皇帝・習近平 5つの謎【文藝春秋アーカイブス】
2021年7月、中国共産党は創立100周年を迎えた。党員9000万人のこの党を率いる習近平総書記は、いま世界で最も注目を集めると同時に、世界で最も恐れられている政治指導者と言っていいだろう。
「文藝春秋」では、就任4年目に入ったばかりの2016年初め、習近平の人物像を5つの角度から解剖する特集記事を掲載した。当時、習は、南シナ海をめぐり初めてアメリカ(オバマ政権)と衝突したが、イギリス(キャメロン政権)と台湾(馬英九政権)を経済力で籠絡し、世界的な存在感を示しつつある時期だった。
特集では、歌手の彭麗媛夫人、文革に苦しめられた父・習仲勲(失脚後、鄧小平に抜擢された)、いま党中央を占める旧友たちを通して、習総書記の実像を掘り下げている。「習近平とは何者か」を知る上では必読のインテリジェンスが満載だ(肩書、年齢は掲載当時)。
❶国民的歌姫と再婚した理由 楊中美(中国政治研究者)
習近平夫人、彭麗媛(ほうれいえん)(53)のことは中国人なら誰もが知っている。彭はヒット曲「我愛你塞北的雪」「在希望的田野上」で30年以上前から全国にその名を知られる国民的歌手だからだ。
なぜ共産党の有力幹部が芸能人と結婚したのか。日本人にはわかりにくいことかもしれない。だが、彼らと同時代を生きた中国人には容易に理解できることだ。
私は上海出身の研究者で長年、政治家の経歴を研究してきた。共産党が支配する国の政治を理解するうえで経歴や人脈はとても重要だ。本稿では、これまでの中国や香港、台湾での報道や中国に住む知人からの情報を元に習近平の「私生活」に迫ってみたい。
実は、彭麗媛とは再婚である。
習は1979年に清華大学を出てまもなく26歳の時に駐英大使・柯華(かか)の娘、霊霊(れいれい)(玲玲とも)と結婚した。柯華は習の父仲勲(ちゅうくん)の元部下で、仲勲が西北地方の幹部だった時、その地域に住む少数民族を相手に交渉の仕事をしていた。英語ができたのでその後、外交官に転じたのだ。
中国共産党では、高級幹部の子弟同士が結婚することは珍しいことではない。子弟は北京の同じ地域で育つので、習は、3つほど年上の霊霊を子供の頃から知っていた。
結婚生活は約3年と短かった。原因は、霊霊がイギリスへ移住したがったからである。習は八一中学(軍関係の子弟が多い)に通ったが、霊霊は北京で唯一のロシア式教育を実施する一〇一中学を卒業した。この中学の制服は西洋風で、女生徒はスカート。世の中人民服ばかりの当時は珍しかった。父の仕事の関係でアフリカなどに住んだ経験もあり、子供とはいえ、当時としては珍しく海外事情に通じ、おそらく共産党のイデオロギーなどほとんど信じていなかっただろう。大飢饉の時代、学校で「いま北京で何が一番売れているか知ってる? 棺桶よ」と言ってクラスメートを驚かせたエピソードもある。背が高い美人で開放的な性格だった。
結婚した頃、ちょうど父が駐英大使だったこともあり、「イギリスに移住しましょう」と言い出した。中国に明るい未来はないと誰もが思っていた時代だ。霊霊は留学を希望していた。
だが習は、党中央軍事委員会の秘書という願ってもないポストに就いたばかりだ。政治を志す野心的な青年には、これ以上のポストはない。
2人の間で「イギリスに行く、行かない」のケンカが絶えなかったという。習にしてみれば、7年間の下放生活で苦労したあとようやくたどり着いた中央での仕事だ。イギリスなどに行っている場合ではなかった。離婚後、柯霊霊は移住し、いまもイギリスに住んでいると言われる。
軍営の歌姫との出会い
その後、習は河北省での勤務を経て、85年に福建省アモイ市の副市長となる。そこで紹介されたのが当時23歳の歌手、彭麗媛だ。すでにヒット曲にも恵まれ、「在希望的田野上」は全国いたるところで流れていた。
習に紹介したのは、元人民解放軍海軍トップの子、蕭卓能。蕭は習の八一中学の先輩で、父親同士が延安時代から親しく家族ぐるみの付き合いだった。人気歌手の李谷一と結婚して、習の再婚相手を探してくれたのだ。李と彭は、歌手養成の名手として知られる金鉄霖(中国音楽学院)のきょうだい弟子だった。
彭は山東省の農家の娘だったが、天性の声に恵まれ、5歳で舞台に上がって歌を披露し、15歳の時に山東芸術学校に進んだ。転機となったのは80年、山東テレビ局に推薦され北京で開催された全国歌謡曲コンクールで入選したことだ。これが解放軍総政治部文工団(宣伝活動に従事する文芸団体)の目に留まり、入隊して「軍営歌姫」の道を歩むことになる。
彭は、勉強熱心で軍に所属しながら中国音楽学院声楽部で学んだ。84年には、中日青年交流の夕べで芹洋子とともに中日の政府要人を前に歌うという大役にも選ばれた。
習に紹介された頃は、軍営の歌姫として全国に知られ始めたときだった。そのため彼女は習がアモイに勤務していると聞くと、「別れて住むのではダメね」と話していた。会うのも断るつもりだったが、蕭が習のことを「群を抜いてすばらしい」とほめるので、一応顔だけでも見ることにした。
見合いの当日、彭はわざと緩めの軍用ズボンをはいて行った。習が見た目で人を判断するかどうか試そうとしたのだ。習に会った瞬間、彭は「この人との結婚はない」と思ったという。習は見るからに田舎者で、老けて見えたからだ。
しかし習が最初に、「声楽には歌い方がいくつあるの?」と聞いてきたので彭は見方を変えた。「いま流行しているのはどんな曲?」とか、「出演料はいくら?」などと聞いてくる男性が多かったからだ。
彭が答えると、習は「悪いけど、私はあまりテレビを見ていないので知らないが、あなたは今どんな歌を歌っているの?」と尋ねた。
彭が「希望の田野で」と答えると「その歌なら聞いたことがある。すごく良かった」。
これで心が通じ合い、2人は長時間話し込んだだけでなく、次に会う約束まで交わした。彭は振り返る。
「そのとき私はぐらついたの。『彼が私の待っていた人かしら? 純粋だし考えも深い』。あとで彼が私に『会ってから40分も経たないうちに、私はあなたが私の妻にふさわしい人だとわかった』と言っていた」
習は彭に「私は行政を担当しているので、1日のうち10時間以上も家のことを構っていられないかもしれない」と正直に告げると、彭は「事業を立派にこなせなければ、家のこともこなせない。両方とも大事よ」と答えた。
障害となったのは彭の両親だ。娘の相手が高級幹部(当時、父・習仲勲は党総書記胡耀邦の側近)の子弟と知って反対したのだ。習の弟、遠平の女性問題のことも聴いて心配になった。習は「私の父も農民の子どもだ。きょうだいはみな平民の子どもと結婚している。第一、私の家族が私たちに一生付いて回るわけではない。私が説明すれば、きっとわかってくれる」と語った。
実際、習は彭の両親に挨拶に行ったようだが、障害は完全には取り除けなかったようで、2人は家族を呼ばないまま結婚式を挙げた。記念写真の撮影、結婚登記証の提出、市長への報告、その晩、同僚や上司らを招く食事会の案内の送付を1日でやってしまった。87年9月1日のことだ(エピソードは『中国高端訪問(1)』2006年などより)。
彭の家族は警戒したようだが、彭にとって高級幹部の子弟との結婚は悪い話ではない。ヒット曲があるとはいえ、歌手には将来の保証はない。当時はまだ民間企業もなく、中国は貧しかった。豊かさは政治的な階層に比例していたのだ。将来まさか、国家主席になるとは思わなかったにせよ、33歳のアモイ副市長が将来、党中央の幹部になる可能性は十分あった。そういう意味で2人はお似合いのカップルだったのだ。
2人の仲立ちをした蕭卓能と李谷一夫妻も高級幹部の子弟と歌手のカップルである。ただ、李は恩師の金鉄霖と結婚していたのに夫を捨て蕭と再婚したため、コンサートで「ショウロウサン(蕭の3番目の息子)!」というブーイングを浴び人気が急落した。蕭はのちに山東省政治協商会議副主席まで務めた後、引退した。高級幹部の子弟と結婚するとそういうリスクもある。
結婚後、習の地方勤務は続いた。別々に暮らす方が長かったが、2人の仲はとても良いと言われている。
彭が香港で解放軍芸術団の一員として「香江明月の夜 中秋総合演芸の夕べ」に参加したときには、夫へのお土産として香港で評判の良いインスタントラーメンを一箱買って帰ったことがあったと伝えられる。習の同僚から「あなたの夫にインスタントラーメンばかり食べないように注意してくれ。仕事で遅くなると、習は買い置きした大陸産のインスタントラーメンばかり食べている。おいしくないし、古くなってるから健康面が心配だ」と言われたからだった。それで香港のインスタントラーメンを大量購入したのだ(「廣角鏡」誌、2010年)。
彭麗媛
有名人の妻は悪い影響もある
2007年に上海市のトップに抜擢されるまで、習は全国的には無名の役人だった。彭のほうは人民解放軍歌舞団の顔となり、階級も少将まで上がっていた(解放軍80周年記念アルバム「我的士兵兄弟」のジャケットも彼女の写真)が、夫を助けることには積極的だった。
習が浙江省に勤務していた頃、国家主席の江沢民が視察に訪れたことがあった。彭は北京で公演中だったが、公演後に杭州に飛んで帰り、江の前で何曲も歌った。自らピアノを弾き、歌をよく歌う、音楽好きの江は大変喜んだという。
習は妻を積極的に利用したというわけではない。むしろ共産党という組織においては、有名人の妻は足を引っ張る可能性がある。そのことは、習も十分承知しており用心に抜かりはなかった。
彭が会いに来ても外部に伝えないだけでなく、夫人同伴が可能な場合でも、「妻を連れて歩くと他人に何かと言われるし、悪い影響もある」とほとんど同伴していない。彭には、人民解放軍以外からも出演依頼が来ることもあったが、「決して走穴(所属組織外の公演に出ること)はするな」と約束させ、彭も厳守していると言われる(『中国高端訪問(1)』など)。
筆者は上海の友人からこんな話を聞いたことがある。
「習が浙江省のトップだったとき、彭がある公演の後、主催者側から記念撮影などはしないという約束で慰労会に招待された。彭は参加するつもりで夫に相談したところ、習は来賓を調べてみるので返答を延ばすように言った。調査の結果、来賓に浙江省籍の商人がいることがわかり、習は『利用された』と噂が出るのを恐れ、彭に参加を断らせた」
習が浙江省から上海市のトップになったときに、次の国家のリーダーに抜擢されることが誰の目にも明らかになる。彭の露出はその頃から急激に減った。彭は歌手だが、日本の芸能人とはちがう。共産党員であり、党のルールに忠実に生きてきた。そして、いまや中国史上最も人気のあるファーストレディだ。
2人の間には、92年に娘(習明澤)が生れ、ハーバード大学に留学していたことが知られている。幼少時撮影された写真を見る限り、風貌は習に似ているようだ。
エリザベス女王と記念撮影
❷父母に学んだ振舞いの作法 宮本雄二(元中国大使)
習近平主席は体つきだけではなく立ち居振る舞いも堂々としている。私が「威風堂々」の言葉を使うと、中国の若者はびっくりして「習おじさん(習大大)は、もっと親しみやすい人だよ」と答える。日本と中国で異なったイメージが作り出されているようだ。
私は、中国大使時代、習近平氏に何度も会ったが、その印象は「中国流の大人(たいじん)だな」というものだった。人を自然とリラックスさせ、威圧感を与えず、しかも悠然としている。決して饒舌ではなく、むしろ人の意見を聞く方だ。それにどことなく肝が据わっている。醸し出す雰囲気は、江沢民や胡錦濤とはどこか違うのだ。
この「大人」の印象はどこからくるのだろうか。私が中国大陸を初めて訪れたのは1974年のことだ。文化大革命中なのに政府幹部には「大人」の雰囲気を漂わせている人物をよく見かけた。考えて見れば、これら幹部の多くは49年の共産中国成立前に伝統的な教育を受けた人たちだった。そこには「読書人」と呼ばれるエリートたちが、どういう立ち居振る舞いをするべきかについて一定のスタンダードがあった。それが、われわれに「大人風」の印象を与えた背景にあるのだろう。
だが習近平は形だけではない。そもそも中国の幹部の中にも「読書人」のスタンダードが身についていない人も結構いる。一生懸命にそれらしく振舞おうとするのだが、すぐにばれてしまう。やはり習近平という人物を考えるとき、そういうものを越えた何かがある気がしてならない。もちろん天性の資質もあるだろう。しかし、それだけではない。習近平には、トップになると決めた途端、運命に自分を委ねた者が持つ潔い覚悟が感じられるからだ。それは12年に中国のトップに就任した後、さらにはっきりと見えてきた気がする。
そうなると、その生い立ちとその後の人生を眺めてみる必要がある。両親の存在は、やはり大きい。父親は革命の元老のイチ人である習仲勲であり、母親は斉心(さいしん)という。習近平は両親を強く意識して、自分の生きざまを決めてきたのではないだろうか。そう思わせる両親の人生なのだ。
失脚した父から大きな影響
習仲勲は、政治局委員(副総理級)まで務めた。河南省から陝西(せんせい)省に移民した農民の3代目であり、貧しい農家の長男として1913年に生まれた。その当時ようやく陝西省まで伸びてきていた共産党の組織の中で若くして頭角を現していく。そして西北地区の地方党組織の発展に大きな貢献をする。36年、国民党軍に追われた共産軍が、一万数千キロの「長征」を経て陝西省延安に落ち延びてくる。習仲勲に初めて会った毛沢東は「若いと聞いていたが、こんなに若いのか」と驚いたという。
つまり習仲勲は、共産党の主流ではなかったということだ。主流は毛沢東であり、毛沢東とともに「長征」に参加した人たちだ。習仲勲は、「地元組」であり「長征組」ではない。だが習仲勲は有能だった。周恩来にかわいがられ、53年には周恩来総理が主宰する国務院の秘書長に就任した。59年には副総理にまでなった。
だが62年に「小説劉志丹」問題が起こり、失脚する。劉志丹は「地元組」の真のリーダーだったが、36年に戦死している。彼を題材にした小説が政治問題化し、習仲勲の失脚に利用された。文化大革命の指導者として悪名をはせた康生の、習仲勲に対する昔の意趣返しと言われる。66年に始まる文化大革命は、習仲勲にも襲いかかった。康生の策謀の中で結局、16年間、迫害され続けた。
78年の改革開放政策の確立は、鄧小平体制の確立でもあった。ここでも習仲勲の有能さが買われ、広東省の責任者となり、改革開放政策を推し進めた。81年からは中央書記処の書記となり、党のナンバーワンになっていた胡耀邦を支えた。しかし胡耀邦は党の保守派と対立し、87年に失脚した。ここでも習仲勲は最後まで胡耀邦を擁護したと言われる。習仲勲も閑職に回された。
このように習仲勲は、有能だが筋を重んじ、要領よく立ち回ることが苦手な人であった。家族には「自分は何の財産も富も残さなかったが、立派な名声だけは残した」と語っている。
01年、福建省長をしていた48歳の習近平は、父親の88歳の誕生祝いに出席できず、父親に手紙を書いている。その中で、父親の「人となりに学び、成し遂げたことに学び、信じることをあくまで追求する精神に学び、民を愛する気持ちに学び、質素な生活に学ぶ」ことを誓っている。この手紙は、13年にその生誕100周年を記念して出版された「習仲勲伝」という本の中に全文掲載されている。習近平の国民への約束と見ても良い。やはり父親から大きな影響を受けているのだ。
迫害された父
母親は抗日運動の闘士
習近平の母親の斉心のことが語られることは多くはない。だが母親から影響を受けない息子はいない。習近平の人格形成を考えるとき、この母親のことをもっと知る必要がある。斉心の父親は斉厚之という。北京大学を卒業し、華北地方の当時の実力者たちとの関係も近かった人物だ。斉心は、26年、その次女として生まれている。父親が「読書人」の、「良家の子女」なのだ。しかし日本の華北侵攻が斉家の運命を大きく変える。とりわけ姉の斉雲は、学生時代から政治に覚醒し、抗日運動に参加する。
斉心は、8歳年上の、この姉の強い影響を受けた。抗日組織に入り、40年に共産党の本部が置かれた延安に行き、そこで習仲勲と会い44年に結婚した。当時の中国の政治状況は極めて複雑で厳しい。父親と共にいたほうが良かったかどうかは別にして、楽だったはずだ。何といっても父親は政府高官なのだ。だがこの姉妹は、むしろ父親を離れて抗日のために、苦しい共産軍の生活を選んだ。そこに志の高さを感じる。
だが習仲勲が政治の荒波にほんろうされるとき、その家族もそれとは無縁ではありえなかった。習仲勲の苦難の時期は家族にとってもそうであった。幸い常に習仲勲を庇護する人物がいてくれて、また大衆も彼の味方となって最悪の事態は免れている。習仲勲の人柄だろう。
そして87年の再度の失脚である。斉心は習仲勲がいつも自分に「良く仕事をし、良く学習をし、すべてのことをうまく処理しなさい」と言っていたと回顧している。そして若い頃、この言葉は抽象的過ぎて意味がよく分からなかったが、歳をとると理解できるようになったと、あるインタビューの中で言っている。
中国の厳しい政治の現実の中で斉心は多くをしっかりと学んだのだ。“街の噂”だが、07年に習近平が中央に呼び戻された時、斉心は一族郎党が会社と関係することを禁じ、12年にトップに就任した時には、全ての株の売却を命じたと言われている。習近平の足を引っ張る者が出ないようにしたのだ。この母親を習近平がとても尊敬していると聞く。
権力掌握のため気迫で迫る
信念を大事にし、志を高く持つ家風の中で、習近平は1953年に生まれ、育った。父親の政治的不遇は62年からであり、習近平は9歳のころからその影響を受けている。66年に文化大革命が勃発したとき習近平は13歳であり中学生だった。文革は習近平にとっても厳しいものだった。15歳になると農村に下放されている。陝西省の田舎であり、そこに75年までいた。父親の故郷とはいえ、十二分に苦労したはずだ。そこから清華大学に移り79年まで「専業学習」をしている。大学はまだ再開されていなかった。
79年に人生の転機が訪れる。中央軍事委員会の秘書長をしていた大物軍人の耿飈(こうひょう)の秘書となったのだ。ところが耿飈は81年に国防部長に転出する。習近平は中央に残るより、むしろ地方勤務を望み、翌年、河北省に移った。その後、福建省、浙江省、上海市と異動する。02年には、第16回党大会において中央委員会委員に選出されている。
そして07年3月には、突如、出世コースである上海市党委員会書記に抜擢され、半年後の第17回党大会では2階級特進し、政治局常務委員会委員に選出された。それだけではない。下馬評の高かった李克強の上位につけ、次期総書記の最強の候補に躍り出たのだ。25年の長きにわたる地方勤務を経た後のことであった。
習近平はこの運命をどう受け止めたのだろうか。出世を望んでいたのなら、ずっと前に中央に戻っておいた方が有利だった。だが習近平はそれをしていない。それでも最後は、この運命を受け入れた。それは、共産党の立て直しと中国の再興という強い使命感からではないだろうか。共産党は、それほど多くの難題を抱えていたのだ。「太子党」と呼ばれる高級幹部の子弟は、いわば創業者ファミリーでもある。共産党という「会社」を江沢民、胡錦濤というサラリーマン社長にやらせたがうまくいかず、もう一度経営権を取りもどしたとも言える。
12年11月、習近平は中国共産党のトップに上り詰めた。その少し前、数週間、習近平は姿を消したことがあった。そのとき、自分に全権を渡さないのであれば総書記はやらないと実力者たちに迫り、受け入れさせたと聞く。党本部にあった江沢民のオフィスも閉鎖されたと聞く。
習近平に全権を掌握させ、問題を解決させるしかないというのが、党上層部の「世論」になっていたのだろう。総書記就任直後の13年1月、江沢民との正面衝突を覚悟の上で反腐敗宣言をし、「トラでもハエでも叩く」と豪語した。そして大トラを3頭つかまえ、権力の集中を確実にした。誰もここまでやるとは思っていなかったし、やれるとも思っていなかった。強大な既得権益層に敢然と立ち向かい、成果を上げているのだ。そこには「運命に自分を委ねた者が持つ覚悟」がひしひしと伝わって来る。
習近平の中学校の恩師である陳秋影は、12歳の習近平に落ち着きと謙虚さと向学心を見出している。そして孟子の「天の将(まさ)に大任を是(こ)の人に降(くだ)さんとするや」云々の言葉を引いて、習近平が艱難辛苦を経て大任を果たせるまでに成長したと語る。果たしてそうか。習近平の試練は続く。
❸「習おじさん」ゆるキャラ戦略 加藤隆則(ジャーナリスト)
2015年9月3日、北京の天安門で行われた抗日戦争勝利70周年記念の軍事パレードは最新鋭兵器が多数初公開され、周辺国に対して軍事的脅威を煽る結果となった。天安門の楼上でこぶしを振り上げる習近平中央軍事委員会主席を見て、多くの日本人は強権を振るう独裁者のイメージを強めたに違いない。
私はあの時、北京市内のホテルのラウンジで中国中央テレビ(CCTV)の実況中継を見ていた。オープンカーの習氏が長安街に整列する兵士を観閲するシーンで、ラウンジに居合わせた20代半ばの中国人女性が「可愛(クアイ)(かわいい)!」と叫んだ。何事かと聞くと、彼女は携帯のチャットアプリ・微信(ウェイシン)で友人から送られてきた画像を見せた。「くまのプーさん」を模したクマがおもちゃの車に乗っている写真だった。習氏をプーさんに見立てているのだ。
「可愛!」と人気
いかめしい表情の軍最高指導者と私的なチャットで流れる親しみやすいイメージとの落差はちぐはぐな印象があるが、権力の源泉が軍(ハード)と世論(ソフト)にあることを思えば納得がいく。
軍事パレードの3日後、北京の目抜き通り・王府井(ワンフーチン)で露店の土産店をのぞいた。その半年前、習氏の写真をプリントした絵皿が一枚、毛沢東グッズと一緒に並んでいるのを見つけたが、今回は彭麗媛夫人とのツーショットも含め10枚近くに増えている。狭い店舗にしては破格のスペースだ。興味深げに眺めていると女性店主が、
「人気の習大大(シーダーダー)だ! よく売れているよ!」
と声をかけてきた。「習大大」はネットで広まった習氏の愛称だ。郷里の陝西省方言で「習お父さん」といった親しみがこめられている。「プーさん」に通ずるイメージだ。
鄧小平、江沢民、胡錦濤ら過去の指導者をしのぐ習近平グッズ現象は、習氏の大衆人気を物語る。彭夫人は人民解放軍の歌手で、旧正月の春節に放映される人気歌番組の常連だった。日本で言えば、美空ひばりや島倉千代子といった演歌のスターだ。ファーストレディーの存在も習氏と庶民との距離を近づけるのに一役買っている。
露天には習グッズ
農民は胸を躍らせる
共産党による一党独裁国家に政権の支持率を計る世論調査は存在しないが、「言論・思想統制下における承認度」を推計してみる。文化大革命で全国民を洗脳した毛沢東の最盛期は間違いなく99%だが、行き過ぎた個人崇拝で国民を災難に巻き込んだ。死後、「功績が七分、過ちは三分」と歴史的な評価が下されたことを踏まえれば、晩年は70%に落ち込んだ。習氏はそのレベルに近づいていると見てよい。
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