蓋棺録<他界した偉大な人々>
偉大な業績を残し、世を去った5名の人生を振り返る追悼コラム。
★一龍齋貞水
講談師の六代目一龍齋貞水(いちりゅうさいていすい)(本名・浅野清太郎)は、若いときから講談界のホープとして期待され、講談の隆盛のために奮闘した。
2002(平成14)年、人間国宝に認定されたとき、「ちょっと困った」という。まだ62歳、これからだと考えていた。しかし、「これを機会にもっと挑戦しよう」と気持ちをすぐに切り替える。
1939(昭和14)年、東京の湯島に生まれた。父親は浅野宇晴と名乗る日本画家で、毛織物問屋の長男として生まれたが趣味人として生きていた。花街の「三味線の音が聞こえてくる」家で、父親の影響を受け、幼時から芸事に親しむようになる。
中学生の頃には講談に夢中になり、都立城北高校に入学して間もなく、父が懇意にしていた四代目邑井貞吉のもとに出入りした。ある時、余興で学生服のまま高座に上り『徂徠豆腐』を演じると、もう講談以外は考えられなくなる。
すぐに邑井に入門を願い出るが、「俺は弟子はとらない」と断られ、かわりに五代目一龍齋貞丈に紹介してくれた。貞丈は貞春の名をくれたが、稽古はつけない主義だった。そこで老大家の木偶坊伯鱗や桃川燕雄のもとに通い、その足で本牧亭に回って新しい演目で前座をつとめる。
そんな毎日を続けているうち、「貞春は若いのに誰も知らない演目をやる」との評価が生まれた。60年ころにはライトや音響を加えた「立体怪談」を試み、なかでも『四谷怪談』は「ぞっとする」といわれて評判になった。
66年、真打に昇進すると同時に六代目貞水を名乗る。最初、師匠の貞丈は「まだ若すぎる」と心配したが、「まいいや、貞水になってしまえ」と許可し、盛大な襲名パーティを開いてくれた。
73年、女性講談師天の夕づるの「ポルノ講談」に始まる講談協会の内紛では、独特のスタンスを貫いた。伝統派は「講談組合」を結成し、是認派は「日本講談協会」に結集して対立する。貞水はポルノ講談を認めなかったが、講談師の付き合いは続けた。
75年、『鉢の木』で文化庁芸術祭優秀賞を受賞する。この演目は伯鱗から「自分流に変えない」という条件で受け継いだもので現代語が出てこない。それを見事に演じた貞水への評価は高かった。
人間国宝と認定されてからは、ジャズダンサーとのコラボを企てあっといわせた。またヨーロッパでの講談ツアーを敢行してファンを驚かす。「ヨーロッパ公演は講談の魅力を再発見するいい契機になりました」。
(2020年12月3日没、肺炎、81歳)
★ディエゴ・マラドーナ
アルゼンチンの元サッカー選手ディエゴ・マラドーナは、奇跡的なプレーによって「神の子」と呼ばれた。
1986年、ワールドカップ・メキシコ大会準々決勝でのこと、ゴール前でマラドーナの左手にボールが当たってゴールに入る。審判はマラドーナのハンドが見えずゴールと判定。抗議はあったが、その4分後にはドリブルだけで5人抜きをやって、そのままゴールし勝利をもぎとる。世界中がいっせいにマラドーナを称賛した。
60年、ブエノスアイレスの貧民街で生まれる。父親は貧しい労働者だったが、マラドーナは幼い時からサッカーがずばぬけてうまかった。彼を中心とした少年チームの試合には、遠くから見に来る大人も多かったという。
最初にマラドーナが世界的に記憶されたのは、79年に日本で開催されたワールドユース大会で、アルゼンチンに優勝をもたらした時だった。82年のワールドカップにも出場したが、この時は相手の選手にケリを入れて退場させられている。
その後、イタリアのSSCナポリで大活躍するようになり、ワールドカップでは母国アルゼンチンを86年に優勝させ、90年にも準優勝に導いた。特に86年は、英国にフォークランド戦争で敗北して間もないこともあって、国民にマラドーナへの宗教的崇拝すら生まれた。
しかし、91年、コカインの陽性反応が出てナポリを解雇され、アルゼンチンに帰国すると激しい非難が待っていた。94年にワールドカップのアメリカ大会に参加するが、第二戦が終わった直後、ドーピングテストでエフェドリンが検出されてしまう。その後、97年、37歳の誕生日に現役引退を宣言した。
2008年、アルゼンチン代表のパシーレ監督が辞任したとき、名乗り出て後任に就任する。ワールドカップ・南アフリカ大会の南米予選では、ベネズエラ戦を4対0で勝利して喝采された。しかし、ボリビア戦では高地対策をしなかったため、1対6という惨憺たる敗北で国内の批判を浴びた。2010年夏には監督を解任されている。
以降もいくつかのチームの監督を務めたが、スキャンダル的な話題が先行し、結果を出せなかった。しかし、86年の「5人抜き」について聞かれると、生き生きとした表情で語った。「あれは俺の一番素晴らしいゴールだった。自信と確信をもってゴールに向かったのを今も思い出す」。
(2020年11月25日没、心不全、60歳)
★有馬朗人
元東京大学総長の有馬朗人(ありまあきと)は、原子核物理学で世界的な評価をうけ、俳人としても広く知られ、文部大臣と科学技術庁長官を兼務した。
1988(昭和63)年、新聞記者に「俳句は余技だから楽しいでしょう」と聞かれて、「俳句でもスランプのときは苦しい。本業の物理だって楽しいことは多い。極端にいえば人生だって余技みたいなもの」と答え物議を醸した。
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