司馬遼太郎 京都での新聞記者時代 上村洋行 100周年記念企画「100年の100人」
国民的作家の司馬遼太郎(1923~1996)は、かつて新聞記者だった。義弟で司馬遼太郎記念館館長の上村洋行氏は、司馬の影響を受けて記者になった。/文・上村洋行(司馬遼太郎記念館館長)
産経新聞の記者時代、司馬遼太郎と同じ新聞社でしかも、最初は同じ京都支局に配属された。
京都の東山山麓にある神社に取材に行き、帰ろうとすると、境内を掃除されていた権禰宜の方から「産経さんか。福田はんは元気か」とたずねられた。とっさに名前が浮かばず、支局にいない名前だが、と思いつつ生返事をして辞した。
支局に戻る道すがら、はっと気づいた。本名は福田定一である。そのころ、『竜馬がゆく』『燃えよ剣』『国盗り物語』などが世に出ていた。権禰宜の方はペンネームをご存じなかった。新聞記者として覚えておられたことがなんともうれしく、帰って当人に伝えると苦笑していた。
司馬遼太郎
私の両親は大学に入ったころまでに亡くなった。自立できないままに私の姉と結婚していた司馬遼太郎宅の居候となった。図体の大きい男が転がり込んでくると、義弟といえども迎える側としては違和感を持つものだと思う。ところが、司馬遼太郎はそういう態度、表情は微塵も見せず、ごく自然に迎え入れてくれた。このことは私を勇気づけ、母親との別れを癒やしてくれた。
新聞記者になりたい、と思ったのは司馬遼太郎の一言だった。
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