軍事哲学なき日本の悲劇 保阪正康 日本の地下水脈22
「軍事は政治に従属する」。クラウゼヴィッツの大原則を、なぜ日本は理解できなかったのか?。/文・保阪正康(昭和史研究家)、構成:栗原俊雄(毎日新聞記者)
保阪氏
真っ当な「軍事学」
ロシアのウクライナ侵略により、国際情勢は混迷を極めている。
当初はロシアの軍事的制圧が予想された。しかしNATO諸国や他の中立国からの支援を受けたウクライナの抵抗は激しく、世界各国が経済制裁で足並みを揃えたことで、ロシアの思うようには進んでいない。さらにロシア軍による民間人への無差別攻撃や大量殺害が明るみに出るにつれ、国際世論は完全に反ロシア、反プーチンに傾き、国際社会から孤立してしまった。今後、ロシア軍が戦闘で“勝利”したとしても、ウラジーミル・プーチン大統領は政治的には敗北を喫するだろう。
なぜロシアは無謀な戦争を始めてしまったのか。さまざまな報道を総合すると、プーチン大統領が限られた側近たちから上がってくる都合のいい情報をもとに情勢を判断していたことが浮かび上がってくる。
偏った情報をもとに始めた戦争が国を亡ぼすことを、私たちは体験的に知っている。第二次世界大戦時、日本の軍事指導者たちは恣意的な情報分析を積み重ねて戦争に突き進んだ。しかも、「どの時点で戦争をやめるのか」という見通しも持たなかった。その結果、日本は300万人以上の犠牲者を出したのである。
私はこの無残な敗北の背景に、当時の日本には真っ当な「軍事学」がなかったことがあると考えている。
世界のどの国にも、歴史、地政学的条件、隣国との関係、国民性、財政といったものを踏まえた上で、国防の大方針を考える軍事学がある。ここで言う軍事学とは、戦場における作戦や武器の運用のテクニックなど、いわゆる「戦術」のことではない。「どのようにして国を守るのか」「戦争が避けられない事態となった場合、どう対処するのか」という、リアリズムに基づいた根本的な国策の裏付けである。あるいは、「その国固有の軍事哲学」と言うほうがわかりやすいかもしれない。
しかし、近代の日本の歩みをつぶさに検証していくと、日本には日本独自の軍事学がなかったのではないかと考えざるを得ない。
そして今もなお、日本は独自の軍事哲学なき状態が続いているのではないかという気がしてならない。
ではなぜ近代の日本には軍事学が育たなかったのか?――今回はそのことを考えてみたい。
朝鮮半島進出という野望
日本の戦争の歴史を振り返ると、朝鮮半島を版図に収めたいという志向が、地下水脈のように流れていることが見えてくる。そして、その目論見は必ず失敗し、時の政権を瓦解させる引き金となってきた。
古代から中世末にかけて、日本は何度か対外戦争を経験している。4世紀後半、日本(大和王権)は朝鮮半島南部の百済と密接な関係にあったが、660年、唐と新羅の連合軍に百済は滅ぼされてしまった。日本は百済再興を目指して大軍を派兵したが、663年、「白村江の戦い」で同連合軍に大敗し、朝鮮半島進出の野望は挫かれた。日本側は多大な損害を被り、戦後も「防人」を置くなど負担を強いられた。さらに敗戦の余波は内政にも影響を与え、「壬申の乱」へと繋がっていく。
その後、豊臣秀吉は天正15(1587)年、朝鮮に対して日本への朝貢と明に出兵するための先導役を求めた。朝鮮がこれを拒否すると、文禄元(1592)年、16万もの大軍を派兵した。秀吉軍は漢城(ソウル)や平壌を占領し、現在の中朝国境にまで迫った。しかし、次第に戦局は不利となり、秀吉の死去とともに撤兵した。朝鮮への侵略戦争は足かけ7年に及んだが、豊臣政権は出兵した大名に何の恩賞も与えることができなかった。豊臣政権が短命に終わったのはこのためだ。
その後の徳川幕府は、朝鮮半島への進出の野心を封印する。それどころか、キリスト教勢力の伸張と、貿易によって西国の大名が富を蓄えることを恐れた幕府は、外国との交流を制限するようになる。寛永14(1637)年、キリスト教徒らが蜂起した「島原の乱」の後、鎖国が完成した。オランダと中国とは貿易関係は維持したものの、商館は長崎に限った。オランダ人は出島に、中国人も唐人屋敷と呼ばれる区域に居住が限定された。鎖国が可能だったのは、当時の日本社会が政治的にも経済的にも、海外との結びつきがなくても自立しえたからだ。
鎖国にはマイナスのイメージがある。だが、約270年の江戸時代、日本はただの一度も外国と戦争をしなかったこともまた事実である。
「主権線」と「利益線」
その徳川幕府が終焉し、日本は近代帝国主義国家としての道を歩み始める。それとともに、朝鮮半島への進出の野望という地下水脈が、再び地上へ姿を現すようになった。明治6(1873)年には早くも征韓論が台頭し、新政府内での亀裂から西南戦争へと発展した。
明治23年、第3代総理大臣の山縣有朋は第一回帝国議会で行った演説で、国防の概念として「主権線」と「利益線」があると指摘した。主権線とは国境のことであるが、山縣はその外側をぐるりと囲むようにして朝鮮半島を含め、「主権線の安危に、密着の関係ある区域」として利益線を引いてみせた。主権線を守るだけでは国益は保護できない。その外側の利益線を守る必要がある。そのためには陸海の軍備を拡張しなければならない――そう訴えて議員たちに協力を求めたのだ。
「利益線」の概念は、この言葉を使うかどうかは別としても、現代でも通用する。自国の周囲で安全保障上の空白地帯を放置していたら、仮想敵国やその同盟国などが押さえてしまうかもしれない。今回、ロシアがウクライナを侵略したのも、ロシアからみてウクライナが「利益線」に該当し、NATOに奪われるのは自国の安全上避けたいと考えたからだと推察される。当時の日本も、朝鮮半島が利益線の中にあるとして、欧米列強や清(中国)の影響力が朝鮮半島に及ぶことを何としてでも避けたいと考えていた。
列強に伍するには、産業を興し、富を蓄えて兵力を増強すること(富国強兵)が不可欠であった。しかし議会で多数派を占める反政府勢力の立憲自由党や立憲改進党など「民党」は、「民力休養・経費節減」を求め、政府との対立が続いていた。山縣の演説は、その反政府勢力を説得するためのものでもあった。結局、これを受けて自由党の一部が協力に回り、予算は成立した。
山縣有朋
戦術を学んでも「哲学」は学ばず
山縣の演説から4年後の明治27年、日清戦争が勃発し、日本が清に勝利した。開国からわずか40年の新興帝国主義国家である日本が清を撃破したことは、世界に大きな衝撃を与えた。
短期間で日本が軍事大国になりえた最大の理由は、欧米列強から積極的に最新軍備を取り入れ、有能な人材を招聘して軍事教育に当たらせたからである。
政府は当初、フランス式の兵制を導入しようと考え、フランスから教官を招いていた。だが、普仏戦争でプロイセンがフランスに勝利した後、長州出身の軍人である桂太郎らはプロイセン式の兵制導入に転換した。クレメンス・メッケル少佐を招聘し、陸軍大学校での教育を任せた。メッケルは、プロイセンの伝説的な参謀総長でドイツ統一の布石を作ったヘルムート・フォン・モルトケの弟子であり、モルトケの推薦で日本にやって来た。モルトケは『戦争論』で有名なプロイセンの軍事学者カール・フォン・クラウゼヴィッツの信奉者であり、メッケルもその流れを汲んでいた。
メッケルによるプロイセン式の教育は、日本にうまく合致した。プロイセンの軍事学は、いわば「皇帝に直結する参謀の軍事学」であった。これは、天皇に統帥権があるとの建前で軍備を整えていた日本には都合が良かった。メッケルは優れた戦術家であり、近代戦の戦術ノウハウを日本に惜しみなく提供した。メッケルは3年間の日本滞在の後、明治21年にドイツに帰国するが、秋山好古、児玉源太郎など優れた軍人を育て上げた。そうした人材が、のちに日清・日露の両戦争の軍事指導者になる。
しかし、急激な軍の近代化の裏で、大きな歪みも生まれていた。戦術に代表される実用的な技術の吸収ばかりを急ぐあまり、それを支えるべき日本固有の軍事哲学や思想の構築を怠ってしまったのである。日本は江戸時代、長く対外戦争をせず、植民地支配もしていない。各藩としてはともかく、国家としての軍事哲学は無きに等しかった。一方、欧州列強は戦争を繰り返す中で、植民地支配のノウハウを蓄積し、その国固有の軍事哲学を持つに至った。日清戦争の勝利によって、いくら日本が外形的には欧米列強と肩を並べたように見えても、内在する哲学の強靱さという意味においては、日本はポッと出の成り上がり者にすぎなかった。
秋山好古
「軍事は政治に従属する」
軍事哲学といえば、先に述べたクラウゼヴィッツの『戦争論』が有名である。プロイセン王国に生まれたクラウゼヴィッツは、12歳で歩兵連隊に入隊して以来、動乱の欧州を軍人・軍事思想家として過ごした。1806年、プロイセンはナポレオン率いるフランス軍に大敗し、首都ベルリンは占領された。クラウゼヴィッツは捕虜となった(後に解放)。プロイセンは敗戦を糧に軍改革を進め、ナポレオンを破った。こうした経験が、独自の軍事哲学の形成につながったとされる。クラウゼヴィッツは51歳の時、欧州で蔓延していたコレラで死亡したが、著作集10巻が死後刊行された。そのうち第1~3巻が『戦争論』である。
その哲学の中で最も重要なのは「戦争とは、他の手段をもってする政治の継続」であるとの指摘だろう。政治の任務は、国民の生命財産を守り、利益を保持、拡大することだ。戦争のために国民や国家があるわけでもなく、戦争とはあくまで政治の一手段でしかない。政治の手段には外交があるし、経済政策もある。だから軍事は政治に従属しなければならない――という論でもある。この文民統制(シビリアンコントロール)の重要性を指摘した部分は、現代でもまったく古びていない。
もっとも、クラウゼヴィッツの時代は、現代とは状況が大きく違う。当時の欧州の戦争は陸戦が中心であった。また戦場の最前線と非戦闘員との間には距離があり、「銃後」があった。だが20世紀に入ると、第1次世界大戦以降の戦争は科学技術の発達により武器が近代化し、国民生活をも巻き込んだ「国家総力戦」となった。さらに現在のウクライナ侵略を見ると、偽ニュースの拡散などが重要な戦争手段に位置づけられ、市民生活が戦場と化すような事態も生まれている。そうしたことから『戦争論』は時代遅れという指摘もある。しかしクラウゼヴィッツの軍事哲学の真髄は、時代が変わっても通用する。
ただ、歴史を振り返れば、クラウゼヴィッツの哲学とは正反対の事態がしばしば起きている。クラウゼヴィッツは効率的に軍事行動を行うために軍人を入閣させるべきだとした。だが、軍出身者が、逆に政治を軍事に従属させようと企図して失敗した例もある。その代表格が、近代日本の姿かもしれない。
ナポレオン像
丸暗記とゴマスリのエリートたち
本連載で繰り返し指摘してきたように、明治維新後の日本は、軍事優先で近代化を進めてきた。だが、プロイセンから短期間で戦術を学んでも、日本固有の軍事哲学は無いままだった。
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