になればいいじゃないか、と。でも無視されました」
ただ、村上の中に誤算があった。村上とトリオを組んでいた2人がどちらも就職してしまったのだ。最低でも1人はともにプロの道を歩んでくれると思っていたのだが。
そのとき、村上から相談を受けたのがカオポイントの石橋だった。
「忘れもしない、鳥貴族の中野北口店のカウンターでしたね」
低価格が売りの、地下芸人御用達のチェーン居酒屋だった。そこで石橋は村上から「相方を紹介して欲しい」と頼まれる。石橋は冗談半分で野田の名前を挙げた。すると、村上は「僕、大好きなんです」と言った。石橋には意外だった。
「学生時代の村上は親から仕送りをもらっている普通のデブ。キラッと光るものとかは全く感じなかった。なので、アブノーマルな野田を好むようなタイプには見えなかった」
石橋はその場で野田に電話をかけ、要件を簡単に伝えた。すると野田は条件を2つ突き付けてきた。
「絶対に文句を言わないヤツ。俺の邪魔をしないヤツ。この2つでしたね。当時の野田はバキバキに尖っていたので。ただ、村上にはこういうネタをやりたいというのがまったくない。他力本願もいいところ。そういうやつだから野田と奇跡的にマッチングしたんでしょうね」
そうして、野田、村上ともに「お試し期間」のつもりでコンビをスタートさせた。すると、これが隣り合うパズルのピースのようにきれいにはまった。石橋は初めて2人のネタを見た瞬間、「これはスゴイことになる」と直感した。
そのネタは、体を無意味にぶつけてくる野田に対し、村上がひたすら「の~だ~く~ん!」とたしなめるネタだった。同じセリフでも強弱を変え、テンポを変え、ときに「ダメだよ~」とほんの少しだけ言葉を足した。それだけで会場は大爆笑だった。
石橋が解説する。
「野田のハチャメチャな芸って、1人だと限界がある。お客さんがどう反応していいかわかんないんで。でも、村上がいることで、お客さんも『相方が困ってるんだから、困ってる私、正解だよね』って安心して笑えるようになった。村上は本当に文句も言ってないし、邪魔もしていなかった。だって、野田君しか言ってないんですもん」
野田の陰に隠れがちな村上だが、2020年ファイナリストのうちの1組で、古くから2人を知るウエストランドの井口浩之も、村上の重要性を指摘する。
「野田さんの持ち味を殺さないよう突っ込むのは相当難しい。タイミングもそうだけど、言葉選びも、あえて柔らかくしたり、厳しくしたり。あの辺は簡単にはできないですよ」
「もう漫才はできないかも」
マヂカルラブリーの船出は順調そのものだった。結成元年、2007年に出場したM-1で3回戦まで進出し、翌年は準決勝まで駒を進めた。ところが、ここから足踏みをする。翌々年は再び3回戦どまり。結成4年目は2度目の準決勝進出を果たしたが、やはり決勝は逃した。
M-1の歴史は2010年をもって、いったんはその幕を下している。それに代わって始まった賞レース「THE MANZAI」では2人はまったく評価されなかった。新人賞であるM-1は拙くても新しい漫才が求められるが、出場制限のない「THE MANZAI」は何より完成度が求められた。マヂカルラブリーの漫才は破壊的だ。勝ち目があるはずがなかった。
その頃、野田は自分たちの漫才に限界を感じ始めていた。モダンタイムスの川崎のもとに疎遠になっていた野田から突然、電話があったのはそんなときだった。
「唐突に『お笑いを一生やるつもりありますか?』みたいに聞かれて。やるよって答えたら、『俺らも一生やるんで、どんだけ人気がなくなっても80歳までは会議室でもいいからライブしましょうね』と。目標にしていたM-1がなくなって、ドン底の時期だったんでしょうね」
そんな2人に小さな光が差す。2015年にM-1が復活したのだ。マヂカルラブリーの挑戦が再び始まった。しかし、2017年に念願だったM-1決勝まで駒を進めたが、そこで撃沈。2人とも一時は「もう漫才はできないかも……」と激しく落ち込んだ。だが、野田は元来、侍のような男だ。
「ほんとの負け。いつかは決勝の舞台に戻って、そんときは勝たなきゃと思ってましたよ。俺がいちばんおもしろいって信じてるんで」
雪辱を誓った2人は、2018年、2019年と連続で準決勝まで勝ち進むも決勝までは届かない。
「勝った」と思った瞬間
そうして迎えた2020年、マヂカルラブリーは予選から他を圧倒していた。1組だけ起こす笑いの質が明らかに違った。客の腹がよじれている、まさにそんな笑いだった。
同じく決勝まで勝ち進んだアキナの山名文和は、羨望の眼差しでマヂカルラブリーのウケ方を回想する。
「お客さんが、ずーっと笑ってる。(疲れて)笑い終わっても、また、すぐに笑い出す。あんな風にウケたら、幸せやろなと思います」
しかし、そこまで抜けていても戦前、マヂカルラブリーの優勝を予想する記者や芸人は皆無に近かった。
地下芸人として同じく辛酸をなめ続け、2020年、初めてM-1ファイナリストになった錦鯉の長谷川雅紀が、その空気感を分析する。
「東京では昔から、マヂカルラブリーがおもしろいって、さんざん言われてて。でもM-1の決勝には行けない。それで、やっとこじ開けたと思ったら最下位。一般の人には受け入れられないんだなみたいな感じになっていたから」
その恐怖を誰よりも感じていたのは、外でもない、当の本人たちだった。決勝進出を決めたとき、野田はこう語っていた。
「あのときの恐怖が蘇った。決勝がトラウマになっているので。僕らが1番ビビってたと思いますよ。また、あそこに送り出されるのか、と」
村上も決勝進出を決めた瞬間、心拍数が上がるのを感じたという。
「急に心臓の音が聞こえるようになった。どく、どく、どくって」
M-1の出番順は、くじで決まる。2020年決勝は、3年前と同じく、またしても6番だった。
M-1の舞台は独特だ。せり上がりに乗って登場し、真ん中の階段を下りてくる。
ファーストラウンド、そのせり上がりから姿を現した野田は土下座をしていた。3年前の失態の詫び、そんな演出だった。野田は顔を上げた瞬間、「勝った」と思ったという。
「お客さんが、めっちゃ笑ってくれてたんですよ。あ、今年は僕らを受け入れてくれると。最初の雰囲気で、ウケの見積もりは出ますから。ネタに入ったらすごいことになるんじゃないかと思っていましたね」
野田は、漫才の冒頭でさらにこう自己紹介した。
「どうしても笑わせたい人がいる男です」
野田は、上沼に「殺されかけた」コンビというマイナスの物語を逆手に取り、観客の心をつかんだ。
モダンタイムスのとしみつは野田の土下座を見た瞬間、感嘆せざるを得なかったという。
「あれが野田なんですよ。せり上がりからマイクのところまでって、漫才師がいちばんカッコつけたいところ。聖域なんです。でも、あそこでもボケられる。一度、こっぴどく怒られてても、へこたれてない。むしろ、だったらかましてやれ、と。(常識から)はみ出ちゃうところは、昔から、ちっとも変ってない」
上沼「もう芸術や」
好材料は他にもあった。同年3月に開催されたピン芸人日本一を決める「R-1ぐらんぷり」で野田が優勝。「おもしろい」というお墨付きをもらえたことで、世間が野田のキャラクターを許容し始めていた。
マヂカルラブリーは、野田の「見積もり」通り、最初のボケから大爆笑を誘い、そのまま突っ走った。
3年前、苦々しい表情を浮かべていた審査員たちも、このときは心の底から笑っていた。得点も、オール巨人以外は、90点台が並んだ。野田が感慨深げに語る。
「上沼さんの『94』を見たときは、やっと、2017年の呪いが解けたと思いましたね。ただ、本人は3年前のことを覚えていなかったらしいんですけど……」
上沼は講評でマヂカルラブリーのネタについてこう絶賛した。
「あんたらアホやろ。バカバカしさが突き抜けるのはもう芸術や」
1本目のネタでマヂカルラブリーは2位につけた。最終決戦におけるジャッジでは、7人の審査員の投票で最多となる3票を獲得。野田は天井を見上げた後、両ひざに手をつき、肩を震わせた。そして優勝トロフィーを手に、こう叫んだ。
「最下位とっても、優勝することあるんで。あきらめないでください! みなさん!」
最後は「ボケなし」だった。野田が力説する。
「個人がおもしろいと思う芸人なんて、くるんくるん変わるもの。僕らもあんなに叩かれたけど、くるんくるんしたじゃないですか。なので、今回、クソすべったとしても、次はバカウケすることもある」
次に笑わせたいのは……
今もユーチューブ界隈では、マヂカルラブリーが起こした漫才論争で大にぎわいだ。そんな状況に野田はいたって満足げだ。
「激荒れですね。荒れの中の荒れ」
漫才ではないという否定は、野田にとって誉め言葉に等しい。
「『クソイケメン野郎』って言われてるのと同じ。どう反応したらいいんだろう。ぜんぜんイケメンじゃないですよ、って言えばいいのかな」
ならず者の集団の中で揉まれてきた野田に言わせれば「僕らのネタなんて、所詮漫才」だそうだ。
「M-1でやったから驚かれただけで、地下の劇場でやったら何の目新しさもない。漫才を裏切ってみてくださいって言われて、じゃあ、しゃべりません、なんて誰でも思いつくこと。所詮漫才じゃない漫才の一投目みたいなネタですから」
村上の父、鈴木裕滋は最終決戦を観て、マヂカルラブリーのネタで初めて笑ったと言う。
「声を出して笑ってしまいました」
それに対し野田の母、チイは今回も理解不能だったそうだ。
「わたし、あの子たちのやるネタが、笑えないというか、好みじゃないんですよ。つまんないの……って、真顔で見ちゃうんです。あんなんで優勝しちゃっていいんですかね?」
野田はそんな状況にまたもや闘志をかき立てられていた。
「まだ戦いは続きます」
ただ、次に「どうしても笑わせたい人」は上沼以上に手ごわそうだ。
(文中敬称略)
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