赤坂太郎特別編「清和会7人のバトルロイヤル」
主を失った最大派閥は、どこに漂流するのか――。/文・赤坂太郎
西村康稔が突っ走った
元首相の安倍晋三が暗殺されたことによる「力の空白」は、自民党内の権力構造を大きく変えようとしている。
思い起こせば、1991年5月に安倍晋三の父親である晋太郎が病に倒れた後、三塚博と加藤六月が「三六戦争」と呼ばれる激しい派閥の跡目争いを繰り広げた。この2人に森喜朗、塩川正十郎を加えた4人が「安倍派四天王」として君臨。自分より10歳若い実力者の森を味方につけた三塚が後継の座を奪取した。だが、今回は様相が全く異なる。清和会(安倍派)の後継を狙う有力者の不在が、遠心力を強めているのだ。
安倍死去の直後、まず突っ走ったのは清和会事務総長の西村康稔だった。凶行の翌日、安倍の遺体が東京・富ヶ谷の自宅に戻ると、西村は弔問客の対応を取り仕切った。この日訪れたのは首相の岸田文雄をはじめ、森や小泉純一郎、菅義偉ら首相経験者、現職の自民党三役など。西村は自らの存在をアピールするかのように安倍宅の玄関先から遺体が安置された3階まで彼らを案内するなど動き回った。
西村康稔
派内の不興を買ったのは、彼が独断で決めて配布した文書だった。そこには「弔問はお受け致しません(清和研会員であってもご遠慮ください)」と記されていた。この文書は、派閥が百鬼夜行の混乱状態に陥る遠因となった。経産相の萩生田光一や安倍政権で官房副長官を務めた西村明宏らは「それは筋が通らない」と異議を唱え、安倍宅へ向かった。父晋太郎の仏壇横に安置された棺に眠る遺体のすぐ側に陣取っていたのは、西村康稔だった。後から来た安倍派会長代理の塩谷立と下村博文は、棺の後ろで手を合わせていた。
「事務総長だからという理由は立つが、それにしても動きが露骨だったね」。温厚な性格で他人の悪口を滅多に言わない会長代理の塩谷も思わずこう漏らしたほどだが、西村のスタンドプレーはその後も続く。
カット・所ゆきよし
「世話人会方式」の崩壊
7月11日午後6時、増上寺。安倍の通夜の参列者は2500人にも及び、長蛇の列ができた。祭壇横の会場の出口前には、妻の昭恵、安倍の実兄の寛信夫妻が立ち、その横には車椅子に座った実弟で防衛相の岸信夫夫妻が並び、延々と続く弔問客を最後まで見送った。
耳目を引いたのは会場の外だった。弔問客が遺族に挨拶して会場から外に出るとすぐ横の通路には、安倍派の幹部がずらりと並ぶ。さらに外に出ると、そこには西村が1人で立っていた。
派閥幹部が並ぶ一角は遺族のいる場所と近接するため、弔問客との会話は最低限の挨拶に留めざるを得ない。しかし西村は、弔問客と1対1でゆっくり話ができる場所に陣取っていたのだ。通夜・葬儀の実務を取り仕切る事務総長の立場を利用して自分だけ良いポジションを確保し、派閥を支援する経済人らに自分をアピールする――。他の幹部たちは一様に眉をひそめた。
西村は安倍派の意思決定機関として世話人会方式を画策した。西村に加え、塩谷、下村、官房長官の松野博一、参院安倍派会長の世耕弘成、国対委員長の高木毅、そして萩生田の7人体制である。森にも根回しし、7月15日夕刻にセットした臨時の派閥総会で了承を得ようと動いた。だが、安倍が生前、西村を「落ち着きのない人だね」と評していた通り、性急な動きはすぐに頓挫する。
高木毅
「国葬までは、安倍さんが残した現体制を堅持するのが筋ではないですか。喪中の最中に、なぜ新設の世話人会なのか、説明がつかない。私は反対します」
かつて派閥会長だった三塚博元蔵相の秘書から後継に転じた西村明宏が松野や安倍派最高顧問の衛藤征士郎らに説いて回ると、新たな世話人会メンバーの大半が賛同。安倍政権の最後、西村康稔の後に官房副長官を務めた西村明宏は、温厚篤実な人柄で同じ西村でも康稔とは対照的だ。康稔の自分ファーストな言動は、とりわけ中堅以上の議員には嫌われ「彼だけは担ぎたくない」と公言する議員も少なくない。
その結果、派閥総会はいったん流れ、翌週に「現体制の継続」が了承された。どちらも集団指導体制には違いないが、世話人会方式で主導権を握ろうとした西村康稔の思惑は外れた。安倍の死からわずか1週間前後のこの暗闘は、派の行く末を暗示する派内政局だったのだ。
舞い上がる小物たち
2017年、安倍は父親の命日の5月15日に元晋太郎番記者らが開いた「安倍晋太郎をしのぶ会」に出席。そこで「新たな四天王は誰か」という話題になった際、下村、松野のほかに元防衛相の稲田朋美の名前を挙げていた。直後の派閥の政治資金パーティーでは「昔の記者の人達から名前が出た」と言い訳したが、当選回数の多い下村と松野、女性の稲田の名前を挙げておけば派内からの不満が比較的小さいと、咄嗟に思いついただけだろう。
下村博文
だが、名前を挙げられた3人は舞い上がり、地味な存在の松野ですら、岸田内閣で官房長官に起用されると「松野さんまで『自分も首相候補だ』と本気で考えるようになった」(派閥の中堅議員)という。
後継争いの予兆は2020年春からあった。安倍が首相続投の意欲なしと漏らすようになった途端、「派閥代表として総裁選に立候補したい」と安倍に直訴した議員が3人も出たことはあまり知られていない。
松野博一
その筆頭が稲田だった。安倍の寵愛を受けた稲田だが、防衛相在任時の失言やPKO部隊の「日報」問題で醜態を晒し、失脚。安倍は周辺に「清和会に総裁候補がいないから、育てようと思った。『女性初の首相』の看板も立つと考えたんだが、任に堪えなかったね」と漏らした。
そんな経緯をすっかり忘れた稲田は「本気で次の総裁選に出馬したいんです」と理解を求めた。安倍は「焦らなくていい。次は派として岸田さんを推すことも検討しているからね」と説得したが、稲田は「能力は岸田さんには引けを取らない」と抗弁した。安倍は周辺に「あんな失敗をしたのに、自分のことが分かってない」と呆れ顔で漏らした。
さらに西村康稔、世耕も安倍のもとを訪れ、総裁選出馬の意向を伝えた。だが安倍はこの2人にも自重を促し、「どうしてもと言うならまずは自力で20人の推薦人を集めてみたら」と言って追い返した。
世耕弘成
この3人より早くから安倍側近を自任してきた下村も総裁選立候補に意欲を示してきたが、もちろん派内に待望論は起きていない。それでも空気が読めない下村は、安倍死去からわずか3日後のBS日テレの番組で、内閣改造・党役員人事をにらみ「岸田首相が清和会を軽視するようなことがあれば、清和会が掴んでいる保守層からの支持を失う可能性がある」と、さも安倍派を代表するかのような口ぶりで岸田を牽制してみせた。下村の頓珍漢な感覚に、派内からも嘲笑と批判が交錯する有り様だった。しかも下村を巡っては、安倍銃撃事件のきっかけとなった世界平和統一家庭連合(旧統一教会)の名称変更で、文科相当時の関与が指摘される始末である。
一方、安倍が目を掛けてきたのが経産相の萩生田だ。西村より1期下ながら安倍内閣では西村より前に若手議員の登竜門である内閣官房副長官に起用され、文科相として初入閣したのも経済再生相として入閣した西村と同時だった。森や官房副長官当時の上司で官房長官だった菅、岸田ら年上に可愛がられる「ジジ殺し」。下村や稲田と違い、萩生田だけはトップを目指す考えを決して口にしないところも安倍や森に気に入られていた。安倍は親しい記者らに「萩生田はうちのエースだ」と明言し、岸田内閣発足にあたっては官房長官への起用を希望していた。
萩生田光一
だが、所詮まだ当選6回で、安倍や総裁選出馬に意欲を示してきた下村らに遠慮して派内の若手議員との個別の会食もあまり行ってこなかったことから、派内に強力な支持グループがあるわけではない。
安倍「再々登板」の野望
それにしても、なぜ安倍派にはかくも“小物”しかいないのか。安倍が明確な派閥の後継候補を示さなかったのは、誰を選んでも不満が溜まり、派閥が分裂しかねないという懸念があったからだ。
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