小池真理子「かたわれ」の死を書く 夫の死は、奈落の底に突き落とされたようなものでした 聞き手・佐久間文子
小池真理子(作家)、聞き手・佐久間文子(文芸ジャーナリスト)
小池さん
「今しか書けないものを書き残しておこう」
作家の藤田宜永さんが肺腺がんのため亡くなったのが2020年1月30日。妻の小池真理子さんとは、おたがいを「かたわれ」と思う、強く結ばれた関係だった。最愛の夫を見送った心境を『月夜の森の梟』(朝日新聞出版)につづった小池さんに、波乱に富んだお二人の37年について聞いた。
——『月夜の森の梟』の連載が朝日新聞で始まったのは、藤田さんが亡くなって半年もたたない時期でした。小池さんご自身、看病の疲れが抜けず、何より突然とも言えるかたちで伴侶を亡くされて、気持ちの整理もつかない中での執筆だったと思います。死別の悲しみの中にあって、その悲しみに向き合って書くことに迷いもあったのではないかと思うのですが、よく決断されましたね。
小池 藤田は通夜も告別式もしないでくれと言い残していました。故人の遺志は尊重するつもりでしたが、夫婦ともに作家という立場上、私はそれだけは無理かもしれないと思っていました。実際、彼の死が報道されたとたん、お別れしたい、と言ってくださる編集者や作家仲間が多く集まって。急遽、通夜や告別式の代わりに弔問の場所を設けたんです。朝日新聞社から、追悼文を書いてほしいという電話がかかってきたのもそこ。私は放心状態で、まったく書ける状態ではなかったため、親しい編集者に断ってもらいました。
依頼してきた記者の方からは、書けるようになったら、お書きください、お待ちしています、と言われて。10日くらいたってからだったと思いますが、独りで井戸の底の、暗がりの中でぼーっとしていたような時に、ふっとそのことを思い出したんです。作家が、長く連れ添った作家の伴侶を亡くした気持ちを書けずにいるわけがない、今しか書けないものを書き残しておこう、と思いました。書くのはすごく怖かったんですが、いったん書き出したら、ふしぎなほど言葉があふれてきました。
追悼文が掲載されたのは2月19日。読者からのメールやファックス、手紙の反響がすごかったみたいです。それから2カ月くらいたった4月半ば。朝日の旧知の記者から、土曜版「be」の紙面で、藤田さんについて回想するエッセイを連載してみませんか、と打診されました。
大反響の連載『月夜の森の梟』が一冊となった
元気でも翌日は鬱状態
まだまともに仕事ができる状態ではなかったので、返事は保留にしてもらったんですけど、時間がたつにつれて、書いてもいいかなと思うようになりました。死別後2年、3年たって書くものと、直後に書くものは、たぶん全然違ってくる。言葉にならない思いを必死に紡ごうとする熱情みたいなものが、数年たつと少しずつ薄れて、よくも悪くも、まなざしが客観的、冷静になっていく。今しか書けないことがあるし、理屈では語りきれないものを言葉にすることで、自分を救えるかもしれない、という気持ちが強かったです。
連載を書くにあたっての、企みみたいなものは何もありませんでした。喪失の悲しみの乗り越え方を書くつもりなんか毛頭なかったし、そういう方法論には初めから、全然興味がなかった。強い悲嘆の感情はハウツーでごまかせるものではないと思っていたからです。ストック原稿を作らずに、毎週、その時々の自分の思いや、2人で辿った道のり、長年暮らした軽井沢の風景を、リアルタイムで、散文詩のように書いていこうと思いました。
毎日、気持ちが変わるんです。今日はちょっと元気だなと思っても、次の日はほとんど鬱病じゃないかという感じになったりもします。日ごと夜ごと刻々と変わっていく感情を持て余す自分のことも、記憶が束になって押し寄せてくる時の感覚も、散文詩の中になら、正直に表現することができそうだと思いました。
——書くことで、ご自身の気持ちが癒やされる面はありましたか。
小池 もちろん癒やされました。書いている時が一番、気持ちが落ち着いていたと思います。コロナの感染が広がって、それまでとは生活がガラリと変わったでしょう。もし、このパンデミックが起こらなかったら、親しい編集者や仲間たちと会って、藤田の思い出話をしたり、独りで旅に出たりすることで、ある程度は気持ちにめりはりをつけられたかもしれません。
でも、そういうことがまったくできなくなってしまいましたから。案じてくれる人と交わすメールや電話、手紙のやりとりがせいぜいで、何日間にもわたって、誰にも会わずにいたこともあります。心底、孤独でした。書くことでしか自分を支えることができませんでした。
——私自身、2020年1月に夫(評論家の坪内祐三)を亡くしたばかりで、毎週、食い入るように読んでいました。小池さんの深い悲しみに触れることで自分も慰められていた気がします。読者の反響もとても大きかったそうですね。
小池 1回、2回目はぽつぽつという感じでしたが、4回目を過ぎたあたりから、掲載当日に編集部にメールやFAXレターがわーっと届くようになって。郵送されてくる手紙もふくめて、そのつど、担当者が丹念に私あてに送ってくれたので、一つ残らず目を通しました。連載中に届けられたメッセージは軽く1000通を超えます。
夏ごろからは回を追うごとに、大切な人との死別を経験した方からのものが増えてきました。伴侶はもちろん、親や兄弟姉妹、恋人、ペット。とりわけ切なかったのは、子どもを亡くした方からのものです。亡くなった原因も病気だけではない、事故、自殺、さまざまでした。
以前の自分に戻れない
悲しい気持ちは易々と他の人には言えない、もう何も言えなくなってしまった、ってみなさん書いてこられました。死に別れた直後は、どれだけ泣こうが嘆こうが、受け入れてもらえたけど、半年、1年、2年たつうちに、個人の喪失体験は完全に過去の出来事になってしまうんですね。当事者にとっては未来永劫続く悲しみなのに、他者からは、いつまで悲しんでるの、元気出さなきゃだめじゃない、と言われてしまう。たとえつらい胸のうちを明かしたところで、経験のない人を困らせるだけだし、とんちんかんな励まし方をされるだけだとわかっているので、どうしても遠慮してしまう。それがふつうだと思います。
——死別を経験した方は、10年たっても悲しみは全く変わらないと言われます。ずっとこれが続くかと思うと気が遠くなりそうです。
小池 本当にそうですね。悲しむ気持ちを無理に隠す必要はない、とは思いますが、がまんしてしまうのもよくわかります。強烈な喪失体験は、周囲からの隔絶と一緒ですから。自分だけ別の世界に放り出されたみたいな、あの感覚です。いつまでも打ち沈んで嘆いていたら、2度と誰にも相手をしてもらえなくなるような気がして、無理して元気を装うのです。私も同じです。よく笑うし、よくしゃべるし、食べるし。でもそれは、死別以前の自分と同じ自分ではないんですね。明らかに違う。
彼が生きていたころの時間と、死んだ後の時間が全然つながらない。別ものになっている。この、経験したことのないような居心地の悪い感覚は、和らぐことはあっても、一生続くのではないかと思っています。
土曜日の朝は、誰にも見られないところに新聞を持っていって、私の連載を読んで、涙を流している、週に1度、思いきり泣いています、と書いてこられた人もいました。
2001年直木賞を受賞した夫・藤田宜永さんと
死別後の心象風景を描く
——ご自身がつらいときに、悲しみにあふれた手紙を読むのは大変ではなかったですか。
小池 ううん、全然。自分と似た経験をした人の気持ちを私も知りたいから。寄り添い合って、一緒に泣きたかったから。1度もお会いしたことのない読者とつながっている、というのはふしぎな安心感をもたらしてくれました。どんどんファックスで送られてくるので、ファックス用紙代がかさみましたけど(笑)。
——ご夫婦ともに作家だった吉村昭さんは、妻の津村節子さんに、「3年間は書くな」と遺言されたそうです。書くだろうという前提なんですね。藤田さんは自分が亡くなったあとで小池さんが書くことについて何かおっしゃいましたか。
小池 藤田も当然、私が書くことは予想していましたね。でも、一方で、自分のことや自分の死を軽々しく書いてほしくない、っていう気持ちは強かったみたいです。同じ小説家なので、自分のことを書かれる場合には、正確さを求める。私がもし、何か勘違いしたまま、彼の内面を表現したりしたら、すごく腹が立つだろうし、逆の立場でもそれは同じ。だから、その気持ちはよく理解できました。
『月夜の森の梟』には、彼についてというより、彼がいなくなった後の私の思い、心象風景を描いたので、問題ないかなと思ってます。
彼のこと、私たち夫婦のことを小説に書いてほしいという依頼は来ていますが、全部、お断りしています。でも、私も作家である以上、厳しい闘病のすえ、同業の夫を亡くすという、自分の人生にとって大きなできごとを、今後、絶対に書かないかと言われれば、それはないような気がする。
それとわからぬ形にするのか、わかってもいいと思って書くのか、今の時点ではなんとも言えません。少なくとも、私小説として書くということはあり得ませんが、いずれ何らかのかたちで作品化したくなる時がやってくるかもしれません。
——藤田さんの病気がわかる前に、小池さんは癌で余命わずかな男を主人公に『死の島』(文春文庫)という小説を発表されています。
小池 そのことは、私も不思議でしかたないんです。「オール讀物」で連載が始まったのが2016年。藤田に病気の兆候なんてまったくない時でした。
予兆めいた作品たち
『死の島』でとりあげたのは長年あたためてきたテーマです。まさか夫が発病するとは思ってもいませんでした。でも、「もしかしたら、あれは藤田さんがモデルだったんじゃないですか」ってあとでいろんな人から聞かれて。本が刊行された直後に彼の病気が発覚したので、そう思われてしまったのでしょうね。
作家って、予兆めいたものがひらめいて、無意識にそれを作品化してしまうことがあるような気がします。私が『モンローが死んだ日』(新潮文庫)を書いた時もそうでした。孤独のうちに精神が不安定になっていく主人公を2匹の猫と暮らす未亡人にしたのは、自分が2匹の猫と暮らしていたからそうしただけなんですけど、彼女の夫は癌で他界したばかり、という設定なんですよね。
言霊というのは、ふつうは発した言葉に宿るものですが、私たち作家の場合は書く言葉にこそ、何かが宿ってしまうのかもしれません。虚構の世界を言葉で練り上げていくうちに、言葉通りのことが起こってしまうのです。
——小説の中で何度も死について書いてきても、身近で実際に経験した死は、それを超えるものだったと書いておられますね。
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