
小説「観月 KANGETSU」#52 麻生幾
第52話
松葉杖(4)
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「熊坂洋平さん、それからどうなったんか、涼さんから聞いちょん?」
「別に……」
そう答えた七海は、母のその言葉に違和感を抱いた。
なるべくさりげなく聞こうとする努力をしている気がしたからだ。
「前も聞いたけど、ここずっと、涼さんとの仲、どうかしたん?」
冷蔵庫の中をまさぐる貴子は七海を振り向かずに訊いた。
「別に……」
「その”別に”って言葉、止めよっち言うたわよね。何なんそれ──」
「そげなこつより、夕飯までにちいと仕事せなならんけん2階に行っちくるわ」
七海はこの場から逃げ出したかった。
「ちいと待っち、階段上がるの手伝うけん」
貴子は冷蔵庫の扉を慌てて閉めて振り返った。
「1人で大丈夫ちゃ。これから、毎日、自分でやらないけん練習せな」
七海はそう言って松葉杖で立ち上がった。
だが貴子は駆け寄ってきた。
「いい? 昇るときは、両手でしっかりと松葉杖が動かんごつ固定しち、先に左足ぅ段に上がるのちゃ。それから、左足じ支えち松葉杖を上げる」
七海は驚いた表情で貴子を見つめた。
──どうして詳しいん?
その方法は、理学療法士の指導とまったく同じ、というより、母の説明の方が理解し易かった。
「それで、降りる時は、左足で身体を支えち、松葉杖ぅ先に段に下ろす。で、両手でしっかりと松葉杖が動かんごつ固定しち、左足ぅ下ろすん。大事なこたあ、昇る時も、降りる時も、必ず右足を着かんごつ浮かすること。ほいち、階段に引っかからん注意することが肝心ちゃ」
「お母さん、なしそれを?……」
七海が目を丸くして訊いた。
「言わんかったっけ? お父さん、七海がまだヨチヨチ歩きん頃、仕事で転んで、今のあんたんごつ右足を捻挫しち、数日間だけ松葉杖をついちょったん。そん時、医師の方から教わったんちゃ」
「お父さんが仕事中に怪我? どげな仕事ぅしちょった時?」
七海は興味を寄せた。
「なんか、雨でぬかるんや土の上を歩いた時に踏み外しち、ギクってなったやら、そげなようなことぅ言うちょったような……でも、もう忘れたわ」
貴子はそう言って苦笑した。
「お父さんって、県庁に勤めちょったんよね。どげなこつぅしちょったん?」
七海は、父が元気でいた頃も、亡くなってからも、真正面からそのことを母に聞いたことがなかったことを、なぜか今、思い出した。
「なによ、変な子ね。数日前も言うたちゃ。県庁は県庁でも、関連組織……。憶えちょらんの?」
「県庁そのものに勤めちょらんかったん?」
七海は拘った。
「そういうこと」
貴子は大きく頷いてからそう口にした。
「なら……」
七海はそこで言葉を止めた。
実のところ、七海は、父についてほとんど何も知らないのだ、とあらためて思った。
ガンで亡くなったことは知っていたが、仕事のことはもちろん、臨終に付き添ったりした記憶はほとんどない。
ただ今なら家族葬とも言うべき数人の黒い服を着た人たちが歩く空間で、母に抱かれて泣いていた自分の姿は今でも記憶にある。
ただ、父が病気で苦しんでいる姿は憶えていない。
恐らく、母が、父のそんな姿を私に見せないでいてくれた、ということだと理解していた。
だから、父のことをすべて知らなくても不満はなかったし、母の気持ちを大事にして問いただすこともこれまでなかった。
それよりなにより、自分に向けられた父の言葉と優しい表情はたくさん記憶に刻まれている。
それらが今まで、どんな時でも、私を支えてくれたのだ。
父の言葉と笑顔を思い出す度に、私は幾つもの困難をくぐり抜けてこられたのだ──。
「その時、お父さんが使った松葉杖、まだ家にある?」
七海が訊いた。
(続く)
★第53話を読む。
■麻生幾(あそう・いく) 大阪府生れ。作家。1996年、政府の危機管理の欠陥を衝いたノンフィクション『情報、官邸に達せず』を刊行。日本の危機管理をめぐる“真実”を小説で描いている。オウム事件など内外の事件を取材したノンフィクション作品も。主な小説に、『宣戦布告』『ZERO』『ケース・オフィサー』『外事警察』『奪還』など。「宣戦布告」「外事警察」などが、映画化、ドラマ化され反響を呼んだ。ノンフィクション作品に、『極秘捜査-警察・自衛隊の「対オウム事件ファイル」-』『前へ!-東日本大震災と戦った無名戦士たちの記録』などがある。※この連載は、毎週日曜と不定期平日に配信します。
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