特別再録「オリンピックの英雄たち」(前編)
東京五輪まであと500日を迎えた1963年の春。それまでのオリンピックで活躍した輝ける英雄たちが、往時を振り返った。
“消えた日本選手”となった金栗四三、パリ会場までの40日近い船旅、陸上での初の金メダル――座談会は実に朝から深夜に及んだ。『文藝春秋』1963年7月号に掲載されたその座談会記事を今回ふたたび皆さんにお目にかける。/聞き手・ 川本信正(スポーツ評論家)&菅沼俊哉(共同通信運動部長)
この記事に登場する人物
遊佐幸平(ゆさこうへい)〈馬術〉
9回大会に出場。以後、監督として参加。
金栗四三(かなくりしそう)〈陸上〉
日本マラソン界の父。箱根駅伝の創設に尽力する。
熊谷一弥(くまがいいちや)〈テニス〉
日本としてのメダル1号。左利きの世界的名手。
高石勝男(たかいしかつお)〈水泳〉
東京五輪水泳代表総監督。日本クロール泳法の父。
鶴田義行(つるたよしゆき)〈水泳〉
9回、10回大会で200m平泳ぎ連続優勝。
南部忠平(なんぶちゅうへい)〈陸上〉
10回大会3段跳優勝。短距離、跳躍の万能選手。
織田幹雄(おだみきお)〈陸上〉
9回大会で3段跳優勝。「世界人と成るべし」と遺す。
清川正二(きよかわまさじ)〈水泳〉
10回大会100m背泳の優勝者。商社・兼松に入社した。
村社講平(むらこそこうへい)〈陸上〉
11回大会5000m、10000m4位。
竹中正一郎(たけなかしょういちろう)〈陸上〉
10回大会5000m、10000m出場。
田島直人(たじまなおと)〈陸上〉
11回大会の3段跳優勝。妻も五輪陸上選手。
兵藤秀子(ひょうどうひでこ)〈水泳〉
11回大会200m平泳ぎ、女性初の金メダリスト。
遊佐正憲(ゆさまさのり)〈水泳〉
10回大会800mリレー、11回大会800mリレー優勝。
葉室鐵夫(はむろてつお)〈水泳〉
11回大会200m平泳ぎ優勝。戦後は毎日新聞社に。筆も早かった。
小池禮三(こいけれいぞう)〈水泳〉
10回、11回大会200m平泳ぎ、それぞれ2位、3位。
石井庄八(いしいしょうはち)〈レスリング〉
15回大会バンタム級優勝。この大会唯一の金メダル。
古橋廣之進(ふるはしひろのしん)〈水泳〉
敗戦の暗さを吹き飛ばした、フジヤマの飛魚。
笹原正三(ささはらしょうぞう)〈レスリング〉
16回大会フェザー級、股裂きの必殺技で優勝。
吉野トヨ子(よしの こ)〈陸上〉
15回大会円盤投げで4位。
小野喬(おのたかし)〈体操〉
4大会で金メダル5つ。「鬼に金棒、小野に鉄棒」。
河西三省(かさいみつ み)〈アナウンサー〉
11回大会で「前畑ガンバレ」の名文句を残した。
第5回・1912年ストックホルム
日本選手がはじめてオリンピックに参加したのは、ストックホルム大会からであった。1912年というから今から50年前。嘉納治五郎、大森兵蔵の役員と、選手として三島弥彦、金栗四三の2人が参加した。
菅沼 大会前年の明治44年11月に羽田競技場で、予選があったそうですが、あれはマラソンを始めて何回目だったのですか。
金栗 初めてです。私ばかりでなく、日本で初めてでした。大体、あれに私が参加したのだって、人間が10里も走れるかどうかやってみようということでしたよ(笑)。今みたいにマイルとかキロは言わんです。10里マラソンというわけで……。だから今になって、私が25マイルのマラソンでオリンピック記録を27分も破った、なんて記録に書かれているのをみると、赤面するのですよ。
熊谷 そうでしょうね。第一、オリンピックという名前は聞いていたけれども、記録なんて知らないころですものな。何をはいて走ったのですか。
無欲恬淡で走った
金栗 普通の足袋だったのです。ところが途中で破れましてね。いまの羽田飛行場のどこに当るのかわかりませんでしたが、あの時分に穴森稲荷がありましてね、その附近で足袋がバタバタするので、ああ破れているなッて、何里走ったころか地理もわからない。いっぺんも前に走ったことはないンですから(笑)。とにかく家も目印しもないから、さっぱりわかりません。3分の2くらいは、ハダシで走りました。砂利道もあれば、泥道もある。その上スタート前から小雨が降ってまして……今みたいに途中に食い物や水がおいてあるわけでなし……。おまけに両足のかかとに血豆をつくりまして、それがチクチク痛みまして、何か刺さったのかと立止って、みてみると何もない。それでまた走り出すのです。とにかく完走できればいいと思っていましたが、やがて視界をさえぎるものがないから、ずっと先の方に、競技場の日の丸がひらひらしているのが見えてきました。その辺まで走ってきましたら、同じ学校(高等師範学校。現在の筑波大学)の部員が雨に濡れながら立っておって、「もう1人前に佐々木君がおるぞ。お前が2番目だ、ガンバレ」
佐々木君という人は北海道水産の人で、当時日本一早いということでした。それでこの人の後にくっついていってやれ、という希望をおこして、猛烈に頑張った。それでやっと追いついた。佐々木君は驚いたらしいですね、ずっと相手がなかったのに、急に私が出てきたので、すっかり慌てたようでした。とうとう佐々木君はくたびれてやめてしまった。あとで聞いたら、のどがやたらに渇いて、水はないし、田圃におりて水を飲んだので遅れたということだった(笑)。私はあの時ぐらい無欲恬淡で走りぬいたことはない。あれが初めてで終りかも知れませんね。
菅沼 それでオリンピックに行くということは何日後にきまったのですか。
金栗 翌年の3月の卒業試験のころまで何も話がありませんでした。いきなり嘉納さん(当時の日本体育協会長、オリンピック委員、高等師範学校長)によばれて、日本では初めてではあるが、この機会をのがしてはいかんから参加する、と申し渡されたのです。おどろきました。オリンピックなど気にもかけていなかったから、11月の競走をおえてからあまり練習をしていなかった。そこでよしきたということで、さっそく脂抜きをはじめました。
古橋 脂抜き? どういうことですか。特別な練習なのですか。
金栗 シャツをうんときてその上に外套をきて長距離走るのです。それを当時高等師範では脂抜きといって、春秋2回の全校マラソン大会の前などにやっておった。こいつは体が実に軽くなる。いま考えれば、よっぽど頭のいい人が考えたことだと思いますね。
熊谷 いまのむし風呂だったら筋肉の鍛錬にはならんでしょう、脂肪はとれてもね。片方は練習してやるのですから、トルコ風呂よりいいでしょう(笑)。
川本 それでいよいよストックホルムに出発されるわけですが、制服は作っていったのですか。
シベリア鉄道17日
金栗 はい、自費で作りました。やれ頭の毛をのばせ、やれフロックコートと燕尾服を作れのと、いろいろ忙しかった。学生でしょう、髪をのばすだけでもはずかしいのに、向うでは宴会などに招待されるとシルクハットに手袋をはめて、それから靴なんかもなめしの靴なんです。これは照れました。
清川 全部自費なんですか。
金栗 体育協会に金がなかったので、全部そうなんです。それから向うでのお小遣いも自費で、私は1500円をポンドに代えてもっていった。10円が1ポンドで、2ドルが1円のころでしたね。
熊谷 シベリア鉄道で行かれたんですね。何日ぐらいかかりましたか。
金栗 新橋を出たのが5月15日で、敦賀へ出て船に乗って、それからシベリア鉄道でした。それで向うに着いたのが6月2日でしたから、17日ばかりですか。
葉室 僕らがベルリン大会(第11回大会、昭和11年)にいったときは、2週間でした。大変な旅行でした。日が暮れるのが夜11時で、夜が明けるのが1時、それで時間がわからなくなるのです。ただ時差の関係で、1日が25時間ぐらいあるものだから、睡眠不足にはならないのですけど。だれの時計もみんなあてにならない(笑)。
金栗 罐詰を2週間分も買いこんで、そしてアルコールランプをもっていって、コーヒーかなんか作って、そして牛乳なんかもシベリアの百姓なんかから罐詰と交換しいしい飲んだんですが、そんな風に自炊でした。
兵藤 大会のとき、やはり足袋で走られたということでしたが、何足ぐらいもっていかれたのですか。
金栗 破れてはいかんというので10足もってゆきました。それも底にラシャ地を縫いつけたりして3重底にしまして……ところがコースはもう舗装してあったので、すぐ破れてしまう。だんだん心細くなって電報を打って日本からとり寄せたりしました。
消えた日本選手
村社 そのころの外国の選手は何をはいていましたか。
金栗 靴でしたね。普通のうすい皮靴のもありましたし、いまのテニス靴のようなのもあった。ところが、私の足袋がだんぜん注目されましてね(笑)。外国選手がはこうとするけど、うまくはけない。私があの時マラソンで勝っていれば、これは面白かったんですけれど……(笑)。
南部 日本の足袋世界を征すといったことになったのに、残念でしたね(笑)。
川本 いよいよレースですが、随分暑かったそうですね。
金栗 6月2日に着いたときは寒かったのに7月に入ったら急に暑くなった。連日快晴で、雨がちっとも降らない。レース当日の暑さは実に大変なものでしたよ。それでバタバタ倒れるものがでて、半分以上の選手が落伍してしまいました。私も30キロ前後のところで倒れてしまった。もう何もかもわからなくなって……。
村社 私も初陣で倒れたことがあります。大正14年でしたが、2周半(約1000メートル)で目がくらんで倒れてしまった。意識はたしかで、倒れながら走っている選手をぼんやり眺めているのです。あんなに恥しい思いをしたことはなかったですよ。
金栗 私のときも意識はありました。それで動けない。参りましたね、こう、スウェーデンの青い、底のぬけてるような空をみながら、私の側を外国選手が走ってゆくのを意識するのは、たまらないことでした。が、どうにも動けない。
すると、附近の民家の人が出てきましてね、抱きあげて家の中に運んで、水をのませたりして介抱してくれるのです。これは私ばかりではないのですが、あんまり倒れるのが多くて収容車が間に合わない。このとき、ポルトガルの選手が死んだんですが、これは倒れたところが悪くて民家もなければ、見物もいないので、手遅れになったのです。
私は幸運でしたが、あとがいけないのです。この家の人が後から収容車がくると知っていればよかったのに、あいにく知らないから、私は行方不明になってしまったのです。
織田 それが“消えた日本選手”のいわれなのですね。
金栗 そうなのです。あとで考えましたね、倒れたのは暑さのせいだ。それに、スタートで、外国選手がどんな走り方をするか知らなかったので、ゆっくり走り出したら、たちまち遅れて競技場を出るときビリなんです。実に恥しかったので、あわててスピードを出してペースを乱してしまった。これもいけなかった。要するにスピードと、暑さに負けない耐久力、この2つが必要なのだ、と大いに学ぶところがありましたよ。
南部 なんだ、戦後日本で盛んにいわれだしたことを、金栗さんは50年前に気付いておられたんですね。進歩しねえな、われわれは。
河西 金栗さんは三島選手のレースをごらんになりましたか。
金栗 大いに応援しましたよ。大会第1日の100メートル予選は、体の大きいのばかりが出とるですものね(笑)。三島さんは明治時代では一番大男の5尺8寸もありましたのに、それが実に小さくみえる。しかも走り方もスタートから実に遅い。遅くて小さくて、これはがっかりしましたね。
明治天皇崩御
小野 写真でみると髭をはやしておられたようですが。
遊佐(幸) そう、立派なものでしたね。
金栗 もう1つ、ストックホルム大会で、私が忘れられないのは、明治天皇崩御の知らせでした。私たちにとって、明治天皇は神様以上の方でしたから、亡くなられたという知らせには、本当にがっくりしました。丁度、レースも終ってヨーロッパを見物しているときで、フランスからイギリスへ渡ろうとしていたドーバー海峡の船の中でした。外国人の読んでいるタイムスをのぞいたら、黒枠のお写真がでている。本当にハッとしました。そして、この時ほど負けたことが残念なことはありませんでした。
遊佐(幸) わかります。実によくわかりますな。そりゃ残念でしたでしょうね。
次の第6回大会は、1916年ベルリンで開かれるはずであった。だが1914年、世界は第1次大戦に突入し、大会は休止となった。
金栗 これは実に残念でしたよ。私はスピードと耐久力をモットーに、ベルリン大会をめざして一番暑いときに猛練習していたのですからね。そして大正3年(1914年)大戦がはじまるころ、40キロ2時間19分を割ることができたのですからね。
笹原 では断然優勝候補だったのに、残念なことをしましたね。
金栗 いいえ、次のアントワープ大会のときにも、私は優勝候補のつもりで、勇躍出かけてゆきましたよ。
第7回・1920年アントワープ
アントワープが1920年の第7回大会の会場ときまったのは、前年の3月である。戦争で荒廃した人類にとって、このオリンピックはこよなき心の糧となった。だが、ドイツ、オーストリア、ハンガリー、トルコなどの同盟国は、第2次大戦後の日本とドイツと同じように、戦争責任国として招待されなかった。この大会に日本は15人の選手を派遣した。そして参加2度目にして、テニスの熊谷一弥は僚友柏尾誠一郎と組んで、シングルスとダブルスで2つの銀メダル(2位)を得た。
川本 熊谷さんが軟球から硬球に移られたのは、大正になってからですか。
熊谷 いいえ、丁度ストックホルム大会の年の4月から硬球でやることに、日本のテニス界が決めたのです。いろいろ大変な議論があって、とにかく硬球でゆこうということになった。覚えていますよ、伊藤正徳さん(故人、世界有数の軍事評論家)と、その夜三田の通りを歩いていましてね、彼がいうのです。
「硬球になるのはいいけれど、今まで軟球で相当鳴らした僕たちも、硬球になってしまって、寂しくなるぞ。うまくなるかどうかわからんしね。僕なんかもう卒業だからいいけれど、残るキミを思うと、可哀想で……」なんてね(笑)。
熊谷さんは小さかった
竹中 特別のコーチかなんかいたのですか、変りたてのころは?
熊谷 とんでもない、盲滅法です。それは金栗さんのマラソンと同じですよ。あのころのスポーツは何でも自分で考えてゆくよりしようがない。それで随分工夫しましたし、練習もした。そして、いろいろ打っているうちに、これは軟球式にやってやろう、と決心するようになった。それがよかったんですね。
3月にはじめて、その年の12月に、もうマニラへ遠征して試合をやっているんですから。図々しいですね(笑)。でも、それはもう凄い練習でした。太陽のある間はコートにいて、夜ともなれば、こんどはノートにコートの絵を描いて、相手がこう打って来たときは、こう走って……なんて図上演習です。そして、これは日本の軟球式のセオリー(理論)の方がよっぽどいいや、ということで……(笑)。
小池 熊谷さんは何度もアメリカ遠征をされていると聞いていますが、アントワープの時は日本に帰っておられたのですか。
熊谷 いや、三菱合資の社員としてアメリカにいましてね。何でも嘉納さんから、社長の岩崎さん(小弥太氏。故人)に話があって、社命で行けということでしたよ。それで経費も社費なんです。
金栗 私は日本から船で出かけていったのですが、まずアメリカへ渡ってニューヨークへ行ったら、何でも世界一の選手を熊谷さんが破ったとかで凄い人気でした。当時は日本人排斥の真最中のころで、邦人が大喜びでね、「お前たちも、オリンピックへ行ったら、熊谷のように勝ってくれ」と激励されまして……(笑)。
熊谷 ニューヨークからヨーロッパへ渡るとき、船ではご一緒でしたね。
金栗 そうでした、そうでした。あのときが初対面でした。音にきく熊谷さんとはこんな小さい人かと思いましたよ。
石井 写真でみるとブレザー・コートを着ていられるようなんですが、日本から着ていったのですか。
金栗 いいえ、ニューヨークで買ったのだと記憶しています。
熊谷 私はアントワープへついてから相棒の柏尾君と2人でセーターを買った。いよいよ開会式のとき出ていって、金栗さんたちは何を着ているかな、と心配して見たら、偶然に、私たちが買ったのと非常によく似ていたんですよ(笑)。いや、ホッとしました。格好がついたのでね。
織田 野口源三郎さん(当時の10種競技の選手。後に体協理事)が日本に帰られて、あれを着て競技場に姿を現わしたとき、胸の日の丸が実に素敵だと思いました。
熊谷 あのマークは大会直前に縫ったものでしたね。
織田 私が競技をはじめたのは、実はあの日の丸に憧れたためでしたよ。
遊佐(正) 選手村はできていたのですか。
金栗 戦争後ですから、まだ荒廃してましてね。私たち選手は小学校の教室に寝泊りしていました。板の上に簡易ベッドを置いて。
高石 試合で銀メダルを2つもとられたのですが、表彰式はあったのですか。
熊谷 さて、それが知らないンですね。実は表彰式なんか出ないで帰っちゃったんで。というのも、癪にさわって癪にさわって、いても立ってもいられない。準決勝で南アフリカのナンバー・ワンを大差で破ったでしょう。翌日の決勝は南アの3番目くらいの下手くそなんです。それで私は勝利を確信していた。ところが負けた。もう、口惜しくて、銀メダルなんてくそ喰らえでした。
カネにうらみが数々ござる
南部 これは驚いた。金メダル1号をとりそこなったので、怒って表彰式に出ないで、さっさと帰るなんて。日の丸は、でも、上ったのでしょうね。
熊谷 知りませんが、上らなかったのではないですか。
金栗 たしか国旗掲揚はなかったと思いますが……熊谷さんの試合のとき、私は応援にいったのですよ。私たちも勝つと思っていたのに、最後になって、何だか急に疲れたみたいに崩れたものな。
熊谷 実はいままで黙っていたのですが、喋っちまいましょう。負け惜しみと思われるのが辛いので、人にはいわなかったが、あそこに大きな寺があって、夜中に、ガン、ガンと鐘を鳴らすのですよ。1時間おきに、うとうととするとガン、ガンとくる。それで完全に寝不足になっちゃった(笑)。
金栗 おや、熊谷さんもですか。実は私も今まで黙っていたのですが(笑)、同じ鐘の音で参りました。あのころ私は調子がよくてね、それに涼しいし、こんどはやれると思っていたのですが、宿舎のそばに教会があって、こいつが1時間おきにガーン、ガーン。
熊谷 なんでも、大戦中に戦死したオリンピック選手に捧げる哀悼の鐘だったそうですが、何も夜中じゅう鳴らさなくてもいい(笑)。
田島 いやはやうらみの鐘だな。カネにうらみは数々ござる。
熊谷 それに作戦上の失敗もあったのです。途中で疲れてきたことがわかったので、柏尾君に「二兎を追って両方とり逃すと大変だから、ダブルスは棄権しようよ」ともちかけたんです。すると柏尾君は「それじゃ困る」。困るはずです、彼は三井物産から旅費をもらってきている(笑)。そして、「明日のシングルスにはきっと僕は勝つ。そうすると次の日の午前中に僕はキミと当ることになっているから、そのとき僕が棄権するから、キミは半日休めるよ」というのです。よかろう、というのでやることにしたら勝つべきはずの彼が負けちゃった。
清川 それで、連日連戦という強行軍になったのですね。
熊谷 悪いことは重なるもんで、いよいよ決勝となったら、開始と同時に小雨が降りはじめたのです。私は眼鏡をかけているでしょう。眼鏡の玉が雨でくもる。それを拭き拭き戦わなくちゃいけない。これにも参ったな。
でも一所懸命やったのですよ。そして5オールまでいった。こんなへなちょこに5オールとは何事ぞ、こん畜生、というところでしたが、もう体が動かない。寝不足がたたったのです。
金栗 あのときは水泳はいかん、陸上はいかんでしょう。それで全員して応援したものでしたよ。
熊谷 いや、私だって応援しにでかけたな。金栗さんのマラソンのときは、メイン・スタンドで大応援です。かなり高いところに細紐がずっと張られてあって、10キロ、15キロと書いた札がさがっている。そしてそこに、先頭はどこの国の選手が通ったかということで、5位くらいまでの国旗がさげられるので。
クロールでなく抜き手
織田 それは面白い趣向ですね。
熊谷 人の名はわからないが旗がでる。金栗さんが「今年こそはきっとやってみせる」と張り切っていたので、いま出るか、いま出るかと期待してみていたが、10キロ、20キロ、30キロ、まだ出ない、まだ出ない……そしておしまいになっちゃった(笑)。
金栗 それは全く申しわけないことをしましたね。そこが鐘にうらみというわけで、どうにも寝不足でへばっていて、16位でゴール・インしたのがやっとでした。
高石 金栗さん、水泳はごらんになりませんでしたか。斎藤(兼吉氏。当時の選手)さんや内田(正練氏。当時の選手)さんの初出場の活躍ぶりをお聞きしたいな。
金栗 ええ、見ましたよ。プールがなくて、溝みたいなところで競泳してましたね。日本の選手はまだクロールでなく、2段抜き、3段抜きの抜き手で泳いでおって、これじゃ勝てないなと心細かったですよ。
高石 そうでしょうね。日本にクロールが入ってきたのは、アントワープの翌年からでしたからね。
遊佐(正) 高石さんがクロールで泳ぎ出したのは、幾つぐらいの時なのですか。
高石 茨木中学1年の時だったと思いますね。1年生のときというと、アントワープの前年になりますね。……日本全体に広まったのはやはりアントワープの翌年からと考えていいでしょうね。泳ぎはじめて1年間ぐらいで、当時の大学生と競泳して勝てたのだから、当時とすればかなりの記録を出したのだと思いますよ。
川本 じゃ、そろそろパリ大会に移りましょうか。
熊谷 その前にもう一言、このアントワープ大会の後に、金栗さんや野口(前出、源三郎氏)さんなどが全国の中学を廻って、織田さんをはじめ、次代の選手を次々に発見した。それが日本の金メダルへつながっていった。その意味で余りいい成績をあげられなかったが、決して無駄でなかったことを、私は強調したいな。
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