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藤原正彦 英国紳士の嗜 古風堂々26

文・藤原正彦(作家・数学者)

我が家に来たクリスマスカードはしばらく応接間の棚に並べて飾ることにしている。アメリカ時代のガールフレンドからのものもいくつか混じるが、ピチピチギャルだった彼女達も今や60代ということで女房も気にしない。埋み火の熱さまでは思いが及ばないようでありがたい。これらカードは春に箱に入れてしまう。先日整理しようと読み返していたら、女房の友達ピーターからのものがあった。ケンブリッジ大出身のこのエレクトロニクス専門家は、毎年家族の消息を写真つきで伝えてくれる。今年は長身の彼より大きくなった一人息子の写真の下に「マシューは大学に入りましたが、コロナのため8週間のうち6週間は家での勉強でした」とあった。思わず笑みがこぼれた。秋学期が8週間と決まっている大学は、ケンブリッジとオックスフォードだけだからだ。息子が名門に入ったことを、顔をほんのり赤らめながら自慢しているピーターの顔が目に浮かんだ。名門パブリックスクールの一つ、ラグビー校からケンブリッジへ進んだ英国紳士ピーターにとって、自慢は是が非でも避けたいのだが、息子のことだけは嬉しすぎてつい遠回しであれ書いてしまったのだ。

30年余り前、私達がケンブリッジで借りた家の家主は近郊に住む麻酔科医ジェレミーだった。築150年ほどの古屋で、不具合が生ずるたびに私は遠慮なく電話で伝えたが、いつも迅速かつ誠実に対処してくれた。裏庭の板塀が壊れても、シャワーが詰まっても、冷たいすきま風が吹きこんでも、ドアの把手が利かなくなっても、大ていは1日以内に駆けつけ七ツ道具を使い直してしまった。ある晩、感謝をこめて彼を我が家(というか彼の家)に招いた。イギリス人はまずい料理に慣れていて、どんなものでも喜んでくれるから気楽だ。この晩も女房のごく普通の餃子に心から感激してくれた。料理を絶讃され気をよくした女房が、食後にレンタルしていたピアノで、ショパンのノクターンとバッハのイタリア協奏曲を弾いた。ジェレミーは大の音楽好きらしく、「目の前で美しい演奏を聴くほど素晴らしいことはこの世にない。今晩のことは一生忘れないだろう」、と女房に感動の面持で語った。誰でも1つくらいは取り柄があるのだ。これを境に彼がプライバシーを語るようになった。彼も両親も離婚したこと。13歳の娘と10歳の息子が、別れた妻の所から隔週ごとに泊まりに来ること。父親はケンブリッジ大学で生化学を研究していたこと。「お父さんは優秀な科学者だったんでしょうね」と私が相槌がわりに言ったら、「そうかも知れない、一応ノーベル賞はもらっているから」「えっ、何、ノーベル賞」「そう、ノーベル化学賞。ピーター・ミッチェルといって1978年にもらったんだ」。それまで彼がそんなことをほのめかしたことは一度もなかった。たまたま私が聞いたから答えただけだった。さすが自慢御法度の英国紳士だ。ただ、私が尋ねた時、彼がとてもうれしそうに頬を紅潮させたのを覚えている。この日以降、ジェレミー一家と家族ぐるみの交際が始まった。ある時彼に、週末のドライブで家族と貴族の壮大な館を見学したことを話した。伯爵家所有の敷地が山手線内より広いので度肝を抜かれたのだった。「18世紀建造の豪壮な宮殿のテラスに立つと、見渡す限り緑で、川が蛇行し、遠くで羊の群が草を食み、森の中を鹿の一団が走っていたんだ。夢のようだった」「館の名は?」「ノーフォークにあるホーカム・ホール」「実はそこ、元妻の実家なんです」。彼はあくまでも英国紳士だった。

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