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脳梗塞──ミスターが託した日の丸|連載「長嶋茂雄と五輪の真実」#2
短期集中連載「長嶋茂雄と五輪の真実」の第2回。日の丸には、細いサインペンで「3」という数字が記されていた——。/文・鷲田康(ジャーナリスト)
※第1回を読む
緊急入院した長嶋茂雄
2004年3月4日、アテネ五輪野球日本代表監督の長嶋茂雄は東京・大田区田園調布の自宅で倒れ、新宿区河田町にある東京女子医大病院に緊急入院した。
日本代表ヘッドコーチの中畑清がその一報を聞いたのは、知り合いのスポーツ紙記者からの電話だった。
「大変なことが起こりました。長嶋さんが倒れて入院したという速報がテレビで出ています」
中畑は一瞬、何が起こっているのかを理解することができなかった。
「だってオレの知る長嶋さんには、病気というイメージなんか、これっぽっちもなかったからね。まず思ったのが『ウソだろう!』って。それしかなかったよ」
すぐさまテレビをつけた。各局のニュース番組、ワイドショーでは神妙な面持ちでアナウンサーが「長嶋入院」の速報を伝えていた。入院先の東京女子医大病院の周りにはすでにテレビの中継車が繰り出し、画面からは詰めかけた新聞記者やマスコミ関係者で騒然とした雰囲気に包まれる様子が伝えられていた。
「最初は現実をなかなか受け入れられなかった。でもよくよく考えてみると、長嶋さんは代表監督になってから、病気になるような世界でずっとやってきたのは確かだったなと思ったんだ」
中畑の頭にはある出来事が引っかかっていた。
アテネ五輪への出場権を獲得した03年11月のアジア最終予選(アジア野球選手権)。大会後に長嶋が極秘入院をしていたという話を聞いていたからだった。
「やっぱりあの予選で心身ともにかなり疲れ切っていたんだよな。倒れる前の2月には一緒に12球団のキャンプ視察にもいったけど、かなりハードスケジュールだった。長嶋さんも相当疲れていたと思うけど、あの人はかっこつけるんだ。キャンプを回りながら、12球団の関係者や選手に愛想を振り撒いて、元気な素振りを見せ続けていた。でも本当は(疲労を)見せない努力をしていただけで、中身はヘトヘトだったんだと思うよ」
病状は深刻だった。
倒れた翌日の5日には長男の長嶋一茂と治療にあたった東京女子医大脳神経内科教授の内山真一郎が出席して記者会見を行い、病状が説明された。
「意識は保たれているし、話にも応じている。しかし左大脳に脳梗塞の症状がある。中程度の脳梗塞で軽いとはいえないが命に危険が生じる状況ではない」
内山の説明だった。
長嶋茂雄
心原性脳塞栓とは
病名は左心房を原発とする「心原性脳塞栓症」。この会見で一茂は意識を取り戻した長嶋が「(体の)右の部分がどうしちゃったのかな? 何でこうなったんだろう?」などと語っていたことを明らかにした。意識は戻ったが、右半身の麻痺と言語への障害が出ていたのである。
脳梗塞でも心臓にできた血栓が血管を回って脳に飛んで起こる「心原性脳塞栓」は一般的に後遺症が重いと言われている。
その理由を山王病院の脳神経外科部長・高橋浩一はこう語る。
「心原性脳塞栓は血栓が脳の比較的太い血管で梗塞を起こす可能性が高く、広い範囲で虚血になることが多いからです。ほんの小さな血管が詰まった場合は、色々とカバーできることもありますが、心原性の場合は太い血管で詰まることが多く広範囲に影響が出て、後遺症も重くなりやすくなります。長嶋さんの場合は左脳が影響を受け、右利きの方はそこに言語中枢があることが多いので、右半身の麻痺と言語障害が出たのだと考えられます」
8日の球団の会見では「当初の最も危険な状況は脱しつつある」として、翌9日から初歩的なリハビリを開始することを明らかにした。ただ、11日の会見では「一部で報道されているような『驚異的な回復でどんどん良くなっている』というものではない」とメディアの過熱報道に釘を刺す場面もあった。
15日には徐々にではあるが軽いリハビリをスタート。22日には介助を受けながら病室内を初めて歩き、24日には介助なしで自力歩行できるまでになった。
この時点で病状も安定し急性期治療が終わり、次の課題はリハビリへと移っていった。
3月26日、長嶋は東京女子医大病院を退院。一旦、都内の別の病院に転院後、4月12日にはリハビリを専門とする渋谷区内の病院に移り、本格的なリハビリに取り組む生活がスタートした。
倒れてから40日目のことだった。
長嶋の脳梗塞の発症で、アテネ五輪を控える日本代表は、2つの大きな問題を抱えることになった。
一つは長嶋自身の去就問題だ。
倒れた当初から関係者の間では、代表監督は長嶋の復帰を大前提として考えていくことが確認されていた。しかしその一方で脳梗塞で右半身に麻痺があり、しかも言語にも障害が出ているという現実に、「監督続投はムリではないか」という声もあった。
長嶋に中畑も会えなかった
メディアでは03年で阪神監督を退いたばかりの星野仙一や、同じく03年で巨人監督を辞任した原辰徳ら、在野のビッグネームが“後任候補”として紙面を賑わしていた。
しかしアテネ五輪はあくまで長嶋監督で臨むことが関係者に告げられたのは、5月10日、東京・内幸町のコミッショナー事務局で行われたスタッフ会議の席上だった。
会議後の会見で日本代表編成委員会委員長の長船騏郎(日本学生野球協会常務理事)が、正式に五輪は長嶋を監督として臨むことを発表。
「監督はシゲ。コーチは3人」
長船はこう語り、コーチ陣の補充も行わないことを明言した。
入院からちょうど3か月が経過した6月4日には、都内で一茂が報道陣の取材に応じた。席上、一茂は5月半ばには病院を退院し、この時点で自宅療養に切り替わっていることも明らかにしている。
「普通にしていると手の重さで脱臼するので右手を吊っているのですが、どうやってユニフォームを着ようかという話をしている」
一茂は長嶋がアテネ五輪出場への意欲を失っていないと、こう話した。しかし実際にどこまで病状が回復しているのかは長嶋家、その意向を受けた巨人軍と親会社の読売新聞社の鉄のカーテンに閉ざされ、長船にも中畑にも闇の中であった。
長嶋不在となった日本代表の全権を託された中畑には、この間も代表メンバーの最終選考というもう一つの大きな課題が残されていた。
5月10日のスタッフ会議以降、週に1回ペースで選考会議を行い、最終的な24人の代表メンバー選考を進めることになった。従来の方針通りにベースとなるのは、前年のアジア最終予選で代表入りしたメンバー。しかし、五輪期間中もペナントレースが継続されることから、12球団から1チーム2人を選出して、合計24人で構成しなければならない。しかも中畑は、長嶋と連絡を取ることさえできていなかった。
「実はオレはアテネに出発するまで、一度も長嶋さんに会わせてもらえなかったんだ。オレにとって長嶋さんの言葉は、一茂が預ってきたというメッセージがすべてだった」
それでも長嶋の意向を反映した選手選考を進めなければならない。
「2月のキャンプ視察の段階から、ある程度の人選、この選手は入れたいという希望も長嶋さんと話し合っていた。ただ、実際に会うことができないので、直接、意向を聞くことはできなかった。長嶋さんならこう考えるんだろうなと考えながら、メンバー選考も進めていった。本当はアテネに出発するときには直接挨拶をして、『このメンバーで行ってきます』と言いたかったけど、それもできなかった」
中畑清
プロ野球再編問題も勃発
アテネ五輪に向けた長嶋ジャパンの編成が最終段階に入る中、6月13日には、球界を揺るがす大問題が勃発した。突如、近鉄とオリックスの合併が発表され、これにヤクルトの古田敦也を会長とするプロ野球選手会が猛反発。前代未聞の再編問題で球界は激動を迎えることになったのである。
そのため代表選考が大詰めを迎えた6月21日の実行委員会も、混乱の中にあった。7月7日のオーナー会議で両チームの合併を承認予定だったが、手続き上の問題で延期することを決定。一方、再編反対の動きを牽制するように、6月24日には巨人オーナーの渡邉恒雄が新リーグ構想をぶち上げて、球界は混乱の渦に巻き込まれていった。
その中で日本代表24選手の発表は、予定通りに6月25日に行われた。
厳しい制約の中で、投手陣はアジア予選でも先発を務めた巨人・上原浩治、西武・松坂大輔、ダイエー・和田毅の3投手に、新たに近鉄から岩隈久志、横浜から三浦大輔らが加わった。打線もヤクルト・宮本慎也にダイエー・城島健司、巨人の高橋由伸に中日の福留孝介、オリックス・谷佳知らの予選組に、新たに近鉄から中村紀洋らが加わった。
メンバー発表と同時に長嶋がキャプテンにはアジア予選に続き宮本を指名したことが明らかに。またファンに向けては以下のようなメッセージが届けられた。
「本日発表する日本代表選手は、私や各コーチがキャンプ、オープン戦そしてレギュラーシーズンを視察し、幾度もミーティングを重ねて決定に至りました。日本野球界が総力をあげて、この代表チームを支えてくれています。また日本中の野球ファンの熱い思いが高まっていることも、私は十分に承知しています。この選手たちは、責任の重さに負けることなく『FOR THE FLAG』を合言葉に、オリンピックの聖地・アテネの空に日の丸を掲げてくれると信じています。
日本野球界の方々に感謝すると共に、日本中の野球ファンの皆様には、アテネで躍動する野球日本代表チームに、熱い応援をお願いします」
メッセージには「日本野球界が総力をあげて」と記されていた。しかし発表されたメンバーからは、キャンプ視察時点で長嶋が代表入りを熱望していたある選手の名前が消えていたのである。
ベンチの日の丸
五輪名簿に「長嶋監督」
阪神の左腕・井川慶だった。
実は長嶋はキャンプを視察した時に井川にぞっこんに惚れ込んで、対キューバ戦の秘密兵器として和田と共に代表入りさせるプランを抱いていた。知人を通じて本人にも出場の意思を確認。その時点では本人も「ぜひ出場したい」と快諾していた。
しかしその後、正式に球団を通じて代表入りを打診すると、「本人が拒否している」という回答が返ってきたのである。早い段階で、本人から明確な参加意思を確認していただけに、その後にどんな心境の変化があったのかは分からない。あるいはもともと主力選手の出場に難色を示していた球団から、何か圧力があった可能性も否定はできなかった。いずれにしても井川の代表入り拒否は、代表編成作業の中で予想外のものだったことは間違いなかった。
本大会まで1か月と迫った7月20日、日本オリンピック委員会(JOC)は、アテネ五輪の大会組織委員会に日本選手団の名簿を提出。長嶋も野球競技の監督として、正式なオリンピアンとして五輪名簿に登録されることになった。ただ、懸命にリハビリを進めてはいたが、この頃には長嶋がアテネでチームの指揮を執ることは、現実的には困難であることは関係者の間では既成事実となってもいた。あとはどのタイミングで発表するかだけだったのである。
8月1日付の一部スポーツ紙が、長嶋が五輪で指揮を執ることを断念したことを報じた。翌2日には一茂が会見して正式にアテネ行きを断念したことが発表された。7月中旬に担当医からは飛行機移動での気圧の変化と現地での医療体制への不安からドクターストップがかかり、正式にチームに同行してアテネに行くことは断念したと、理由が説明された。
「アテネで指揮を執ることを目標にここまでリハビリを続けてきましたが、信頼する医師によるドクターストップだから受け入れざるを得ません。私自身としても非常に残念だが、仕方ありません」
井川慶
一茂は静かに長嶋からのメッセージを読み上げた。
「ミスターのために死ねる」
このときの心境を宮本はこう振り返っている。
「早い段階から難しいという情報も入っていましたし、予想していました。だから驚きはなかったですね。どちらかというと『ああ、やっぱり……』という感じでした。でも長嶋さんが来ないことが決まって、逆により一層、長嶋さんのためにも金メダルをとって帰ってこなければならない責任というか、使命感みたいなものを持ったのも確かです」
その思いは宮本だけではなかった。
「長嶋さんは雲の上の人で憧れ。予想はしていましたけど、本当にアテネに来られないということを聞いたときは、やはり少し落胆した気持ちになりました。でも、アジア予選を勝った後に、長嶋さんが『伝道師になれ』というお話をされたのを思い出しました。そのためにも日本で待っている長嶋さんのところに金メダルを届けなければならないという思いがより強くなったと思います」
こう語るのはアジア予選から代表チームの一員として支えてきた西武の和田一浩だった。
長嶋の不参加が発表された直後、中畑は長船からこう言われている。
「キミを監督代行とも言えない状況だけど、アテネに行って指揮だけは執ってくれ」
監督はもちろん代行の肩書きもつけられないが、すべての責任は引き受けてくれということだった。
「オレはミスターのために死ねるし、ミスターの日の丸への想いも分かっていた。監督代行の肩書きすらつけられない状況で責任だけをとるとなれば、もうオレしか引き受ける人間はいない。ただ、長嶋ジャパンを守っていくにはこの形しかないだろうなとも思った。正直、オレにできるかどうかは分からなかった。ホントに何の自信もないし、不安だらけのスタートだった」
日の丸に書かれた「3」
8月4日。チームは翌5日に直前合宿地、イタリア・パルマに向かうため千葉・成田市内のホテルに集合。そこに一茂が長嶋から託された幅2mの日章旗を携えてやってきた。
その日のミーティングで、一茂の手から宮本の手へとその日の丸の旗が託された。旗の左上には、長嶋が掲げた「FOR THE FLAG」というチームスローガン。その下には赤文字で「長嶋 JAPAN」と印刷されている。そしてその下には長嶋が麻痺のある右手で認(したた)めた「3」という数字がくっきりと入れられていた。その線は細く揺れている。太いマジックだとペン先が旗の布に引っかかってうまく書けないので、あえてペン先の細いサインペンで書いたものだった。そしてその少し揺れている文字が、長嶋のこの代表チームにかける思いと、そして病の後遺症の大きさを物語るものでもあった。
「あの旗の『3』という文字を見て、すごい感動と同時に大変なことが長嶋さんの身に起こったんだなと改めてショックも受けました」
こう振り返ったのは高橋だった。
一茂は、長嶋の思いを伝えた。
「(指揮断念の)会見では落ち込んだ様子はないと言いましたが、今日、話をしたら寂しそうだった。本人が一番寂しさを感じていると思う。右手が動かない中で、『3』という数字がすべてを表していると思う。魂を込めている。父の言いたいことは分かっていただけると思う」
この旗のために――。
その日の丸を見た瞬間に選手の誰もが思ったことだった。
「これまで何度か国際大会には出てきましたが、正直、これほどまでに日の丸を意識したことはなかったです。これまでは国を背負っている意識もあまり感じたことはなかった。でも予選から長嶋さんが『FOR THE FLAG』というスローガンを掲げて、そしてホテルであの旗を見た瞬間に、改めてこの旗のために、そしてそこにメッセージを込めた長嶋さんのためにという両方の思いが溢れてきました。そういう雰囲気にする。それが長嶋さんなんです」
高橋は迸る思いをこう語った。
夕食会冒頭で、宮本がこう檄を飛ばして選手の気持ちを引き締めた。
「昨日まではペナントレースだったけど、今日からは気持ちを切り替えて日本のため、日本のプロ野球のため、日本球界のため、長嶋監督のため、一丸となって金メダルを取って帰りましょう」
全員が力強い拍手と歓声で、このキャプテンの呼び掛けに答え、この夕食会は即席の出陣式となっていた。
8月5日、成田空港へ向かうバスに乗り込もうとしていた中畑の元に、宮本が歩み寄ってきた。
「中畑さん、大変なことを引き受けましたね。これからはもっと大変だと思いますけど、この苦労を共に分かち合っていきましょう」
中畑は「ありがとうな。お前が(キャプテンを)やってくれなかったら、何もできないんだからな」と答えて、宮本の手を握った。
「あのやりとりは忘れられないよ。コーチにも感謝しているけど、あの言葉はアテネに向かうオレにとっては最高の励ましだったし、ずっと財産になった言葉だった。(宮本)慎也がああ言ってくれたことで、現場の仲間がみんな同じ方向を見て、一つになっていることを確信できた。このチームなら勝てるんじゃないかと思って日本を出発できた」
木村拓也が流した涙
一行は成田から約12時間のフライトで経由地のミラノに到着。そこからバスで直前キャンプ地のパルマに入ったのは現地時間8月5日(日本時間同6日)の午後だった。
時差ボケ解消のため翌6日の練習は、午後4時から報道陣には非公開でサインプレーの確認などを行った。
軽く体をほぐす程度の予定だったが、そこでアクシデントが起きた。
木村拓也が左太もも裏の肉離れを起こしたのである。
1990年のドラフト外で日本ハムに捕手として入団した木村は、92年に外野手に転向。94年に広島にトレードで移籍すると、今度は内野手として活躍の場を求め、96年オフからはスイッチヒッターにも挑戦し、00年には136試合に出場。同年から2年連続でオールスターゲームにも出場している。
この木村をユーティリティープレーヤーとして、高く評価したのが長嶋だった。五輪ではベンチ入り選手の数もレギュラーシーズンより1人少ない24人に制限される。内外野手だけでなく捕手もできる木村は、困ったときに投手以外のあらゆるポジションを埋められる控えとして欠かせぬ選手の一人となっていた。
「タイトルを取るような選手でもないですし、生え抜きの有名選手でもない。代表に選ばれて、本人が一番驚いていました。ただ、オールスターに監督推薦で選んでくださったのが長嶋監督で、前年の(アジア)予選にも呼んで頂いた。本人は長嶋監督が目をかけて、選んでくれたんじゃないかと、凄く喜んでいました」
こう語るのは木村の妻・由美子だ。
木村は06年に巨人に移籍し、09年限りで現役を引退。そのまま巨人の内野守備走塁コーチに就任した。しかしコーチ1年目の10年4月2日、マツダスタジアムでの広島戦の試合前のノック中にくも膜下出血で倒れ、5日後の7日に息を引き取った。まだ37歳だった。
「オリンピック直前の合宿でケガをしたときには、すぐに電話がかかってきました。日本に帰る話も出たけど、雑用でもいいから残してくれと頼んで残ることになった。だからひょっとしたら試合には出られないかもしれない、という連絡でした」
由美子はこう記憶を手繰り寄せた。
「負けたくない人、ダメだとかそういうことは知らせたくない人なので、ケガはしたけどチームに残るから、と。でも後になってケガは重くて、帰国する話もあったけど、本人が泣いてお願いしていたという話を人伝てに聞いて……そんなだったんだと驚いたのを覚えています」
木村拓也
高橋の肘が“飛んだ”
事実関係を証言するのはコーチの高木豊だった。
「キムタクがケガをしたので、現場は代わりに井端(弘和の招集)をリクエストしたんです。井端はアジア予選のメンバーでしたから。そうしたら中日に拒否されたんですね。しかもキムタクが泣いてね……『帰りたくない。何でもするから残してくれ』と。故障した選手を抱えて戦うのはキツいですけど、彼の『この涙を絶対に生かす』という言葉に『分かった』となりました。その時点で補充はしないことに決まりました」
言葉通りに木村は本大会ではあるときは1塁コーチャーを務め、あるときはブルペン捕手として投手の投球練習のボールを受けた。そうして裏方としてチームを支えながら、ケガの治療を続けて試合にも2試合に出場。カナダとの3位決定戦では2安打を放って、銅メダル獲得への大事な戦力となったのである。
このパルマ合宿で実はもう一人、ケガで窮地に陥った選手がいた。
高橋由伸である。
パルマではアテネ入り直前の8月8、10両日に、現地のセリエAの選抜チームと2試合の練習試合を行った。高橋はその2試合で本塁打を連発。本大会に向けて絶好の仕上がりを見せていた。
「春のキャンプから右肘の状態がおかしかったんですけど、それでも何とかできていたんですね。それがパルマの合宿の最中にまたやってしまって、完全に肘が“飛んで”しまったんです」
高橋由伸
長嶋さんに金メダルを
特に影響が大きかったのがスローイングだった。
「ボールを投げるとむっちゃ痛くてどうしようもなかった」
高橋は主将の宮本にこのケガの報告をした。すると宮本から返ってきた返事はこうだったという。
「オマエ、ここまで来て痛いとか、痒いとかないからな!」
もちろんこのやりとりは宮本と高橋の間の信頼関係があってのものだ。だから高橋もこの宮本の言葉で覚悟を決めた。
「分かっていますよ。その代わり慎也さん、何かあったら責任とってくださいよ!」
こう返事をすると、その後も黙ってグラウンドに立ち続けた。
「それから毎日、涙が出る思いで野球をしていました。しかも肘が“飛んで”いることを知っているので、日本に戻ってからは、福留とかみんな、僕の前に打球が飛ぶと走ってくるんですね(笑)。日本に戻った九月に精密検査をしたら、遊離骨が関節に挟まってロックしていました。炎症を起こして水が溜まって、ほとんど肘が曲がらなくなっていて、そのまま手術することになりました」
こうしてケガを押してグラウンドに立つ決意をした高橋や木村だけでない。中畑や高木、大野豊のコーチ陣も、選手や裏方のスタッフたちも、ある種の悲壮感を抱えながら五輪本番へと突き進んでいた。
長嶋茂雄という国民的カリスマを将として、初めてオールプロで結成されたドリームチーム。野球ファンだけではない、国民の期待はただ一つ、金メダルを持って帰ることだった。
しかしチームが五輪にかけた一番の思いは、それとは違うところにあったと語るのは、主将の宮本だ。
「もちろん野球界のためにとか、応援してくれる日本の人々のためにという思いはありました。ただ、何が一番強かったかというと、やっぱり長嶋さんのために勝たなければならないということでした。日本で待っている長嶋さんのところに金メダルを持って帰って、喜ぶ顔が見たい。それが一番強かったです」
宮本は静かにこう振り返った。
8月11日、長嶋ジャパンの代表チームは決戦の地・アテネに乗り込んで行った。(文中敬称略、以下次号)
文藝春秋2021年6月号|短期集中連載「長嶋茂雄と五輪の真実」第2回
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