「愛子天皇への道」皇室の危機を考える 石井妙子
伊藤博文も三笠宮も女帝の可能性を模索した。/文・石井妙子(ノンフィクション作家)
皇室に存在する男女の格差
令和3年は、眞子さんの結婚があり、愛子さまが成年となられ、いつになく女性皇族の存在が注目された。またこうした出来事を通じて皇位継承への興味が一般国民の間に、強く芽生えた1年でもあった。
とくに眞子さんの結婚は、すでにそこにあった問題や矛盾を顕在化させたように思える。女性皇族と男性皇族の間にある格差、皇族の人権、皇統の維持、といった事々を。
長姉の眞子さんに皇位継承権はなかった。だが、弟の悠仁さまは皇位継承順位第2位の立場にある。天皇の長女である愛子さまにも皇位継承権はなく、ご結婚されれば民間人になられる。皇室に歴然として存在する男女の格差。しかし、国民の間では、この数年で、「女性が天皇になってもいいのではないか」「女性天皇が結婚し、そのお子さまが天皇(女系天皇)になってもいいのではないか」という意見が圧倒的に多くなっている(NHKが2019年に行った世論調査では7割以上)。
ところが、こうした国民の声は国会には反映されてはいない。長きにわたった安倍晋三政権は男系男子主義の立場であり、女性天皇・女系天皇を否定、女性宮家の設立にも反対していたため、まったくこの問題に取り組まなかったからだ。
この流れを汲んで先の総裁選でも、岸田文雄総理と高市早苗政調会長は揃って、「男系男子で継承すべき。皇統の維持のために、旧皇族の子孫である男子を皇籍復帰、もしくは天皇家の養子にする案に賛成」と明言した。この問題に関する限り民意と政権与党との間には、大きな「ねじれ」があると言えよう。
憲法と皇室典範
大日本帝国憲法と旧皇室典範が公布されたのは、1889(明治22)年。当時の皇室典範は、憲法と同格とされ、帝国議会が定めるような法律とは異なっていた。
明治憲法において天皇は「大日本帝国は万世一系の天皇これを統治す」「天皇は神聖にして侵すべからず」と位置づけられ、さらに「皇位は皇室典範の定むるところにより皇男子孫之を継承す」とされ、憲法の条文においても「男子」と定められていた。
しかし、敗戦後の1947(昭和22)年に施行された新憲法において天皇は「日本国の象徴」となり、「皇位は世襲のもの」「国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する」とされ、「男子」の文字は憲法から消える。
一方でこの時、旧皇室典範に代わって新たに施行された新皇室典範は、まず「憲法と同格」という位置づけから、憲法の下位にある一法律となった。その際には名称を「皇室法」に改めるべきだという議論もあったが、「皇室典範」の名称は残され、内容にも抜本的な変更は加えられず、「皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する」という文言もそのままとされた。
新憲法では「皇位は世襲」とのみ記され、一法律である皇室典範には「男系の男子」という縛りがあるのだ。
新憲法の14条では、「すべて国民は法の下に平等」であり、性別により差別されてはならないと謳われている。そのため当時から、「皇位を『男系の男子』に限定する新皇室典範は憲法に違反しているのではないのか」という声があった。
振り返って見ればこれまでも、「女性女系天皇容認」に寛容な態度を示した男性の指導者はいた。古くは初代総理大臣の伊藤博文、そして記憶に新しいところでは、小泉純一郎元総理——。
今から約15年前の小泉政権では、皇室典範改正に向けた議論が国会で繰り広げられた。
2004(平成16)年当時、皇太子(現天皇)夫妻の間には、愛子さましかおられず、雅子さまは40歳を超え、「適応障害」というご病状が発表されていた。一方で秋篠宮家、三笠宮家、高円宮家にも男子の跡取りはおられなかった。
間もなく40歳となる秋篠宮さまよりも若年の男性皇族が、ひとりもいない。皇室典範における男女差別を改正するという意味合いからではなく、男子に縛っては皇位継承者がいなくなってしまうという切迫した状況から、小泉政権下での議論は始まったのだった。
小泉元首相
女帝・女系天皇に猛烈な反発
同年12月に小泉総理は「皇室典範に関する有識者会議」を設置。皇長子である愛子さまの存在を念頭に、皇室典範の改正を目指した。有識者会議は翌年、「女性、女系天皇を認める。皇位継承は長子優先」とする報告書を提出。これを受けて小泉総理は2006年、国会での施政方針演説で「皇室典範改正案を提出する」と宣言した。
だが、すでに、この流れに抵抗する保守派の政治家、ジャーナリスト、一般国民の一部からは、猛烈な反発が巻き起こっていた。
女帝・女系天皇容認に反対する運動で主導的な役割を担ったのが、神道系の保守系団体として知られる「日本会議」である。当時、日本会議国会議員懇談会会長の地位にあった平沼赳夫氏は、男系男子主義を強く信奉していた。今も、その考えは変わっていないと平沼氏はいう。
「小泉政権で女性、女系天皇容認に傾きましたが、125代(現在は126代)続く天皇の歴史の中で女系天皇はひとりもいない。過去にいた8人の女性天皇はすべて中継ぎ的な役割で、ご結婚もなさらずに、次の男系男子の天皇に位を譲られた。男女同権に反するという考えは、この問題に持ち込むべきとは思わない。ローマ法王も代々男性で、ユダヤ教のラビも男性です」
同じく同会に所属する高市早苗議員も2006年1月27日の衆議院予算委員会で「男系男子で継がれてきたことが天皇の権威の前提。男親から男の子ども、男系男子だから継がれてきた初代天皇のY染色体が女系天皇では途絶してしまう」と述べて、女性女系容認に向けて舵を切った当時の政府の方針を牽制する立場を取った。
なお、男系男子とは父が天皇である男の皇子を言う。父親の父親の父親の……と父方だけをたどっていくと初代神武天皇に行き当たるという。一方、天皇の娘の子孫は父方が天皇ではないため、女系天皇ということになる。過去に女性天皇は江戸時代まで8名おられたが、女系天皇はひとりもいないというのが、保守派の男系男子主義者の主張である。
しかし、保守派の誰もが必ずしも男系男子主義というわけではなく、中には女性・女系天皇支持者もおり、そのため保守派内も分裂し、激しくぶつかり合った。
男系男子主義に反対する立場を取った保守派言論人に、皇學館大学名誉教授、田中卓(2018年没)がいる。彼は「男子尊重は中国大陸から入ってきた外来思想であり、男系女系という考えも西洋由来。女性を尊重してきた日本の伝統が消された。そもそも皇室の祖神である天照大神は女性であり、歴代8人の女帝が存在した。男系固執派が女性天皇を否定するのは、明治以来の皇室典範に底流する単なる男尊女卑思想によるもの」(要旨)と強く批判した。
小泉政権下での皇位継承をめぐる議論は白熱し、「テロが起こるのではないか」と危惧されるほどで、「国民の感情も2つに分裂してしまうのではないか」と懸念されもした。
だが、国会会期中の2006年2月、議論は唐突に中断される。紀子さまのご懐妊が報じられたからだ。9月、紀子さまが皇室にとって41年ぶりとなる男児の悠仁さまをご出産。すると、女帝容認に向けた皇室典範改正の流れは、完全に打ち切られることになった。改正に反対していた人々は、「天祐」「神風が吹いた」と悠仁さまのご誕生を熱狂的に喜んだ。この時、秋篠宮家の長女・眞子さんは14歳、次女・佳子さまは11歳。皇位継承の議論と弟宮の誕生をどのように見ておられたのだろうか。また、男子を産むことができず、皇室に馴染めなかった皇太子妃の雅子さまを案じる声と批判する声の両方が当時のメディアには溢れ返っていた。
それにしても、男系男子による皇統の維持は、田中卓が指摘したように、本当に日本の伝統と言えるのであろうか。
明治の活発な女帝論争
1875(明治8)年に明治天皇は「立憲政体を立つるの詔書」を発表。元老院も設置され、憲法を起草する動きが加速していく。全国で活発な議論が起こり、政府だけでなく各地で人々が憲法試案を作った。それらの中には「女帝を認める」としているものも数多くあった。
後に立憲改進党の母体となる政治結社の嚶鳴社も憲法論議の中で「女帝を立つるの可否」という大討論会を1882年に開催。内容を「東京横浜毎日新聞」で発表した。
女帝否定派が「女帝が配偶者を得た場合、婿が女帝に対して采配を振るい政治に関与するのではないか」と意見すれば、賛成派は、「婿が政治に干渉することは憲法で禁じればいい」と応じ、また否定派の「我が国の現状は男尊女卑なので天皇が女性だと婿のほうが天皇の上になってしまう」との主張に、賛成派は「男尊女卑の風潮はあるが、それは一般人民の話であり、皇室にあてはめるべきではない」と反論した。賛成派が8名、否定派が8名。明治において、これだけ女帝が支持されていたという事実は今日、あまり知られていない。
伊藤博文と井上毅
政府側の立憲責任者であった伊藤博文は1882年、各国の憲法事情を視察調査するため欧州に滞在していた。伊藤はオーストリアのウィーン大学で国家学を教えるローレンツ・フォン・シュタイン教授に出会い、その教えに深く傾倒する。伊藤博文と明治憲法成立の過程を長年、研究する国際日本文化研究センターの瀧井一博教授が語る。
「伊藤博文はシュタインから『皇室の皇位継承は非常に重要で、しっかりしていないと国が乱れる原因になる。継承の順番は明確にルール化しなければいけない』と教えられます。憲法をつくるよりもまず先に、憲法とはわけて皇位継承を定めた法を作らなくてはならない、と。シュタインは『重要なのは血筋である。長子相続で男性に継がれることが望ましいが、適当な後継者がいなければ女性でもいい』と説きます。さらにシュタインが重視したのが、一夫一婦制と庶出の問題でした。『今の天皇も正式なお妃から生まれた方ではないと聞いているが、ヨーロッパでは考えられないことだ。皇位を継ぐ人は正嫡子でなければならない。この点は改めたほうがいい』と伊藤に言います。一夫多妻で庶子でも皇位につけることは、西洋人には生理的に受け入れられないことでした。伊藤もよくこの点は理解し、帰国後、憲法に反映しようとしました」
伊藤博文
しかし、母国日本においては、高貴な身分にある人々は天皇家でも武家でも一夫多妻が一般的であり、歴代天皇の約半数が側室を母に持つ庶出だという現実があった。また、何よりも日本の一般社会では男性を女性よりも上に見る男尊女卑の価値観が徹底している。富国強兵を目指す時代でもあり、女帝の選択肢を残すことが日本の国づくりにおいては難しい状況でもあった。
翌年に帰国した伊藤は、悩みながら憲法と皇室典範の作成に着手する。当初は「男系男子を基本としつつ、やむを得ない場合には女系で継ぐ」と考えていた。現に1886年頃に発表した皇室典範の草案「皇室制規」では女系を容認している。
しかし、これに真っ向から異を唱えたのが、伊藤を補佐する立場にあった法制官僚の井上毅だった。彼は嚶鳴社の「女帝を立つるの可否」論争における反対派の意見を引用した反論文「謹具意見」を提出。「女帝を認めず男系男子に限定するべき」と強く主張した。熊本藩士の家に生まれ育った井上は儒教的な男性優位の伝統の中で育ち、そうした信条を彼自身も強く持っていた。
この井上の反論に対して、伊藤は意外なほどあっさりと、これを聞き入れ、女帝容認という自説を手放し、「皇位継承は男系男子に限る」とする井上の意見を取り入れる。だが、その一方で、井上に折れず、自分の意見を押し通した箇所もあった。それが「天皇の譲位(生前退位)」である。江戸時代までは生存中に退位し、天皇の位を次代に譲ることが、当たり前に行なわれていた。井上はこの伝統を残すべきだと主張したが、伊藤は却下し、「天皇は崩御するまで終身、天皇であり続けなければならない」として、生前退位を否定する文言を皇室典範に入れる。生前退位をきっかけに皇統をめぐる争いが起こり、国が乱れることを危惧したからだろう。
「万物は流転する」
瀧井教授が語る。
「伊藤は西洋の慣習を意識していましたが、同時にあまりにも国情から離れた憲法を作ったのでは国に定着せず、うまく運用できなくなる、ということもよく理解していた。だから日本の伝統的な考えを代表する井上の意見にも耳を傾け、折れるところは折れている。男系による万世一系こそ日本の伝統という井上の“発見”を聞いて、そのほうが国もまとまるし、日本の歴史を国際社会にアピールできると合理的な判断を下したのだと思います。井上は、伊藤に比べて非常に理詰めでものを考える人で、机に向かって国学や法律を勉強した熊本藩士の秀才です。
伊藤の根本には、皇室が政治化することを避けたいという考えがあり、天皇はシンボル的な存在であることが望ましいと考えていた。つまり伊藤は今日の象徴天皇制を先取りしていたのです。大権を持った、優れた天皇が統治することを理想視した儒教的な徳治主義者の井上とは、そこも大きく違っていました。伊藤自身は法律そのものに興味があったわけではなく、法律をどう運用するか、どう機能させるかを考えていた。伊藤の中には大きな国家ビジョンがあり、井上のことは法律の文言を考えさせるために重用し、ある種、利用した。井上もそれを悟って死ぬ間際、『自分は伊藤のおかげで人生をし損なった』という言葉を残したのでしょう。
伊藤は『世の中のものは全部、変わっていく。万物は流転する』とも言っています。それが彼の人生哲学でした。一方、井上は、『変わってはいけない不動のものがあるはずだ』と考える。非常に対照的なんです。そうした両者の落としどころが、明治の憲法であり、明治の皇室典範だったんです。あの時代にヨーロッパの文明国に仲間入りするためには、男系男子主義を取らざるを得なかったのだと思いますが、今はまた違った局面を迎えているのではないでしょうか。私は伝統というのはいろんな引き出しのある棚だと思っています。井上はあの時代に『男系』という引き出しを引いた。でも、今の時代に井上がいたなら別の引き出しを開けて、そこから理論を体系化するかもしれない」
時代を見据え、その時代の制約の中で、「女帝」と「生前退位」という2つの伝統を伊藤は憲法と皇室典範において封じた。皇統を安定化させるという目的のために。
廃止できなかった側室制度
その一方で、伊藤が廃止したくとも廃止できない伝統もあった。それが側室制度と庶出である。
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